透明な羽の君へ

 ナツキから「会って話したい」と連絡があったのは、それから数週間後のことだった。ドライフラワーの喫茶店の重い扉を開けると、隅の席に座っているナツキと目が合った。

「こんにちは。急にお呼び立てして、すみません」
「大丈夫です、どうかしました?」

 席につくとミキさんが水を持ってやってきた。「チョコレート、美味しかったよ」と言われ、軽く頭を下げる。ナツキと同じアイスコーヒーを注文した。

「先日は、わざわざありがとうございました」
「いえ。ひよりがお世話になっているので」
「ひよりちゃん、あれから大丈夫ですか?」
「はい。今は前よりも元気になったって感じで……冬休みはアメリカにいる叔母のところで過ごすんだって、いろいろと計画を立てていて楽しそうです」
「そう……それはよかった……」

 やわらかい表情に変わり、安心したように息をつくナツキ。ひよりのことを、本当の妹のように気にかけてくれているのがわかる。

「ナツキさん、ひよりと慎一さんが最後に会った日、ぼろぼろだったひよりの世話をしてくれたんですよね? ありがとうございました」

 ひよりは誰とでも仲良くできるけど、誰にでも心を開けるタイプではない。慎一との結婚の話も、高校の友達は知らないみたいだった。

「わたしは何も……。ただそばにいて、話を聞いただけなので」
「それだけで十分です」

 ひよりのそばに、ナツキのような人がいてくれて良かった。俺はもう、ひよりの心に寄り添える人間じゃないから。

――結婚して家を出たかった

 旅行の帰り、車のなかで眠りに落ちる直前に聞こえてきた言葉。夢ならばどんなに良かったか、思い返せば思い返すほど、あれは現実なのだと思い知る。
 そういえば、慎一はひよりに何をしたんだろう。

「あの……ひよりたちは、どうして別れることになったんでしょう……?」
「聞いても後悔しないですか?」
「え!?」

 そう言われると聞くのがこわい……しかし、想像だけが走ってしまい、結局、真実がわかるまで落ち着かないだろう。

「……話してください」
「わかりました。言葉は選ぶので安心してください」

 ごくりと唾を飲み込む。

「初日の夜、慎一くんはかなり酔っ払ってました。トイレに立ったとき、心配で追いかけてきたひよりちゃんに、いつもとは違うキスをしたらしいです」

 それは、つまり……。
 俺だって男だから、わからなくない。わからなくないけど、兄の立場である俺が聞いていられない話だ。

「ひよりちゃんは驚いて混乱し、激しく拒絶したようです。それなのに慎一くんは、追い打ちをかけるように言った。『僕たち結婚するんだよね? このくらいじゃ――」
「もういいです! 言わなくて大丈夫!」

 ナツキが涼しい顔で目を細める。俺は膝の上で汗ばみ震える手を強く握った。
 なんなんだ、この気持ち。イライラする。だけど同時に、なんでこんなに虚しい?

「ひよりちゃんはまだ17歳です。小さな子どものように結婚に憧れる気持ちと、男に対する幻想がある。こうやって、みんな現実を知っていくんだと思いますよ」
「ひよりに結婚は早かったってことですか」
「はい。とりあえず、カップルクラッシュ大成功です。ある程度わたしが操作しましたが、所詮壊れる時期が早まっただけの話です。罪悪感を抱くのはやめましょう。第一段階は終了ということで、今回ここにお呼びしました」

 第一段階?
 ナツキはストローに口をつけ、静かにコーヒーを吸い上げた。
 カップルクラッシュ大成功なら、これで終わりじゃないのか? 第一段階終了って、まだ続きがあるってこと?

「『透明な羽のオス』の正体、わかりました?」
「え? それは慎一のことじゃ……」

 ナツキは再びストローをくわえて、ほんのりと目だけで微笑んだ。そして唐突に「わたしに訊きたいことがあるんじゃない?」と投げかけたあと、また静かにコーヒーを飲んだ。

「あ、えっと……」

 膝の上で握った手を解き、何度も組み直す。
 知りたい。ひよりが結婚という手段をとってまで家を出たかった理由を。ナツキは俺が眠ったあと、慎一から話の続きを聞いたはずだ。それにナツキのこの言い方、俺が車の中での会話を盗み聞きしていたことに勘づいてるはずだ。ああ、でも確証がない。どうしたら……!

「……ナツキさんは、結婚したいって思ったことありますか?」

 ナツキが視線を上げる。

「もちろん」
「えっ」
「なんで驚くんですか、自分で聞いたんでしょ」
「すみません……」

 ナツキがやれやれと首を横に振ったあと、真剣な顔つきに変わった。

「この人しかいないって思ったとき、結婚したくなります」
「そうですよね、普通は」

 この人が好きだ。他の人と恋愛できなくなるけどそれでもいい。この人を独占したい。自分なら幸せにできる自信がある。結婚とは、そう思えたときに見えてくる選択肢であるべきだ。
 単純に家を出る手段として結婚なんて――

「回りくどい訊き方せずに、はっきり訊けばいいじゃない。ひよりちゃんが結婚したかった理由を詳しく教えてって」
「え、あの」
「あのときの狸寝入り、ばれてるから。慎一くんも気づいていたかはわからないけど」

 いたずらがばれたような恥ずかしさを紛らわすように、思わず身を乗り出す。

「じゃあ聞きますけどっ! 早く家を出たいから結婚したいって、どういうことですか!?」
「言葉のままの意味じゃないですか」
「俺が聞きたいのは、ひよりがそう思ってる原因です。家を出たいってまるで、俺との生活がいやみたいじゃないかよ……」

 ひよりの親代わりとして、兄として、一生懸命やってきたつもりだ。彼女だけは普通の学生生活を送ってほしい。不自由を感じさせたくなくて、炊事洗濯掃除と家事はなんでもこなした。それなのに、どうして。
 コトン、とアイスコーヒーの入ったグラスが机に置かれる音がした。

「これからはカップルクラッシャーでなく、わたし個人として大切な話をします」

 視線を上げる。

「彼女の人生は、彼女だけのものです」
「そんなのわかってます。うちは他の家と違うから、まともな人生を送れるようにって考えて俺は――」
「片倉さんが、あなたがまともだと思う人生を、自分の足で歩みたい。それは結構なことです。他人は口出しできない。それと同時に、ひよりちゃんがどんな人生を歩もうとも、あなたも口出しできません」
「家族なのに」
「家族であっても、人は個人として尊重されるべきです。そこをはき違えているから、家庭内の問題って尽きないんですよ。片倉さんはひよりちゃんのためじゃなくて、自分のために彼女の人生をコントロールしたいんですよ」
「ちがう!!」

 勢いよく立ち上がったせいで、激しい音とともに椅子が倒れたけれど、ナツキは表情ひとつ変えなかった。涼しい顔で俺を見上げている。

「俺は……! 俺は必要以上に干渉しないように、ちゃんと見守ってきたつもりです」
「だったらなぜクラッシュの依頼を? 干渉どころの話じゃないですよね」
「結婚とか大事(おおごと)は別で! ていうか、最後は慎一と結婚してもいいと思ってたし!」

 俺はちゃんと、いつでもひよりのためを思ってやってきた。自分のためなんかじゃない!
 なのになんでだろう。こんなにも冷や汗が伝うのは……。
 ナツキがゆっくりと首を横に振る。
 
「『慎一と結婚してもいい』そういう言い方がもう、彼女の人生を支配下に置きたい証拠ですよ。だからわたしは壊したんです。仮にふたりが結婚したとして、片倉さんはこう思う。『俺がふたりを結婚させた』って。そうやっていつまでも共依存の関係から抜け出せないんです」

 体の奥から湧き上がってくる熱いものを、この場でぶちまけてしまいたい衝動に駆られる。残っていたわずかな理性が、咄嗟に足を出口へと向かわせた。重たいと思っていた木製の扉は軽々と開き、地上へと続く暗い階段を駆け上がる。
 俺がひよりの人生をコントロールしたい? 自分の支配下に置きたい? なんだ、それ――!
 逃げたい。逃げたい。逃げたい。
 どうしようもない現実から、自分の抱えてきた葛藤から、逃げ出してしまいたい。