ひよりと慎一が別れたのは、旅行から帰ってすぐのことだった。
その日は猛暑日で、蝉が勢いよく鳴いていて、午後から雷雨になるらしかった。昼前に出て行ったひよりが戻らないまま空は暗くなり、やがて激しい雷雨になった。心配で勉強が手につかず、迎えに行こうと玄関のドアを開けたとき、全身びしょ濡れのひよりが帰ってきた。うつむいたまま家に入りシャワーを浴びたあと、濡れ髪のまま家を出て行く。雷雨はもう止んでいて、小雨を浴びながら跡を追うと、ひよりとナツキが車に乗り込むのを見た。しばらくして、ポケットの中のスマホが震えた。
――夜までには戻ります。夕飯はこちらで食べさせます。
ナツキからだった。
夜の8時すぎ、帰ってきたひよりは「慎一くんと別れてきた。また別のバイト探さないとね」と微笑む。腫れた目元が痛々しくて、咄嗟に視線を逸らした。
結婚して早く家を出たかった。
あれは夢だったのかどうか、確かめる勇気はまだない。
夏が終わり、2学期に入ると同時に受験モードが加速した。総合型選抜入試は出願が始まっているし、指定校推薦の校内選考も終わったらしい。いよいよ本腰を入れなければと、モデルの仕事も今日で年内は最後になる。
Masaと一緒に現場を出た。春服の撮影をしていたので、流れてくる金木犀の香りにまだ季節は秋だったと実感する。
「次に会えんの、いつごろ?」
「年明けかな」
「うげっ、まだ9月だけど」
「あと3ヶ月もすれば今年が終わるぜ? あっという間だって」
たしかMasaは大学3年のはずだ。就活はどうなっているんだろう。Masaも専属契約はしてないはず。
「Masaはいつまでモデル続けるの?」
「就職したらやめる。だからあと1年ちょいかな」
「就職先は決まった?」
「まだまだ。でも、早ければ年内に終わる」
大学生も忙しいんだな。どこの業界を受けているのか聞こうとしたところで、「喉乾いた。俺のおごり、つきあって」とカフェに寄ろうとする。小さいころからモデル仲間としてやってきたMasaは、うちの事情もよく知っていて、理由をつけてさりげなくおごってくれる。
配管剥き出しの天井と、木目調の家具とのコントラストが印象的なカフェだった。何を飲むかと聞かれ、アイスコーヒーと答え席で待つと「しばらく会えないから。餞別」と、クッキーが添えられていた。
「やっと体重制限からも解放されるな」
「Masaみたいにストイックにはやってなかったけど。あーでも筋トレはしたい」
「次に会うときはバッキバキ?」
「俺だってわかんないくらいにね」
「ウケる」
撮影の仕事は来年の春まで受けていない。肉体改造もしたいけど、まずは受験勉強かなぁと現実を見たとき、ふとMasaが真顔に変わった。
「そういえば、カップルクラッシャーには依頼したのか?」
「あー……いやぁ、なんとかなったから」
依頼したと言えば詳しく訊かれそうだ。面倒だし、どうせバレないから黙っていよう。
鼻をかすめる香りに、慎一がナツキの家で淹れてくれたコーヒーを思い出す。あれは雑味がなくて、とびきり美味しかった。
「そういや、ミサトとは会ってる?」
ミサト。Masaの口から二度と聞くことはないと思っていた名前に、すぐに反応ができなかった。
「最近は全然……。ていうか、瑠奈ちゃんだっけ、彼女と別れたの?」
「いや? 外見も性格も超絶タイプで、全然けんかもしねぇし続いてるよ。ただ……」
Masaがアイスコーヒーをかき混ぜると、プラスチックカップのなかで四角い氷がカラカラと鳴った。
「たまにミサトのこと思い出す」
「……長かったもんな」
「まぁ5、6年くらいだっけ。けんかもしたし、何度も別れようと思ったんだけど、それくらい続いてたんだよな。瑠奈のほうが可愛げがあるし、料理も上手いんだけど、なんか……ミサトのこと思い出す」
「いい女だったって?」
「いや。いま何してるんだろうって」
Masaがスマホを出し、何か打ち込んでから俺のほうに画面を見せた。
「これ、ミサトと浮気してた俳優」
見たことがある顔だと思ったら、ヘアメイク中に読んだ雑誌の表紙の男だった。
「藍原蓮。顔、かっけーよな。雰囲気も良さげ」
Masaによく似た雰囲気だなと思ったことは黙っておいた。短髪に濃い眉、しっかりした骨格。野生的だけど、繊細さも隠し持っていそうな。
「こいつがいなかったら、俺ら続いてたんかな。そんなこと言っても今さらか」
Masaがスマホをしまい、アイスコーヒーを飲んだ。
ナツキだったら、いずれふたりは別れる運命だったとか冷たく放つんだろうか。何も返せなくて、コーヒーに手を伸ばす。苦い味が口の中に広がった。
カフェを出て少し歩いたところに、ガラス張りの店があった。広いカウンターの中を見ながら注文している客が数名いる。
「あーこれ、瑠奈が言ってたチョコレートの専門店だ。平日だと空いてるんだな。ちょっと寄っていい?」
ガラス戸を開き中に入ると、チョコレートの甘い香りに包まれる。宝石のように扱われている一粒一粒を見つめていたら、ナツキの顔が浮かんできた。あいつは甘いものが好きだった。
「洸も買う?」
「や、俺は……」
買わない、と言おうとしたところで店員から季節限定のチョコレートを紹介されてしまった。
ここからドライフラワーの喫茶店が近いことを思い出し、ミキさんとナツキの二人分買っていくことに決めた。慎一と別れたあと、ナツキがひよりのそばにいてくれたおかげで、ひよりは日に日に元気を取り戻している。年上の女性であるナツキは、ひよりにとって良き相談相手らしい。チョコレートはちょっと高いけど、そのお礼、ということで。
Masaと別れ、ドライフラワーの喫茶店に向かう。古本屋の脇にある階段を下りていく。重い扉を開けると、珍しいことに1組の客がいた。20代の男女が、ナツキがいつも座っていた隅のテーブルにいる。
「あれ、洸くん?」
「こんにちは」
ミキさんがエプロンで手を拭きながら出てきた。仕込み中なのか、どこか慌てた雰囲気。
「これ、近くまで来たので」
「わざわざ買ってきてくれたの? ありがとう。あとひとつはナツキへ?」
「はい。妹がいろいろとお世話になってるから」
「ありがとう。ナツキに渡しておくね。またゆっくりお店に来てね」
「お願いします。じゃあ、また」
席にどうぞ、と言われたら断るつもりだったので、すんなり去ることができてよかった。
階段を上りながらナツキに連絡を入れる。送った直後に既読がついて「ありがとう」と返信がきた。
その日は猛暑日で、蝉が勢いよく鳴いていて、午後から雷雨になるらしかった。昼前に出て行ったひよりが戻らないまま空は暗くなり、やがて激しい雷雨になった。心配で勉強が手につかず、迎えに行こうと玄関のドアを開けたとき、全身びしょ濡れのひよりが帰ってきた。うつむいたまま家に入りシャワーを浴びたあと、濡れ髪のまま家を出て行く。雷雨はもう止んでいて、小雨を浴びながら跡を追うと、ひよりとナツキが車に乗り込むのを見た。しばらくして、ポケットの中のスマホが震えた。
――夜までには戻ります。夕飯はこちらで食べさせます。
ナツキからだった。
夜の8時すぎ、帰ってきたひよりは「慎一くんと別れてきた。また別のバイト探さないとね」と微笑む。腫れた目元が痛々しくて、咄嗟に視線を逸らした。
結婚して早く家を出たかった。
あれは夢だったのかどうか、確かめる勇気はまだない。
夏が終わり、2学期に入ると同時に受験モードが加速した。総合型選抜入試は出願が始まっているし、指定校推薦の校内選考も終わったらしい。いよいよ本腰を入れなければと、モデルの仕事も今日で年内は最後になる。
Masaと一緒に現場を出た。春服の撮影をしていたので、流れてくる金木犀の香りにまだ季節は秋だったと実感する。
「次に会えんの、いつごろ?」
「年明けかな」
「うげっ、まだ9月だけど」
「あと3ヶ月もすれば今年が終わるぜ? あっという間だって」
たしかMasaは大学3年のはずだ。就活はどうなっているんだろう。Masaも専属契約はしてないはず。
「Masaはいつまでモデル続けるの?」
「就職したらやめる。だからあと1年ちょいかな」
「就職先は決まった?」
「まだまだ。でも、早ければ年内に終わる」
大学生も忙しいんだな。どこの業界を受けているのか聞こうとしたところで、「喉乾いた。俺のおごり、つきあって」とカフェに寄ろうとする。小さいころからモデル仲間としてやってきたMasaは、うちの事情もよく知っていて、理由をつけてさりげなくおごってくれる。
配管剥き出しの天井と、木目調の家具とのコントラストが印象的なカフェだった。何を飲むかと聞かれ、アイスコーヒーと答え席で待つと「しばらく会えないから。餞別」と、クッキーが添えられていた。
「やっと体重制限からも解放されるな」
「Masaみたいにストイックにはやってなかったけど。あーでも筋トレはしたい」
「次に会うときはバッキバキ?」
「俺だってわかんないくらいにね」
「ウケる」
撮影の仕事は来年の春まで受けていない。肉体改造もしたいけど、まずは受験勉強かなぁと現実を見たとき、ふとMasaが真顔に変わった。
「そういえば、カップルクラッシャーには依頼したのか?」
「あー……いやぁ、なんとかなったから」
依頼したと言えば詳しく訊かれそうだ。面倒だし、どうせバレないから黙っていよう。
鼻をかすめる香りに、慎一がナツキの家で淹れてくれたコーヒーを思い出す。あれは雑味がなくて、とびきり美味しかった。
「そういや、ミサトとは会ってる?」
ミサト。Masaの口から二度と聞くことはないと思っていた名前に、すぐに反応ができなかった。
「最近は全然……。ていうか、瑠奈ちゃんだっけ、彼女と別れたの?」
「いや? 外見も性格も超絶タイプで、全然けんかもしねぇし続いてるよ。ただ……」
Masaがアイスコーヒーをかき混ぜると、プラスチックカップのなかで四角い氷がカラカラと鳴った。
「たまにミサトのこと思い出す」
「……長かったもんな」
「まぁ5、6年くらいだっけ。けんかもしたし、何度も別れようと思ったんだけど、それくらい続いてたんだよな。瑠奈のほうが可愛げがあるし、料理も上手いんだけど、なんか……ミサトのこと思い出す」
「いい女だったって?」
「いや。いま何してるんだろうって」
Masaがスマホを出し、何か打ち込んでから俺のほうに画面を見せた。
「これ、ミサトと浮気してた俳優」
見たことがある顔だと思ったら、ヘアメイク中に読んだ雑誌の表紙の男だった。
「藍原蓮。顔、かっけーよな。雰囲気も良さげ」
Masaによく似た雰囲気だなと思ったことは黙っておいた。短髪に濃い眉、しっかりした骨格。野生的だけど、繊細さも隠し持っていそうな。
「こいつがいなかったら、俺ら続いてたんかな。そんなこと言っても今さらか」
Masaがスマホをしまい、アイスコーヒーを飲んだ。
ナツキだったら、いずれふたりは別れる運命だったとか冷たく放つんだろうか。何も返せなくて、コーヒーに手を伸ばす。苦い味が口の中に広がった。
カフェを出て少し歩いたところに、ガラス張りの店があった。広いカウンターの中を見ながら注文している客が数名いる。
「あーこれ、瑠奈が言ってたチョコレートの専門店だ。平日だと空いてるんだな。ちょっと寄っていい?」
ガラス戸を開き中に入ると、チョコレートの甘い香りに包まれる。宝石のように扱われている一粒一粒を見つめていたら、ナツキの顔が浮かんできた。あいつは甘いものが好きだった。
「洸も買う?」
「や、俺は……」
買わない、と言おうとしたところで店員から季節限定のチョコレートを紹介されてしまった。
ここからドライフラワーの喫茶店が近いことを思い出し、ミキさんとナツキの二人分買っていくことに決めた。慎一と別れたあと、ナツキがひよりのそばにいてくれたおかげで、ひよりは日に日に元気を取り戻している。年上の女性であるナツキは、ひよりにとって良き相談相手らしい。チョコレートはちょっと高いけど、そのお礼、ということで。
Masaと別れ、ドライフラワーの喫茶店に向かう。古本屋の脇にある階段を下りていく。重い扉を開けると、珍しいことに1組の客がいた。20代の男女が、ナツキがいつも座っていた隅のテーブルにいる。
「あれ、洸くん?」
「こんにちは」
ミキさんがエプロンで手を拭きながら出てきた。仕込み中なのか、どこか慌てた雰囲気。
「これ、近くまで来たので」
「わざわざ買ってきてくれたの? ありがとう。あとひとつはナツキへ?」
「はい。妹がいろいろとお世話になってるから」
「ありがとう。ナツキに渡しておくね。またゆっくりお店に来てね」
「お願いします。じゃあ、また」
席にどうぞ、と言われたら断るつもりだったので、すんなり去ることができてよかった。
階段を上りながらナツキに連絡を入れる。送った直後に既読がついて「ありがとう」と返信がきた。


