透明な羽の君へ

 ピ、ピ、ピ……と控えめに鳴る目覚ましの音で起こされた。手を伸ばしアラームだけ止める。陽気に鳴き続ける鳥の声を消すように、深いため息をつく。

――わたし来年結婚する

 なんだあれは。誕生日に結婚宣言? あまりにも衝撃的すぎて、それ以降の記憶が全くない。ということは、もしかしたら夢……なんて淡い期待は部屋を出た途端に打ち砕かれた。焦げくさいし、やたらと騒がしい。階段を下りキッチンをのぞいたとき、いやな予感は的中した。

「お兄ちゃん、おはよう。朝ごはん、もうすぐできるから」

 料理が苦手なひよりが、朝ごはんなんて作ってる理由は……

「結婚するんだから、このくらい作れるようにならなきゃね!」

 やっぱり。ぐさりと突かれた痛みを堪えつつ「味噌汁、沸騰してるけどね」と指摘する。
 昨日、記憶がないまま炊飯予約した米だけは無事だった。味の薄い味噌汁(やたら具沢山)と、焦げた卵焼きを食べたころには出なければならない時間になっていて、結局ふたり揃って遅刻になった。
 昼休み。大也に手元をのぞかれる。

「洸(こう)、今日パン? 珍しい」
「弁当つくれなくて」
「遅刻もしてたよな。なんかあった?」
「単なる寝坊」

 節約のため毎日つくっている弁当用の食材は、味噌汁の具と化していた。今週は買い物に行かずにやりくりするつもりだったのに、ひよりは我が家の財布事情をわかっているんだろうか。
 父さんは俺が1歳のとき病気で亡くなり、母さんも中学生のとき事故で亡くなった。幸い家もあるし、それなりに遺産もあるが贅沢できるわけじゃない。

「めっちゃ眉間にしわ寄ってるけど。悩みなら聞くぞー」
「大也、結婚したい?」
「は!?」

 茶化せる雰囲気ではないと察したのか、大也が「結婚……」と繰り返す。しばらくして「考えらんねぇ!」と明るく言い放った。

「法律的には結婚できる歳だとしても、まだ学生だし。それに、いろんな人と恋愛したい。ひとりに縛られるのは勘弁」
「縛られてもいいって人に出会ったら?」
「えー、ていうか洸は出会っちゃったの?」

 笑って首を横に振る。手のかかる妹と自分たちの生活のことで頭がいっぱいで、運命の恋どころか普通の恋愛さえする余裕がない。

「じゃあなんで結婚なんて聞いてくんの? もしかして、ひよりちゃんが――」
「ない、ない!」

 今のひよりに結婚なんて無理だ。絶対に。

「だよなぁ。あ、でも、妊娠させちゃったら結婚なんかな」



――妊娠だと?

 

 急に立ち上がった俺を、大也がぽかんとした顔で見上げる。食べかけのコロッケパンを残し、ひよりの教室へと走り出した。

「ひより!」

 2年A組の入り口から叫ぶと、教室内にいた全ての生徒が一斉に俺を見た。

「お兄ちゃん!」

 こっちに向かってくるひよりの腹を見つめる。まだわかりやすく膨らんではいない。
 廊下でひよりと向かい合っていると、「片倉先輩だ」とひそひそ話す声が聞こえる。前生徒会長の俺と年子の妹ひよりは、校内ではちょっとした有名人らしいと大也から聞いた。俺がモデル活動をしているからか、年子の兄妹が同じ高校に通っているのが珍しいからか、理由はわからないけど。

「ちょっと話がある」

 不安気に瞳を揺らす、ひよりの手を引いて屋上へと向かった。
 扉を開けた瞬間、風が吹き抜け、汗ばんだ額を冷やしてくれた。落ち着け、冷静にと胸の内で唱えながら日陰に座ると、仏頂面のひよりが目の前で仁王立ちする。

「話ってなに!?」

 風になびく長い髪をおさえる手が震えているように見える。

「急にごめんな。昨日の話の続きなんだけど」
「うん」
「ひより、まさか妊娠してないよな?」

 しばらく目をぱちぱちさせていたひよりに、「……覚えてないの?」と聞かれる。答えはイエスなのかノーなのかと焦りつつ、妊娠について話があったのか記憶を辿ってみたけれど。

「覚えてない……」
「はぁ~」

 がっくりと肩を落としたひよりが、よろよろと隣に座った。

「お兄ちゃんったら、わたし言ったよ? 『妊娠はしてない』って」

 今度は俺が目をぱちぱちさせる。それからひよりは、妊娠はしてないけれど18になったら結婚したい人がいること、相手はバイトがきっかけで知り合った大学生なこと、正式なプロポーズはまだだが結婚することで話が進んでいることを話した。

「ぜーんぶ昨日言ったことだよ」
「ごめん。ぜんぶ頭スルーしてたわ」
「お兄ちゃんって、しっかりしてるのか抜けてるのかわかんない」

 結婚するなんて言われてショックだったんじゃん。またひとつ、言いたいことを飲み込む。良い兄でいるために。
 それにしても、冷静な頭で聞けば聞くほど怪しい。大学生の分際で高校生と結婚したいなんて、どこのどいつだ?

「バイトで一緒の人?」
「ううん。近くにできた珈琲屋さんの息子。うちで焼いたお菓子を納品してて、それがきっかけ。って昨日も言ったよね?」
「だから覚えてないの! ごめんだけど答えて。大学何年生?」
「2年生」

 大学2年で結婚? やつは富豪の珈琲屋か?

「もっと大人になるまで待てないのか? ひよりも、これから大学行ったり仕事したり……自分の人生があるだろ? 結婚はお互いに自立してからで――」
「今は18歳になったらお互いの意思だけで結婚できるんだよ。大学や仕事はそれからでいい」
「あのなぁ、そんなにも」

――そんなにも、そいつのことが好きなのか? 
 言いかけてやめた。聞いたところでどうしようもない。

「結婚についての正式な挨拶は、わたしが18になってからする。詳しいことはそのときに話すから。とりあえず、お兄ちゃんといられる最後の1年、仲良く過ごしたいの。けんかはやめよ?」
「……最後なんて」
「そりゃ兄妹関係は一生続くけどさ! お兄ちゃんも、あと少しで18歳でしょ? 祝☆成人なんだし、自分の人生考えてよ」
「考えてるよ。けどさ」

 タイミングよくチャイムが鳴り、「次、体育だった! 着替えなきゃ」と走り去ろうとした背中が翻った。

「お兄ちゃん、今日仕事だよね。夕飯は作っておくからー!」

 買い物行かないと食材ないよとか、食費として使える金額あとこのくらいとか、もうどうでもよくなってくる。ひよりが去ったあと、深いため息をつき空を仰いだ。雲ひとつない快晴が憎い。
 ひよりなんて知らないと手放すのは簡単だ。だけど何より大事にしてきた妹で、やっぱりちゃんと普通の幸せを手にしてほしい。大学を出て、就職して、結婚して。このご時世、結婚も出産もしなくていいかもだけど、それならば一人で生きていくだけの稼ぎがないと。
 
「……よし!」

 立ち上がり、思い切り伸びをする。
 ひよりの結婚は、俺が潰す。