透明な羽の君へ

 早朝、慎一が部屋を出ていく音で目が覚めた。ランニングに行くのだろうか。起き上がり、まだ薄暗い部屋を見渡した。
 コテージの扉が閉まる音が聞こえてからベッドを下りる。リビングへと向かう途中、ひよりとナツキの部屋を通り過ぎた。物音ひとつしない。昨夜は遅くまで女子会をしていたようで、まだ起きてこないだろう。
 冷蔵庫からペットボトルを取り出し、一口含む。冷たい水が、寝起きの体に沁みていく。

――洸くん

 名前で呼ばれたのに、不思議なことに親しみやすさは感じなかった。呼び方が変わったのは、ナツキとバーで飲んでからだ。おそらくナツキは慎一に、ひよりが結婚を迷ってると告げ口をしたに違いない。それを聞いた慎一も、もう結婚はやめようと決めた。彼にとって俺は、義理の兄(お兄さん)ではなく片倉洸というただの高校生になった――。
 ナツキを問い詰めてもきっと、遅かれ早かれこのふたりは別れる運命だったとか言うんだろう。問題は、そこに他人が介入したことだ。もとはと言えば、俺がナツキにふたりの関係を壊してほしいと依頼したせいで……ばかだった。取り返しのつかないことをしてしまった。
 ため息がこぼれる。この重い空気を早朝の澄んだ光に洗ってもらいたいと、静かにカーテンを開けた。


「あっという間だったね」

 コテージを見上げながら、ひよりがぽつりと呟く。荷物を積み込みながら小さく同意した。

「改めてナツキさん、素敵なところに泊まらせてくれてありがとうございました」

 丁寧にお礼を述べる慎一に、俺も「ありがとうございました」と慌てて続く。ナツキは目を細めたあと「そう言ってくださり安心しました」と頭を下げた。
 駐車場の脇に植えられた向日葵を、慎一とひよりが眺めている。表面上は、こわいくらいにいつも通り。だけど。

「そういえば洸くん、引き出しの中は全部見たっけ」
「えっと……はい、見ました。何もなかったです」
「オッケー、ありがとう」

 名前呼び、そして敬語使いも消えている。俺のほうが年下なのだから当たり前だが以前は違った。旅行を経て仲良くなったとか、そんな理由じゃないだろう。
 車に乗り込み、慎一がエンジンをかける。

「よし、出発」
「ばいばーい!」

 ひよりがコテージやホテル棟に手を振る。また来るね、とは、ひよりさえも言わなかった。特別けんかなど起きなかったのに、確実に終わってしまったものがある。彼女だけでなくそれぞれに、4人での旅行は今日が最後なのだと感じていた。
 しばらく走ったところで、ひよりは眠ってしまった。俺も車の揺れが心地よくてうとうとしていると、抑えた声の会話が聞こえてくる。

「このまま直帰でいいですよね? 釣りとかします?」
「このまま直帰でお願いします」

 あはは、と慎一が軽快に笑う。ナツキは魚が苦手だ。

「慎一さん、楽しかったですか?」

 ナツキが問う。空気が重くなったのを察して、咄嗟に目を瞑り寝たふりをした。寝息めいた呼吸をしながら耳を澄ます。

「楽しかったですよ?」
「いい思い出になりましたね」
「はは。いい思い出になっちゃいました」

 力のない笑いが切なかった。

「ナツキさんは、ひよりちゃんとすごく仲良くなりましたね」
「はい。あんな良い子とつき合ってたなんて、慎一さんが羨ましすぎます」
「そうですか。でも……うん。ひよりちゃんのこと、よろしくお願いしますね」
「もちろん」

 たぶん、慎一から別れを切り出すんだろう。慎一もひよりも、お互いきらいになったとか、他に好きな人ができたわけじゃない。詳しくはわからないけど、結婚に対する熱量が違ってしまって、一緒にはいられなくなったってことだろう。そういうわかりにくい理由で別れを告げるほうも、告げられるほうも痛い。
 ナツキを姉のように慕うひより。彼女がひよりのことを支えてくれるといいな。もちろん俺もいるけど、同性のほうが話しやすいこともあるだろうから。
 うっすらと眠気がやってきた。やばい、寝そう――

「そういえば以前紹介してくれた女性、あの子まだフリーですか?」

――紹介、女性?
 一気に眠気が遠のく。いつの話だろう。もしかしたら、慎一に他の女を近づけることでひよりとの仲を裂こうとしたんだろうか。

「……今はそんな話、すべきじゃないかと。ふたりとも、いつ起きるかわからないですよ」
「だって、ナツキさんとも会えなくなるから今聞いておかないと」
「言っておきますが、紹介したわけじゃないです」
「ちがうんだ? あの子、あからさまな態度だったけどなー。そこまでして僕とひよりちゃんの仲を裂きたいんだなぁって思ったら、すごいタイプな子がせまってきても逆に萎えちゃって」

 ナツキが慎一とひよりの仲を裂きたいって、どうして知ってる……? ナツキは何も返さない。

「僕とひよりちゃんの関係を壊して面白いですか?」
「八つ当たりはやめてください。わたしは魔法使いじゃありません。他人の気持ちを変えることはできません。ひよりちゃんがあなたを拒んだ。これが直接的な原因でしょ。結婚となれば深い関係になることは避けられませんから、遅かれ早かれ同じ結論になっていたと思いますよ」

 慎一の乾いた笑いが車内に響く。

「八つ当たり……たしかに、そうかもしれないな。あんな風に拒まれたこと初めてで、けっこうショックでした。ふたりきりになるのも避けられて……せっかく洸くんに認めてもらったのになぁ」
「こればっかりは仕方ないですね。慎一さんに魅力がないわけじゃないですから」
「ありがとうございます。いろいろと勉強になりました。これも昔、散々やらかした罰かな。しばらく恋愛はいいや! コーヒーを極めることにします」

 話は終わったのか、会話がなくなった。いよいよ眠くなったところで「最後にひとつだけ」慎一が囁く。

「ひよりちゃんは僕のことが好きだから結婚したかったんじゃない。結婚をして早く家を出たかっただけ」

 結婚をして早く家を出たかった……?
 これは夢だろうか。考える間もなく、深い沼に引きずられるようにして眠りに落ちていった。