透明な羽の君へ

 朝ごはんもビュッフェだった。ドリンクの並ぶテーブルでオレンジジュースを注いでいると、「お兄ちゃん、わたしのも」と手元にグラスを置かれた。

「寝れた?」
「まぁまぁかな……お兄ちゃんは?」
「俺も……まぁまぁ」
「昨日は驚かせてごめんね。あれから、ナツキさんがたくさん話を聞いてくれたの」
「そうなんだ」
 
 ナツキに聞けば、ひよりが泣いた理由がわかる。おそらく俺が詰め寄ったからに違いない。責めるような言い方をしてごめんと謝らないと――

「お兄ちゃんの言うとおり。わたしは何も答えられない」

 ビュッフェ会場の喧噪が、一気に遠のく。「……どういうこと?」

「慎一くんの想いと同じものを返せない。結婚は……まだ無理だってわかったの」


――結婚は、まだ無理?


 オレンジジュースの入ったガラス瓶を握りしめたまま固まっていると、子どもに「それ、ぼくにもついでくれる?」と頼まれ、言われるがままコップに注ぐ。手元が震えてうまく注げない。少しだけこぼれたことは気にもせず、コップを抱えて立ち去る背中を呆然と眺めていた。

「……お兄ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫……ていうか、結婚はまだ無理って、なんで? どうして」
「声が大きいよ! 慎一くんにはまだ言ってないんだから」
「いつ言うんだよ」
「この旅行が終わったら」

 昨夜、ひよりを慰めながらナツキがうまく操作したんだろう。そもそも今回の旅行のゴールは、ひよりに結婚を迷わせることだった。ひよりは結婚を迷うどころか、結婚自体をやめた。なのに俺は慎一に、結婚を認めるなんて言ってしまった――。
 
「ふたりとも、どうしたの」
「ぎゃっ」

 グラス片手にナツキが立っていた。驚きすぎて体が飛び跳ねた拍子にガラス瓶が揺れ、転がり落ちそうなところでナツキの手が伸びた。

「……危ない」

 男みたいな低い声で睨まれた。ジュースの瓶を倒しそうになったから? それとも……慎一とひよりの結婚を認めてしまったから? 俺はナツキを裏切った。ナツキはちゃんと、ひよりを説得してくれたのに。

「ひよりちゃん、早く食べないと。今日はこれから出かけるんでしょ」
「そうだった! お兄ちゃん、今日は遊園地に行くんだよ! 昨日、ナツキさんと相談して決めちゃった♪ いいでしょ?」
「あ……うん」

 席に戻るひよりに続こうとしたところで、服の裾を引っ張られた。

「慎一くんから聞きましたよ?」
「あー……はい……」
「ひよりちゃんから聞きましたか?」
「はい……結婚はやめるって」
「どうします? これから」

 どうしよう。裏切ってしまったことは平謝りするしかない。そして関わっておきながら無責任かもしれないけど、あとはふたりで話し合ってもらって決めてもらうしか――

「このまま壊すよ。完全に」

 静かだけど、強い意思を感じる声。今の時点でもう壊れてるのに、なんでそんなこと。

「マリッジブルー」
「マリッジブルー? ひよりが?」
「そうです。結婚前の漠然とした不安。そんなもの、片倉さんから結婚許可を得た今の慎一さんなら一瞬で払拭させてしまいます」

 そうかもしれないけど、俺はもう結婚を認めてる。だからふたりの関係には口を出さないでいたい。

「彼の説得でひよりが結婚を決意し直しても、このまま壊れても、介入するのはやめましょうよ」
「片倉さんはそれでいいんですか」
「はい。今朝、慎一さんと話したんです。ナツキさんが言ったとおり、彼の過去は最悪でした。でも、ひよりと会って変わったって。俺は彼の言葉を信じたいんです。それに依頼しておいて何なんだよって思うかもしれないけど、結婚はそもそも当事者同士の問題で、他人が口を出すことじゃないでしょ?」
「たしかに結婚は当事者同士の問題です。けれどここで終わってしまったら、結局なにも変わらない」
「え? ちょっとナツキさん――」

 ナツキは空のままのグラスを持ち、席のほうへと戻ってしまった。
 ひよりが結婚を望んでいないのなら、このままふたりの関係が壊れてしまっても問題ないか? だけど慎一はどうなる。ひよりのこと、あんなに大事に想ってくれているのに。
 ぬるくなったオレンジジュースを飲み干し、ビュッフェ会場を出た。みんなと食事できる気がしなくて、ひとり部屋へと戻った。