透明な羽の君へ

 差し込む陽光が下草を照らす。揺れる木漏れ日を辿るように、森の中の小道を行く。早朝は肌寒いくらいで、まだ誰も触っていない澄んだ空気を吸い込みながら、ただただ歩く。

――お兄ちゃん、ごめんなさい

 ひよりの口から出たのは、慎一への愛の誓いではなく、俺への謝罪だった。どういうことか訊こうにも、ぽろぽろと泣き出してしまったので話ができず、星空観察はお開きになった。ひよりはナツキに連れられ部屋に戻り、俺と慎一も気まずい雰囲気のまま床についた。早朝に目が覚め、慎一を起こさないようそっと部屋を出た。
 視界が開けて湖に出る。静かに釣りをしている人がいる。湖畔にあった朽ちかけたベンチに腰を下ろし、ふぅと息をついた。

「『ごめんなさい』って……」

 爽やかな朝に似合わない、悲しみに満ちた言葉。なんで。俺に謝らなければならないことがあるんだろうか……?

「お兄さん」

 振り向くと、ランニングウェア姿の慎一がいた。

「先を越されてしまいました」
「わざわざ持ってきたんですか? ウェアとシューズ」

 慎一が軽快に走り寄り、隣に座る。

「ランニング、趣味なんです。旅先には必ず一式持って行くようにしています」

 なんだか悠々自適なおじさんみたいだな。そう思っていると「おじさんみたいって思ったでしょ」と突っ込まれ、思わず頷いてしまった。

「よく言われます。ハタチの大学生には思えない、おじさんみたいだなって」
「慎一さん、落ち着いてるから。でも俺も言われますよ、高校生に思えないって」
「お兄さんは昔から大人に囲まれて仕事してるから。すごいと思います」
「それだったら慎一さんだって。家の珈琲屋を手伝いながら、Web関係の仕事もしてるって聞いてます」

 謙遜し合う妙な空気に小さく笑い合った。ゆるやかな空気が流れていく。鳥がさえずり、遠くで水の跳ねる音がした。何か釣れたのかもしれない。

「……ひよりちゃん、大丈夫かな」

 つらそうな横顔からひよりへの想いが滲み出ていて、反射的に彼のことを信じたくなった。

「訊きたいことがあります。慎一さんの過去の恋愛、教えてもらってもいいですか?」
「過去の……?」

 ほんの少しだけ、空気が変わった。

「今まで何人の人とつき合って、どんな恋愛をしてきたか教えてほしいんです」
「何のために? 参考になるのかな」

 また遠くで水の跳ねる音がした。水中で逃げ惑う魚を想像しながら、慎一を逃すまいと見つめる。

「過去の僕と今の僕は違うよ」
「それは過去の自分を否定したいってことですか?」
「……そういうわけじゃないよ。聞きたいなら言います。ただ、何が目的なのか先に教えてください」
「目的? 目的なんて」
「僕の過去が最悪だったら、ひよりちゃんとの結婚を認めない、とか」
「仮に俺が認めたくないって言っても、18になったら本人の意思だけで結婚できますよね」
「そうだけど、僕はちゃんと、お兄さんにも認めてもらいたいです」 

 慎一が立ち上がって、頭を下げた。

「過去に関係した女性の数は、十指(じっし)に余るほどというか……数えきれない。ただ、真剣な交際は0。その場の成り行きや、女性のほうから告白されてつき合いました」

 関係した人数は数えきれない、なのに真剣交際は0と言い切れる。
 信じられなくて、瞬きを繰り返す。

「正直、クソみたいなやつでした。結婚はいずれできたらいいけど、30歳くらいまでは適当に遊ぶつもりでした。最悪ですよね」

 爽やかな早朝に似合わない告白。慎一が顔を上げた。

「全然そんな印象ないですよね。僕、見た目が地味だから」

 顔も背の高さも平均。黒縁メガネで真面目な印象。ナツキからの事前情報がなければ、クズ男だなんて思わなかった。正確には元クズ男だけど。

「ひよりちゃんのことは、初めて会ったときから可愛いと思ってました。だけどまだ高校生だから妹という感じにしか見ていなかった。親しくなって告白されても最初は断っていたんです。単に年上への憧れだと思ったし、高校生とつき合う気はなかったから」

 ひよりから好きになり、告白したなんて知らなかった。最初は断られていたことも。

「たいていの子は、僕が断ると諦めるんです。だけどひよりちゃんは何度も言ってきてくれた。だんだんと僕のなかで彼女の存在が大きくなってきて、この子とつき合うなら覚悟を決めようと思いました。こんな風に思えるのは初めてだった。僕は彼女と結婚したい。ひよりさんとの結婚を認めてください」

 やわらかな風が頬をくすぐって、慎一の願いを叶えてくれとささやいている。
 慎一の誓いが嘘になる日がくるかもしれない。そうだとしても、今、俺は目の前の彼の言葉を信じたい。
 静かに立ち上がる。

「……ひよりのこと、よろしくお願いします」

 遅かれ早かれ、ひよりは結婚する。予想よりもだいぶ早かったけど、一緒にいられる残り少ない時間を大切にしようと思った。