ナツキの住むマンションは、都内でも有名な高級住宅街にあった。エントランスは吹き抜けになっていて、革張りのソファとガラスのテーブルが品よく配置されている。ところどころに絵や置物が飾られていて、さながら高級ホテルのロビーだ。
「あいつ、一体どんだけ稼いでんだ」
「仕事の話はしてくれないんだけど、卒業した大学は教えてくれたよ。なんと」
言わずと知れた日本一の大学に、慎一とふたりで目を丸くした。なるほど。何を考えているかわからない態度や独特な雰囲気は、彼女が天才だからかとやけに納得する。
先頭を歩いていたひよりが、エレベーター前のインターホンを押した。
「ここでもインターホン? エントランス入る前にもあったよな」
「エレベーターは訪問階にしか止まらないの。ここで確認したあと点灯したエレベーターに乗り込めば連れて行ってくれる」
「ほえー。ていうか、なんでそんなことまで知ってんの」
「これで5回目だもん」
家に行くほどの仲だとは思わなかった。しかも5回。嫉妬めいた感情を抑え、これまた広々としたエレベーターに乗り込む。
「慎一くんは初めてだよね」
「うん。こんな高級マンション初めてだから緊張してる」
肩をすくめて控えめに笑う。改めて慎一を前にして思う。彼は、誰にも緊張感を抱かせない。背の高さも体つきも顔も全てが平均で、とがった派手さがないからだろう。表情も声もやわらかく、周りの誰も拒まない。褒め言葉として適当かわからないけど、まるで植物みたいな男。
エレベーターの扉が開く。共用の廊下は照明が抑えられていて、やわらかな絨毯が足音を吸い込む。ひよりは迷うことなく進み、本日3度目のインターホンを押した。
「いらっしゃい」
玄関ドアの向こうで微笑んでいたのは、ドライフラワーの喫茶店の店主だった。「あ」と声が出そうなところを堪える。奥から歩いてきたナツキが横目で咎めるようにしたあと、「こんばんは」と静かに微笑んだ。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
慎一は爽やかに挨拶をして、手土産と思われる箱を渡す。何も準備していないとあたふたしていると、ひよりがトートバッグからバイト先のパン屋のロゴが描かれた紙袋を差し出した。
「これ、ナツキさんが欲しいって言ってたサマーシュトーレン」
「ありがとう、ひよりちゃん」
意外としっかりしているひよりを目の当たりにし、安心と戸惑いで立ち尽くしていると、ナツキに鼻で笑われた。
兄なのに知らないのかと言われた気がして、かすかな憤りを感じた。だけど……。手をぎゅっと握りしめる。俺はひよりのことを、どれだけわかっているんだろう。
ダイニングテーブルには、大皿にたくさんの料理が並べられていた。根菜のサラダ、茶碗蒸し、手毬寿司に揚げたての天麩羅が加わる。すべてドライフラワーの喫茶店の店主であるミキさんが作ってくれたらしい。彼女がミキさんということも、ナツキの従姉妹であることも今日はじめて知った。
「学生さんには渋かったかしら」
「とんでもないです。こんなご馳走……ミキさん、ありがとうございます」
歓声を上げるだけのひよりとは違い、慎一は丁寧にお礼を言ってから箸を取った。
「いただきます」
「たくさん食べてね」
「わー!」
揚げ物が大好きなひよりが天麩羅に箸を伸ばす。美味しいと頬張るひよりの笑顔が本当に幸せそうで、ミキさんはとても嬉しそうだ。ひよりが近くにあった手毬寿司をナツキにすすめると、ミキさんが「ナツキは生ものは食べられないの」と微笑んだ。
「あれ、そうなの? ナツキさんは何でもたくさん食べるイメージだった」
「生魚だけは苦手で」
「わかります。僕も昔は刺身が苦手だったんですが、石川に旅行したときに食べた刺身が美味くて克服できました。この手毬寿司、とっても美味しいです」
「ほんとだ美味しいー! ナツキさんも食べてみなよう」
「……わたしはいいや。ひよりちゃん、食べて」
盛り上がるひよりたちを横目に、根菜のサラダをつつく。高級マンションの一室で食べる豪華な料理。こんなこと初めてで居心地が悪いのに、ひよりはすっかり馴染んでいるように見える。金持ちの友人と、非の打ちどころのない年上の彼氏。俺の知らない世界で幸せそうなひより。
「料理っていえば、お兄さんもお料理上手なんですよね」
急に話をふられ顔を上げた。慎一が微笑んでいる。話に入れない俺を気遣ってくれたのだとわかった。
「そうそう! お兄ちゃんは、冷蔵庫にあるものだけで美味しい料理が作れるの。まるで魔法みたい」
「すごいな~。わたしはレシピ優先で買い物しちゃうから、余らせちゃう食材とかあって」
「僕は料理が作れないから、本当に尊敬します。ひよりちゃんからいつも、お兄さんが作ったごはんのこと聞いてるんですよ」
「いや俺なんてそんな……」
一気に話題の中心になり、うろたえてしまう。それからも慎一は、さりげなく話の輪に入れてくれた。
食後は慎一がコーヒーを淹れてくれるという。キッチンに向かう背中を追いかける。
「あの、邪魔じゃなかったらお手伝いしていいですか?」
お礼がしたかった。慎一は「もちろん」と笑って、紙袋からコーヒーミルを出し、豆を挽いてほしいと言った。
「豆、挽くの初めてですか?」
「はい。けっこう硬いんですね」
ごりごりと珈琲豆を砕く音に、罪悪感が膨れ上がる。豆を挽き終わり、ミルを手渡すと同時に「ありがとうございました」と頭を下げた。慎一は「妹の友達と彼氏と食事なんて緊張しますよね」と目を細める。俺は曖昧に笑うことしかできなかった。
コーヒーを淹れる横顔を見つめる。ああ、慎一は瞳が綺麗なんだ。深く、澄んでいる。
もっと出会う時期が遅かったら、俺は彼とひよりの結婚に反対しなかったかもしれない。ひよりが20代後半くらいだったら、素敵な人と出会えてよかったなと言ってあげられたかもしれない。
どうして結婚を急ぐんですかと、その横顔に問おうとしてやめた。澄んだ瞳で「どうして早くに一緒になることがだめなんですか」と聞き返されたら、答えに詰まりそうだ。早すぎるからですと、答えにならない答えしか思いつかない。
「うん、美味しい。お兄さん、お先にどうぞ」
慎一の淹れてくれたコーヒーは、雑味がなくてとびきり美味しかった。
「あいつ、一体どんだけ稼いでんだ」
「仕事の話はしてくれないんだけど、卒業した大学は教えてくれたよ。なんと」
言わずと知れた日本一の大学に、慎一とふたりで目を丸くした。なるほど。何を考えているかわからない態度や独特な雰囲気は、彼女が天才だからかとやけに納得する。
先頭を歩いていたひよりが、エレベーター前のインターホンを押した。
「ここでもインターホン? エントランス入る前にもあったよな」
「エレベーターは訪問階にしか止まらないの。ここで確認したあと点灯したエレベーターに乗り込めば連れて行ってくれる」
「ほえー。ていうか、なんでそんなことまで知ってんの」
「これで5回目だもん」
家に行くほどの仲だとは思わなかった。しかも5回。嫉妬めいた感情を抑え、これまた広々としたエレベーターに乗り込む。
「慎一くんは初めてだよね」
「うん。こんな高級マンション初めてだから緊張してる」
肩をすくめて控えめに笑う。改めて慎一を前にして思う。彼は、誰にも緊張感を抱かせない。背の高さも体つきも顔も全てが平均で、とがった派手さがないからだろう。表情も声もやわらかく、周りの誰も拒まない。褒め言葉として適当かわからないけど、まるで植物みたいな男。
エレベーターの扉が開く。共用の廊下は照明が抑えられていて、やわらかな絨毯が足音を吸い込む。ひよりは迷うことなく進み、本日3度目のインターホンを押した。
「いらっしゃい」
玄関ドアの向こうで微笑んでいたのは、ドライフラワーの喫茶店の店主だった。「あ」と声が出そうなところを堪える。奥から歩いてきたナツキが横目で咎めるようにしたあと、「こんばんは」と静かに微笑んだ。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
慎一は爽やかに挨拶をして、手土産と思われる箱を渡す。何も準備していないとあたふたしていると、ひよりがトートバッグからバイト先のパン屋のロゴが描かれた紙袋を差し出した。
「これ、ナツキさんが欲しいって言ってたサマーシュトーレン」
「ありがとう、ひよりちゃん」
意外としっかりしているひよりを目の当たりにし、安心と戸惑いで立ち尽くしていると、ナツキに鼻で笑われた。
兄なのに知らないのかと言われた気がして、かすかな憤りを感じた。だけど……。手をぎゅっと握りしめる。俺はひよりのことを、どれだけわかっているんだろう。
ダイニングテーブルには、大皿にたくさんの料理が並べられていた。根菜のサラダ、茶碗蒸し、手毬寿司に揚げたての天麩羅が加わる。すべてドライフラワーの喫茶店の店主であるミキさんが作ってくれたらしい。彼女がミキさんということも、ナツキの従姉妹であることも今日はじめて知った。
「学生さんには渋かったかしら」
「とんでもないです。こんなご馳走……ミキさん、ありがとうございます」
歓声を上げるだけのひよりとは違い、慎一は丁寧にお礼を言ってから箸を取った。
「いただきます」
「たくさん食べてね」
「わー!」
揚げ物が大好きなひよりが天麩羅に箸を伸ばす。美味しいと頬張るひよりの笑顔が本当に幸せそうで、ミキさんはとても嬉しそうだ。ひよりが近くにあった手毬寿司をナツキにすすめると、ミキさんが「ナツキは生ものは食べられないの」と微笑んだ。
「あれ、そうなの? ナツキさんは何でもたくさん食べるイメージだった」
「生魚だけは苦手で」
「わかります。僕も昔は刺身が苦手だったんですが、石川に旅行したときに食べた刺身が美味くて克服できました。この手毬寿司、とっても美味しいです」
「ほんとだ美味しいー! ナツキさんも食べてみなよう」
「……わたしはいいや。ひよりちゃん、食べて」
盛り上がるひよりたちを横目に、根菜のサラダをつつく。高級マンションの一室で食べる豪華な料理。こんなこと初めてで居心地が悪いのに、ひよりはすっかり馴染んでいるように見える。金持ちの友人と、非の打ちどころのない年上の彼氏。俺の知らない世界で幸せそうなひより。
「料理っていえば、お兄さんもお料理上手なんですよね」
急に話をふられ顔を上げた。慎一が微笑んでいる。話に入れない俺を気遣ってくれたのだとわかった。
「そうそう! お兄ちゃんは、冷蔵庫にあるものだけで美味しい料理が作れるの。まるで魔法みたい」
「すごいな~。わたしはレシピ優先で買い物しちゃうから、余らせちゃう食材とかあって」
「僕は料理が作れないから、本当に尊敬します。ひよりちゃんからいつも、お兄さんが作ったごはんのこと聞いてるんですよ」
「いや俺なんてそんな……」
一気に話題の中心になり、うろたえてしまう。それからも慎一は、さりげなく話の輪に入れてくれた。
食後は慎一がコーヒーを淹れてくれるという。キッチンに向かう背中を追いかける。
「あの、邪魔じゃなかったらお手伝いしていいですか?」
お礼がしたかった。慎一は「もちろん」と笑って、紙袋からコーヒーミルを出し、豆を挽いてほしいと言った。
「豆、挽くの初めてですか?」
「はい。けっこう硬いんですね」
ごりごりと珈琲豆を砕く音に、罪悪感が膨れ上がる。豆を挽き終わり、ミルを手渡すと同時に「ありがとうございました」と頭を下げた。慎一は「妹の友達と彼氏と食事なんて緊張しますよね」と目を細める。俺は曖昧に笑うことしかできなかった。
コーヒーを淹れる横顔を見つめる。ああ、慎一は瞳が綺麗なんだ。深く、澄んでいる。
もっと出会う時期が遅かったら、俺は彼とひよりの結婚に反対しなかったかもしれない。ひよりが20代後半くらいだったら、素敵な人と出会えてよかったなと言ってあげられたかもしれない。
どうして結婚を急ぐんですかと、その横顔に問おうとしてやめた。澄んだ瞳で「どうして早くに一緒になることがだめなんですか」と聞き返されたら、答えに詰まりそうだ。早すぎるからですと、答えにならない答えしか思いつかない。
「うん、美味しい。お兄さん、お先にどうぞ」
慎一の淹れてくれたコーヒーは、雑味がなくてとびきり美味しかった。


