「近江、体調大丈夫?」
教室に入ると、市橋たちが声をかけてきた。
たった数日休んだだけなのに、見慣れたはずの教室が少しだけ久しぶりに感じる。
「もう完全に治った」
「及川から聞いたけど、ガチでやばかったらしいじゃん」
「寝たら治る予定だった」
「予定だったってなんだよ」
「予定は未定」
「いや、意味分からんけど通常運転の近江だわ」
市橋たちが笑う。
隣で尚もカバンを机の横にかけながら笑っていた。それを見るだけでなんだか落ち着く。
僕が学校を休んでいた数日間だけ、日常が少し変だったけれど、やっぱりいつも通りだ。
「ほっくん、今日の昼どうする?」
「ポテト」
「だから購買に売ってないって」
「じゃあ尚のパン。今日はビッグカレーパンの日だろ」
「俺のメニュー勝手に決めんなよ。ほっくんが食べたいだけじゃん」
「違う。尚、金曜日はいつもそれ食べてる」
その瞬間、なぜか尚の視線が一瞬だけ泳いだ。
僕は知っているんだ。尚が毎日、絶対に日替わりの曜日限定パンを選ぶということを。
「……わかったよ。昼休みの前に買ってくる」
「チョコチップメロンパンとクリームパンと、あと焼きそばパンも」
「すげぇ食うじゃん。病み上がりなのにめちゃくちゃ元気だな」
「全快だから」
「はいはい。全部買ってくるよ」
尚がやれやれと笑う。
やっぱり、これだ。僕の日常は、こうでなくちゃいけない。
……そう思っていたのに。
◇
「及川くん、一緒に食べない?」
昼休み。尚が無事ゲットしてきたパンを机に並べて、さあ「いただきます」をしようとしたその時。クラスの女子二人が、尚の席にやって来て、声をかけてきた。
尚は本当に人気者だ。こういう光景は、今までだって数え切れないほど見てきた。いつものことだ。いつもの日常、だけど……なぜか胸の奥がもやもやする。
尚は少し驚いた顔をして、それからいつもの営業爽やかスマイルを浮かべた。
「ごめん。俺、ほっくんと食べるから」
爽やかで、非の打ち所がない、誰にでも好かれる尚の完璧な笑顔。女子たちは「そっかぁ、ごめんね」と素直に引き下がって自分の席へと戻っていく。
いつもなら、「当然」と言って、僕が尚のジュースを一口拝借して終わるはずの流れだった。
なのに。
尚がそのお誘いを断った言葉を聞いた瞬間、胸の奥のもやもやが、すうっと少しだけ軽くなったのを感じた。
……なんでだ?
僕は別に、尚が誰かと食べたって困らない。僕だってパンくらい一人で食べられる。
それに、尚は僕の所有物じゃない。
……いや、恋人だけど。
でも、そうじゃなくって。今までは、尚が隣にいることを当たり前だと思っていた。幼馴染だから。昔からずっと一緒だったから。
それでも、もし。
もし尚が、僕じゃない誰かの隣にいる時間が増えたら――。
「……嫌だ」
さっきよりも大きいもやもやが胸の奥を支配して、声が勝手に漏れた。
「何が?」
聞き逃さなかったらしい隣の尚が、不思議そうに僕の顔を覗き込んでくる。
「……えっと」
うまく答えられなくて、喉の奥で言葉が引っかかる。
今、僕の胸を占領しているこの重苦しいもやもやは、たぶん寂しいとか、不安とか、そんな綺麗なものじゃない。
もっと別で、子供っぽいやつ。
――これ、前にもあった。今に始まったことじゃない。
何度も。もっとずっと昔から。
尚が廊下で三年の先輩と親しげに話していた時も。他の奴と楽しそうに喋っている時も。
面白くなくて、イライラして。誰かが尚の隣にいると、そこに入りたくなって。尚が僕以外の誰かに構っていると、無理矢理にでも僕の方を向かせたくなって。
「どうした? また具合悪くなったか?」
「悪くない」
「じゃあなに。怒ってんの?」
「怒って、ない」
そうだ。怒ってはいない。ただ、尚が僕以外の奴と喋っているとイライラするだけで。
尚は僕の顔をじっと見て、それからふっと可笑しそうに口元を緩めた。
「何その顔。ほっくん、もしかして……拗ねてる?」
「拗ねてない」
「いや拗ねてるじゃん。ほっぺフグみたいになってるよ」
「なってない」
尚の指先が僕のほっぺたをつつこうと伸びてくる。さっきまでの営業スマイルは消え去っていて、僕をからかう時の笑顔になっている。ものすごく楽しそうだけど。
……今、そういうのじゃない。僕は真剣なんだ。
僕はその手首を空中でガシッと掴んで、尚の目を真っ直ぐ見つめた。
「尚は僕の恋人だから、他の人と喋るな」
「……は!? 無茶言うなよ」
「じゃあ二秒だけしか喋るな」
「無理に決まってんだろ」
そう抗議しながらも、尚は掴まれた手首を振り払おうとはしなかった。目も逸らさない。
それどころか、ニヤニヤとした笑みを深めて顔を近づけてきた。
「……ねぇ、ほっくん。もしかして、やきもちやいたの?」
またからかいモードだ。いつもならここで「気のせい」と逃げるところだが、今の僕はネットの知識を得てバージョンアップしている。
やきもち。
つまり、嫉妬のこと。
ネットの検索画面が脳裏に浮かぶ。
「そうかも」
「え」
「ネットに書いてあった。誰かに取られたくないと思うこと。自分の方を見ていてほしいと思うこと。他の誰かと仲良くしているのが嫌だと思うこと、って」
「おま……っ、それを真顔でプレゼンする奴があるか!」
「全部、当てはまる。僕、嫉妬するから。だから尚は僕のだし、僕とだけいればいいだろ」
その瞬間、尚は耳の先まで真っ赤に染め上げ、視線を泳がせた。
事実を言っただけなのに、また照れてる。さっきまで僕のことからかってたくせに。
「……っ、いつも一緒にいるじゃん」
「もっと」
「これ以上どうしろってんだよ!」
「恋人だろ」
僕がぐっと顔を寄せると、尚は盛大にため息をついた。
「……それ言えば何でもされると思ってんの?」
「思ってる」
「恋人だからって、何でも言うこと聞くと思うなよって前も言ったよね?」
「でも、尚、朝起こしてくれるし、靴下履かせてくれるし、ネクタイやってくれるし、パン買ってくれるし、靴紐も結んでくれるし――」
「俺は便利屋じゃねぇって言ってんだろ! あと、何でもかんでもネットで情報を漁るな!」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「キスしたらなおる?」
「……あのなぁ、北斗。ここ教室だぞ」
「じゃあ、廊下出るか?」
「そういう問題じゃねぇよ! 調子乗るなって何回言えばわかるんだ!」
盛大に顔をしかめた尚に、おでこをピシッとデコピンされる。
「……いてっ。頭割れた。尚のいじわる。最低。ドケチ」
「ガキかよ」
本当は全然痛くなんてないけど、おでこを押さえて全力で抗議する。
「……あー、もう! 俺が悪かったよ。ほら、昼休み終わっちゃうから早くパン食べるぞ」
「ん。じゃあ今日も僕の勝ちな」
「なんの勝ちだよ」
なんの勝ちかは僕にも分からない。けど、今日は僕の勝ちだと思う。
尚は、今日何度目か分からない特大のため息をついたけれど、口元だけは緩んでいた。
負けたのに嬉しそうなんて、尚はやっぱり変なやつだ。
……でも、やっぱり尚に勝つと気分がいい。
僕は尚が手に持っている、開封したてのビッグカレーパンに大きく一口齧りついた。
「……あっ、おい! 俺のパン奪うな! ほっくん同じの手に持ってるだろ!」
「やっぱり尚のやつの方が美味しい」
教室に入ると、市橋たちが声をかけてきた。
たった数日休んだだけなのに、見慣れたはずの教室が少しだけ久しぶりに感じる。
「もう完全に治った」
「及川から聞いたけど、ガチでやばかったらしいじゃん」
「寝たら治る予定だった」
「予定だったってなんだよ」
「予定は未定」
「いや、意味分からんけど通常運転の近江だわ」
市橋たちが笑う。
隣で尚もカバンを机の横にかけながら笑っていた。それを見るだけでなんだか落ち着く。
僕が学校を休んでいた数日間だけ、日常が少し変だったけれど、やっぱりいつも通りだ。
「ほっくん、今日の昼どうする?」
「ポテト」
「だから購買に売ってないって」
「じゃあ尚のパン。今日はビッグカレーパンの日だろ」
「俺のメニュー勝手に決めんなよ。ほっくんが食べたいだけじゃん」
「違う。尚、金曜日はいつもそれ食べてる」
その瞬間、なぜか尚の視線が一瞬だけ泳いだ。
僕は知っているんだ。尚が毎日、絶対に日替わりの曜日限定パンを選ぶということを。
「……わかったよ。昼休みの前に買ってくる」
「チョコチップメロンパンとクリームパンと、あと焼きそばパンも」
「すげぇ食うじゃん。病み上がりなのにめちゃくちゃ元気だな」
「全快だから」
「はいはい。全部買ってくるよ」
尚がやれやれと笑う。
やっぱり、これだ。僕の日常は、こうでなくちゃいけない。
……そう思っていたのに。
◇
「及川くん、一緒に食べない?」
昼休み。尚が無事ゲットしてきたパンを机に並べて、さあ「いただきます」をしようとしたその時。クラスの女子二人が、尚の席にやって来て、声をかけてきた。
尚は本当に人気者だ。こういう光景は、今までだって数え切れないほど見てきた。いつものことだ。いつもの日常、だけど……なぜか胸の奥がもやもやする。
尚は少し驚いた顔をして、それからいつもの営業爽やかスマイルを浮かべた。
「ごめん。俺、ほっくんと食べるから」
爽やかで、非の打ち所がない、誰にでも好かれる尚の完璧な笑顔。女子たちは「そっかぁ、ごめんね」と素直に引き下がって自分の席へと戻っていく。
いつもなら、「当然」と言って、僕が尚のジュースを一口拝借して終わるはずの流れだった。
なのに。
尚がそのお誘いを断った言葉を聞いた瞬間、胸の奥のもやもやが、すうっと少しだけ軽くなったのを感じた。
……なんでだ?
僕は別に、尚が誰かと食べたって困らない。僕だってパンくらい一人で食べられる。
それに、尚は僕の所有物じゃない。
……いや、恋人だけど。
でも、そうじゃなくって。今までは、尚が隣にいることを当たり前だと思っていた。幼馴染だから。昔からずっと一緒だったから。
それでも、もし。
もし尚が、僕じゃない誰かの隣にいる時間が増えたら――。
「……嫌だ」
さっきよりも大きいもやもやが胸の奥を支配して、声が勝手に漏れた。
「何が?」
聞き逃さなかったらしい隣の尚が、不思議そうに僕の顔を覗き込んでくる。
「……えっと」
うまく答えられなくて、喉の奥で言葉が引っかかる。
今、僕の胸を占領しているこの重苦しいもやもやは、たぶん寂しいとか、不安とか、そんな綺麗なものじゃない。
もっと別で、子供っぽいやつ。
――これ、前にもあった。今に始まったことじゃない。
何度も。もっとずっと昔から。
尚が廊下で三年の先輩と親しげに話していた時も。他の奴と楽しそうに喋っている時も。
面白くなくて、イライラして。誰かが尚の隣にいると、そこに入りたくなって。尚が僕以外の誰かに構っていると、無理矢理にでも僕の方を向かせたくなって。
「どうした? また具合悪くなったか?」
「悪くない」
「じゃあなに。怒ってんの?」
「怒って、ない」
そうだ。怒ってはいない。ただ、尚が僕以外の奴と喋っているとイライラするだけで。
尚は僕の顔をじっと見て、それからふっと可笑しそうに口元を緩めた。
「何その顔。ほっくん、もしかして……拗ねてる?」
「拗ねてない」
「いや拗ねてるじゃん。ほっぺフグみたいになってるよ」
「なってない」
尚の指先が僕のほっぺたをつつこうと伸びてくる。さっきまでの営業スマイルは消え去っていて、僕をからかう時の笑顔になっている。ものすごく楽しそうだけど。
……今、そういうのじゃない。僕は真剣なんだ。
僕はその手首を空中でガシッと掴んで、尚の目を真っ直ぐ見つめた。
「尚は僕の恋人だから、他の人と喋るな」
「……は!? 無茶言うなよ」
「じゃあ二秒だけしか喋るな」
「無理に決まってんだろ」
そう抗議しながらも、尚は掴まれた手首を振り払おうとはしなかった。目も逸らさない。
それどころか、ニヤニヤとした笑みを深めて顔を近づけてきた。
「……ねぇ、ほっくん。もしかして、やきもちやいたの?」
またからかいモードだ。いつもならここで「気のせい」と逃げるところだが、今の僕はネットの知識を得てバージョンアップしている。
やきもち。
つまり、嫉妬のこと。
ネットの検索画面が脳裏に浮かぶ。
「そうかも」
「え」
「ネットに書いてあった。誰かに取られたくないと思うこと。自分の方を見ていてほしいと思うこと。他の誰かと仲良くしているのが嫌だと思うこと、って」
「おま……っ、それを真顔でプレゼンする奴があるか!」
「全部、当てはまる。僕、嫉妬するから。だから尚は僕のだし、僕とだけいればいいだろ」
その瞬間、尚は耳の先まで真っ赤に染め上げ、視線を泳がせた。
事実を言っただけなのに、また照れてる。さっきまで僕のことからかってたくせに。
「……っ、いつも一緒にいるじゃん」
「もっと」
「これ以上どうしろってんだよ!」
「恋人だろ」
僕がぐっと顔を寄せると、尚は盛大にため息をついた。
「……それ言えば何でもされると思ってんの?」
「思ってる」
「恋人だからって、何でも言うこと聞くと思うなよって前も言ったよね?」
「でも、尚、朝起こしてくれるし、靴下履かせてくれるし、ネクタイやってくれるし、パン買ってくれるし、靴紐も結んでくれるし――」
「俺は便利屋じゃねぇって言ってんだろ! あと、何でもかんでもネットで情報を漁るな!」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「キスしたらなおる?」
「……あのなぁ、北斗。ここ教室だぞ」
「じゃあ、廊下出るか?」
「そういう問題じゃねぇよ! 調子乗るなって何回言えばわかるんだ!」
盛大に顔をしかめた尚に、おでこをピシッとデコピンされる。
「……いてっ。頭割れた。尚のいじわる。最低。ドケチ」
「ガキかよ」
本当は全然痛くなんてないけど、おでこを押さえて全力で抗議する。
「……あー、もう! 俺が悪かったよ。ほら、昼休み終わっちゃうから早くパン食べるぞ」
「ん。じゃあ今日も僕の勝ちな」
「なんの勝ちだよ」
なんの勝ちかは僕にも分からない。けど、今日は僕の勝ちだと思う。
尚は、今日何度目か分からない特大のため息をついたけれど、口元だけは緩んでいた。
負けたのに嬉しそうなんて、尚はやっぱり変なやつだ。
……でも、やっぱり尚に勝つと気分がいい。
僕は尚が手に持っている、開封したてのビッグカレーパンに大きく一口齧りついた。
「……あっ、おい! 俺のパン奪うな! ほっくん同じの手に持ってるだろ!」
「やっぱり尚のやつの方が美味しい」



