「……先生、いないな」
保健室には誰もいなかった。
室内はしんと静まり返っていて、白いカーテンが窓からの微風で静かに揺れている。
授業が始まったのだろう、体育館の方からホイッスルの音が聞こえた。
「横になれ」
窓側のベッドへ北斗の身体をそっと誘導して座らせる。
「……まだ、体育」
「いいから」
少し強めに肩を押すと、北斗はされるがままにベッドに倒れ込み、シーツの中に沈んだ。
珍しい。
普段なら「やだ」とか「あとで」とか、不毛な押し問答をを何度も繰り返すはずなのに。
……やっぱりおかしい。
布団を胸元まで掛けてやると、北斗はぼんやりと天井を見上げたままで。相変わらず焦点が定まっていない。
そのまま、俺は北斗の額に恐る恐る手を当てる。
「――っ」
熱い。
想像していた以上だった。
「北斗」
「……ん?」
「これ、いつから」
「……きょう」
「今日の朝か?」
「……きのう、かも」
かも、じゃねぇだろ。
思わず奥歯を強く噛み締める。
昨日……。
昨日の夜までうちで一緒にゲームをして、くだらないことで勝った負けたと騒ぎ立てて。
北斗は、あの時にはもう熱があったのか。
「……なんで黙ってた」
気付けば、自分でも聞いたことがないくらいにドスの利いた低い声が出ていた。
北斗は毛布を顎のあたりまで引き上げ、重そうに瞼を揺らしながら、ぼーっと天井の一点を見つめている。
「……言うほどでも、ない」
「あるだろ!」
「寝たら、治るし」
「治ってねぇじゃんか!」
「……うん」
あっさり認める。
そういうところなんだよ。腹が立つ。本当に。
「お前さ、」
椅子を引いてベッドの横へ座る。
「……なんで言わねぇんだよ!」
激しい怒声が保健室に響いた。自分でも驚くくらい、大きな声が出た。怒鳴るつもりなんてなかった。それも病人相手に。
でも、一度溢れた感情は止まらなかった。
「腹減ったとか眠いとか、そういうわがままは普通に言うくせに!」
普段のこいつは、俺を都合のいい奴隷か何かだと思っている節がある。
『恋人』という言葉を都合よく盾にしているんじゃないかって思う時だってあるくらいだ。
俺に甘えることも、頼ることも、当たり前の権利みたいに使いこなしているくせに。
「なんで熱の時だけ黙ってんだよ! そういう時くらい頼れよ……っ!」
保健室が静かすぎる。さっきまで聞こえていた体育館の歓声だけが遠く響いていた。
北斗は何も言わない。
怒られていると分かっているのか、それとも熱で頭が回っていないのか、ただ毛布をぎゅっと握りしめている。
その手を見ているうちに、少しずつ冷えていった。
……違う。
俺は、北斗を怒りたいわけじゃないんだ。
怖かったんだ。
更衣室で立ち止まったまま動かない北斗を見た瞬間。
焦点の合わない目を見た瞬間。
もしそのまま倒れていたら。
もし俺が異変に気づけなかったら。
そんな嫌な想像ばかりが頭を支配していた。
「……悪い。言い方きつかった」
そう謝った、時だった。
北斗は熱で潤んだ目を少しだけ丸くして、それから小さく首を傾げた。
「……頼ってるけど」
「は?」
思わず聞き返す。
頼っている? 北斗が? どの口でそれを言っているんだ。
昨日から熱があったことを言わないで、更衣室でフリーズして、俺に力ずくで連れてこられるまで「体育できる」と言い張っていた奴のセリフか。
俺が気づかなかったらずっと黙って、無理して体育だってやってただろうに。
「頼ってる」
「いや、どこが」
「尚、いるし」
意味が分からない。
「僕、尚のこと好きだよ?」
その一言で、頭の中が真っ白に弾け飛んだ。
いま、何て言った?
熱でぼんやりとした顔のまま、北斗は毛布の端をぎゅっと握り直した。
そこにロマンチックな雰囲気なんて一ミリも存在しない。
やはり、照れもない。
いつも通りの、真顔。
ただ、思ったことをそのまま口にしただけ、という顔だった。
「……迎え来るし。僕、困ったら尚いるって思ってる」
北斗はゆっくり瞬きをする。
「だから、安心」
また少し考えてから、ぽつりと呟く。
「……好きだから」
俺は何も言えなかった。
そんな理由で、そんな当たり前みたいな顔で、そんな一番最強のストレートを投げてくるなんて聞いていない。
……反則だろ。
「……違った?」
不安そうに聞かれて、ようやく我に返る。
それからあまりのキャパオーバーに、俺は自分の顔を両手で覆った。
熱い。北斗の額に触れたときと同じくらい、自分の顔が急速に熱くなっていくのが分かった。
……無理。これは、あまりにも効きすぎる。
幼稚園の時からずっと、俺は北斗の予測不能な言動に振り回され続けてきた。
変なゲテモノドリンクを飲まされた時も、今まで何回「好き」と言われても、その場でどうにか持ちこたえて、立て直して、耐えてきた。
でも今日のこれは、耐えられない。
完全に不意打ちだ。
ずるすぎるだろ、こんなの。
言葉を完全に失った俺は、ただ茫然と椅子に座って北斗を見つめることしかできない。
心臓はうるさいくらいに脈打っている。
「……尚」
「……喋るな。寝ろ」
「顔、見えない」
「見なくていいから、早く寝ろ」
指の隙間から覗いた北斗は、まだ少し首を傾げて不思議そうにしていたが、やがて満足したようにゆっくりと瞼を閉じた。
すぐにスースーと規則正しい可愛い寝息が聞こえ始める。
すやすやと眠ってしまった北斗は、さっきまで俺の心を激しくかき乱していた本人とは思えないくらい静かで。
「……本当に、北斗には勝てねぇな」
熱で思考回路が壊れてるくせに。本人は、自分が何を言ったのか覚えてすらなさそうなのが。
……本当に、一番たちが悪い。
保健室には誰もいなかった。
室内はしんと静まり返っていて、白いカーテンが窓からの微風で静かに揺れている。
授業が始まったのだろう、体育館の方からホイッスルの音が聞こえた。
「横になれ」
窓側のベッドへ北斗の身体をそっと誘導して座らせる。
「……まだ、体育」
「いいから」
少し強めに肩を押すと、北斗はされるがままにベッドに倒れ込み、シーツの中に沈んだ。
珍しい。
普段なら「やだ」とか「あとで」とか、不毛な押し問答をを何度も繰り返すはずなのに。
……やっぱりおかしい。
布団を胸元まで掛けてやると、北斗はぼんやりと天井を見上げたままで。相変わらず焦点が定まっていない。
そのまま、俺は北斗の額に恐る恐る手を当てる。
「――っ」
熱い。
想像していた以上だった。
「北斗」
「……ん?」
「これ、いつから」
「……きょう」
「今日の朝か?」
「……きのう、かも」
かも、じゃねぇだろ。
思わず奥歯を強く噛み締める。
昨日……。
昨日の夜までうちで一緒にゲームをして、くだらないことで勝った負けたと騒ぎ立てて。
北斗は、あの時にはもう熱があったのか。
「……なんで黙ってた」
気付けば、自分でも聞いたことがないくらいにドスの利いた低い声が出ていた。
北斗は毛布を顎のあたりまで引き上げ、重そうに瞼を揺らしながら、ぼーっと天井の一点を見つめている。
「……言うほどでも、ない」
「あるだろ!」
「寝たら、治るし」
「治ってねぇじゃんか!」
「……うん」
あっさり認める。
そういうところなんだよ。腹が立つ。本当に。
「お前さ、」
椅子を引いてベッドの横へ座る。
「……なんで言わねぇんだよ!」
激しい怒声が保健室に響いた。自分でも驚くくらい、大きな声が出た。怒鳴るつもりなんてなかった。それも病人相手に。
でも、一度溢れた感情は止まらなかった。
「腹減ったとか眠いとか、そういうわがままは普通に言うくせに!」
普段のこいつは、俺を都合のいい奴隷か何かだと思っている節がある。
『恋人』という言葉を都合よく盾にしているんじゃないかって思う時だってあるくらいだ。
俺に甘えることも、頼ることも、当たり前の権利みたいに使いこなしているくせに。
「なんで熱の時だけ黙ってんだよ! そういう時くらい頼れよ……っ!」
保健室が静かすぎる。さっきまで聞こえていた体育館の歓声だけが遠く響いていた。
北斗は何も言わない。
怒られていると分かっているのか、それとも熱で頭が回っていないのか、ただ毛布をぎゅっと握りしめている。
その手を見ているうちに、少しずつ冷えていった。
……違う。
俺は、北斗を怒りたいわけじゃないんだ。
怖かったんだ。
更衣室で立ち止まったまま動かない北斗を見た瞬間。
焦点の合わない目を見た瞬間。
もしそのまま倒れていたら。
もし俺が異変に気づけなかったら。
そんな嫌な想像ばかりが頭を支配していた。
「……悪い。言い方きつかった」
そう謝った、時だった。
北斗は熱で潤んだ目を少しだけ丸くして、それから小さく首を傾げた。
「……頼ってるけど」
「は?」
思わず聞き返す。
頼っている? 北斗が? どの口でそれを言っているんだ。
昨日から熱があったことを言わないで、更衣室でフリーズして、俺に力ずくで連れてこられるまで「体育できる」と言い張っていた奴のセリフか。
俺が気づかなかったらずっと黙って、無理して体育だってやってただろうに。
「頼ってる」
「いや、どこが」
「尚、いるし」
意味が分からない。
「僕、尚のこと好きだよ?」
その一言で、頭の中が真っ白に弾け飛んだ。
いま、何て言った?
熱でぼんやりとした顔のまま、北斗は毛布の端をぎゅっと握り直した。
そこにロマンチックな雰囲気なんて一ミリも存在しない。
やはり、照れもない。
いつも通りの、真顔。
ただ、思ったことをそのまま口にしただけ、という顔だった。
「……迎え来るし。僕、困ったら尚いるって思ってる」
北斗はゆっくり瞬きをする。
「だから、安心」
また少し考えてから、ぽつりと呟く。
「……好きだから」
俺は何も言えなかった。
そんな理由で、そんな当たり前みたいな顔で、そんな一番最強のストレートを投げてくるなんて聞いていない。
……反則だろ。
「……違った?」
不安そうに聞かれて、ようやく我に返る。
それからあまりのキャパオーバーに、俺は自分の顔を両手で覆った。
熱い。北斗の額に触れたときと同じくらい、自分の顔が急速に熱くなっていくのが分かった。
……無理。これは、あまりにも効きすぎる。
幼稚園の時からずっと、俺は北斗の予測不能な言動に振り回され続けてきた。
変なゲテモノドリンクを飲まされた時も、今まで何回「好き」と言われても、その場でどうにか持ちこたえて、立て直して、耐えてきた。
でも今日のこれは、耐えられない。
完全に不意打ちだ。
ずるすぎるだろ、こんなの。
言葉を完全に失った俺は、ただ茫然と椅子に座って北斗を見つめることしかできない。
心臓はうるさいくらいに脈打っている。
「……尚」
「……喋るな。寝ろ」
「顔、見えない」
「見なくていいから、早く寝ろ」
指の隙間から覗いた北斗は、まだ少し首を傾げて不思議そうにしていたが、やがて満足したようにゆっくりと瞼を閉じた。
すぐにスースーと規則正しい可愛い寝息が聞こえ始める。
すやすやと眠ってしまった北斗は、さっきまで俺の心を激しくかき乱していた本人とは思えないくらい静かで。
「……本当に、北斗には勝てねぇな」
熱で思考回路が壊れてるくせに。本人は、自分が何を言ったのか覚えてすらなさそうなのが。
……本当に、一番たちが悪い。



