「ほっくーん、起きろー」
耳元で鳴り響く、聞き慣れた爽やかボイス。僕が起きるまで、及川尚という男は絶対に引き下がらない。 毎朝のルーティンで、物心ついた頃から毎朝こんな感じだ。だから母さんも止めない。
「学校遅れるって」
「……あと五分」
「その五分、一時間コースなんだよ」
次の瞬間、僕の部屋のカーテンが無慈悲に開けられ、容赦ない朝陽が顔面を直撃した。
僕は布団に深く顔を埋め、くぐもった声で抗議する。
「まぶしい」
「起きろ」
「昨日ツチノコ見つけるのに忙しかった」
「ツチノコはお前の睡眠時間を奪うほど重要なの?」
「絶対いる」
「いねぇよ」
いる。
日本にはまだ見つかっていない生物がたくさんいる。ツチノコだけいないなんて、そんな都合のいい話はない。
「僕が捕まえて、尚に一億あげる」
「一億の出どころどこだよ。ほら、早く着替えろ」
僕は、ん、と布団の中から足だけ出した。
「……何」
「ん」
「靴下?」
「ん」
「履かせろって?」
「ん」
「態度でけぇな。自分で履けるお手てついてるよね?」
「尚の方が早い」
「便利屋じゃねぇんだけど」
そう言いながらも、尚はしゃがみ込んで僕に靴下を履かせ始めた。
やっぱり早い。両足に靴下を無事に装着され、僕はようやくのそのそと起き上がった。
僕と尚の家の間は、三歩。小さい頃は塀を乗り越えて行き来していたけど、一度母さんたちに怒られてからは、ちゃんと玄関を使うようになった。
学校まで歩いて十五分。その十五分も、毎日尚と一緒だ。
昇降口で靴を履き替えているときだった。
「及川くん おはよー!」
すれ違う女子生徒たちが、次々と尚にをかけていく。
尚はそのたびに、やたらとキラキラした笑みを浮かべて、「おはよ」と手を振り返していた。
その徹底された笑顔を見届けたあと、尚に問いかける。
「知り合い?」
「クラスメイト」
「名前は?」
「覚えて?」
「難しい」
「難しくない」
尚は学校では『爽やか王子』なんて呼ばれているらしいけど、僕にはよく分からない。五分話せば化けの皮は剥がれると思う。現に、今朝も僕の顔を覗き込んで「ほっくん表情筋死んでるね」と楽しそうに笑っていた。
「……及川くん! 近江くん!」
そんなことを考えていると、僕たちの前に、昨日とはまた別の女子生徒が立ちはだかった。
顔を真っ赤にしながら、震える手でスマホの画面を僕たちに突きつけてくる。
「これ、本当……っ!?」
差し出された画面には、Instagramのストーリー投稿が映し出されていた。
そこに、僕と尚の後ろ姿と、【速報・カップル爆誕!】の文字。投稿主は――市橋。
無駄に顔の広い市橋の投稿は、瞬く間に学校中を駆け巡ったらしい。すごい速さだ。
カップル爆誕。
つまり、僕と尚がそういう関係になったということらしい。
画面を見つめていたら、すぐに別の誰かの投稿に切り替わった。
「二人が付き合ってるって本当なの!?」
「そうらしい」
「ひゃあ……っ!」
女子が悲鳴に近い声をあげ、そのまま顔を覆い走り去っていった。
いったい何だったんだろう。
というか、付き合うってそういうことだったのか。
「……ふっ、」
隣から、低く押し殺したような笑い声が聞こえた。
見れば、尚が笑みを浮かべて、僕の頭にポンと手を置いてくる。この笑い方をする時の尚は、大体ろくなことを言わない。
「ほっくんほんと最高。いいの? 認めちゃっても」
「だめなのか?」
「普通は困る人もいる」
「尚は?」
「……俺?」
「困る?」
尚は一瞬だけ目を見開いた。それから、「全然」と楽しそうに僕の髪をわざとぐしゃぐしゃとかき回す。
「市橋に盗撮の文句言いに行かなきゃね」
「ん」
上機嫌な幼馴染に背中を押されながら、僕たちは教室へと向かった。
尚が言うなら、僕たちはカップルらしい。
カップルが何をするのかはよく分からないが、相手が尚なら、別に何が変わるわけでもない。
――と、この時の僕は"付き合う"があんなに面倒なものだとは、まだ知らなかった。
「来た」
教室に入った瞬間誰かが呟いた。それを合図に、教室が一気に爆発した。
「インスタのあれガチ!?」「付き合いたてって本当!?」「リア充じゃん!?」
一瞬で机の周りを囲まれた。近い。狭い。身動きが取れない。
「お、おい……、お前らマジかよ」
人垣の隙間から容疑者・市橋が若干引きつった笑みを浮かべながら、おずおずと近寄ってきた。
その隣で松風がスマホを構えてスタンバイしている。パパラッチにでもなったのか。それとも盗撮を量産するつもりかもしれない。
「マジだけど。それよりお前の写真、よく撮れてた」
「…………へ?」
「送れ」
呆然とする市橋をよそに、隣の席の尚が僕にスマホを向けてきた。
「スクショしたから送るよ」
「文字入ってるからだめ」
写真の構図は悪くない。勝手に文字を入れたのだけが惜しい。
「まてまてまて! お前らなんでそんな呑気なの!?」
市橋のツッコミが教室に響き渡る。何をそんなに騒いでいるのか。被害者は僕たちの方なのに。
それに呑気なんじゃなくて、この文字をどう消すか考えるのに忙しいんだ。
「お前ら当事者だよな!?」
「盗撮の?」
「そっちじゃねぇよ!!」
市橋が頭を抱えてのけぞる。忙しいやつだ。
「つーか、お前らマジで昨日から交際スタートしたわけ!?」
松風がスマホを僕たちに向けながら言った。自称一六五cmの小柄な身体のいったいどこにそんな声量を内蔵しているんだろうか。松風のバカデカい声に賛同するようにクラスメイトたちが一斉に頷いた。
「それ!」
「むしろ昨日が一番衝撃だった!」
「え?」
今度は僕が声をあげる番だった。
「だって、お前らずっと一緒じゃん!」
「幼稚園から同じなんだろ?」
「登下校も毎日一緒!」
「昼飯も一緒!」
「休み時間もべったり! 距離感バグ!」
「放課後も休日も二人が一緒にいる目撃情報多数あるし!」
「逆に何が違ったんだよ!」
「今まで付き合ってなかったの事件すぎん!?」
口々に飛んでくる言葉に、僕は思わず尚を見る。尚は肩を震わせながら笑いを堪えていた。
「……そうなのか」
「北斗、その反応は反則」
何が反則なんだろう。
でも、言われてみれば確かに僕と尚はずっと一緒だった。
家は隣。幼稚園から高校二年まで、クラスが離れたことは一度もない。出席番号も、及川、近江といつも連番。僕たちの間に誰か入ったことは一度もない。席替えをしてもなぜか毎回、前か後ろの席に尚がいたし、進級すればまた尚の次。
……呪いだと思う。
それに、高二の夏休みが明けたというのに、このクラスには席替えという娯楽がいまだに訪れていない。
縦ではなく、横に出席番号順という謎の配置を採用していて、僕の席は尚の隣だ。前や後ろにいるのは慣れていたけど、真横にいるのは少しだけ新鮮だった。
「ほらほら、夫夫漫才は昼休みにして」
誰かの一言に、教室がどっと笑う。
夫夫漫才。
カップル。
交際。
リア充。
どうやら付き合うと語彙が増えるらしい。
テストには出ないでほしい。
耳元で鳴り響く、聞き慣れた爽やかボイス。僕が起きるまで、及川尚という男は絶対に引き下がらない。 毎朝のルーティンで、物心ついた頃から毎朝こんな感じだ。だから母さんも止めない。
「学校遅れるって」
「……あと五分」
「その五分、一時間コースなんだよ」
次の瞬間、僕の部屋のカーテンが無慈悲に開けられ、容赦ない朝陽が顔面を直撃した。
僕は布団に深く顔を埋め、くぐもった声で抗議する。
「まぶしい」
「起きろ」
「昨日ツチノコ見つけるのに忙しかった」
「ツチノコはお前の睡眠時間を奪うほど重要なの?」
「絶対いる」
「いねぇよ」
いる。
日本にはまだ見つかっていない生物がたくさんいる。ツチノコだけいないなんて、そんな都合のいい話はない。
「僕が捕まえて、尚に一億あげる」
「一億の出どころどこだよ。ほら、早く着替えろ」
僕は、ん、と布団の中から足だけ出した。
「……何」
「ん」
「靴下?」
「ん」
「履かせろって?」
「ん」
「態度でけぇな。自分で履けるお手てついてるよね?」
「尚の方が早い」
「便利屋じゃねぇんだけど」
そう言いながらも、尚はしゃがみ込んで僕に靴下を履かせ始めた。
やっぱり早い。両足に靴下を無事に装着され、僕はようやくのそのそと起き上がった。
僕と尚の家の間は、三歩。小さい頃は塀を乗り越えて行き来していたけど、一度母さんたちに怒られてからは、ちゃんと玄関を使うようになった。
学校まで歩いて十五分。その十五分も、毎日尚と一緒だ。
昇降口で靴を履き替えているときだった。
「及川くん おはよー!」
すれ違う女子生徒たちが、次々と尚にをかけていく。
尚はそのたびに、やたらとキラキラした笑みを浮かべて、「おはよ」と手を振り返していた。
その徹底された笑顔を見届けたあと、尚に問いかける。
「知り合い?」
「クラスメイト」
「名前は?」
「覚えて?」
「難しい」
「難しくない」
尚は学校では『爽やか王子』なんて呼ばれているらしいけど、僕にはよく分からない。五分話せば化けの皮は剥がれると思う。現に、今朝も僕の顔を覗き込んで「ほっくん表情筋死んでるね」と楽しそうに笑っていた。
「……及川くん! 近江くん!」
そんなことを考えていると、僕たちの前に、昨日とはまた別の女子生徒が立ちはだかった。
顔を真っ赤にしながら、震える手でスマホの画面を僕たちに突きつけてくる。
「これ、本当……っ!?」
差し出された画面には、Instagramのストーリー投稿が映し出されていた。
そこに、僕と尚の後ろ姿と、【速報・カップル爆誕!】の文字。投稿主は――市橋。
無駄に顔の広い市橋の投稿は、瞬く間に学校中を駆け巡ったらしい。すごい速さだ。
カップル爆誕。
つまり、僕と尚がそういう関係になったということらしい。
画面を見つめていたら、すぐに別の誰かの投稿に切り替わった。
「二人が付き合ってるって本当なの!?」
「そうらしい」
「ひゃあ……っ!」
女子が悲鳴に近い声をあげ、そのまま顔を覆い走り去っていった。
いったい何だったんだろう。
というか、付き合うってそういうことだったのか。
「……ふっ、」
隣から、低く押し殺したような笑い声が聞こえた。
見れば、尚が笑みを浮かべて、僕の頭にポンと手を置いてくる。この笑い方をする時の尚は、大体ろくなことを言わない。
「ほっくんほんと最高。いいの? 認めちゃっても」
「だめなのか?」
「普通は困る人もいる」
「尚は?」
「……俺?」
「困る?」
尚は一瞬だけ目を見開いた。それから、「全然」と楽しそうに僕の髪をわざとぐしゃぐしゃとかき回す。
「市橋に盗撮の文句言いに行かなきゃね」
「ん」
上機嫌な幼馴染に背中を押されながら、僕たちは教室へと向かった。
尚が言うなら、僕たちはカップルらしい。
カップルが何をするのかはよく分からないが、相手が尚なら、別に何が変わるわけでもない。
――と、この時の僕は"付き合う"があんなに面倒なものだとは、まだ知らなかった。
「来た」
教室に入った瞬間誰かが呟いた。それを合図に、教室が一気に爆発した。
「インスタのあれガチ!?」「付き合いたてって本当!?」「リア充じゃん!?」
一瞬で机の周りを囲まれた。近い。狭い。身動きが取れない。
「お、おい……、お前らマジかよ」
人垣の隙間から容疑者・市橋が若干引きつった笑みを浮かべながら、おずおずと近寄ってきた。
その隣で松風がスマホを構えてスタンバイしている。パパラッチにでもなったのか。それとも盗撮を量産するつもりかもしれない。
「マジだけど。それよりお前の写真、よく撮れてた」
「…………へ?」
「送れ」
呆然とする市橋をよそに、隣の席の尚が僕にスマホを向けてきた。
「スクショしたから送るよ」
「文字入ってるからだめ」
写真の構図は悪くない。勝手に文字を入れたのだけが惜しい。
「まてまてまて! お前らなんでそんな呑気なの!?」
市橋のツッコミが教室に響き渡る。何をそんなに騒いでいるのか。被害者は僕たちの方なのに。
それに呑気なんじゃなくて、この文字をどう消すか考えるのに忙しいんだ。
「お前ら当事者だよな!?」
「盗撮の?」
「そっちじゃねぇよ!!」
市橋が頭を抱えてのけぞる。忙しいやつだ。
「つーか、お前らマジで昨日から交際スタートしたわけ!?」
松風がスマホを僕たちに向けながら言った。自称一六五cmの小柄な身体のいったいどこにそんな声量を内蔵しているんだろうか。松風のバカデカい声に賛同するようにクラスメイトたちが一斉に頷いた。
「それ!」
「むしろ昨日が一番衝撃だった!」
「え?」
今度は僕が声をあげる番だった。
「だって、お前らずっと一緒じゃん!」
「幼稚園から同じなんだろ?」
「登下校も毎日一緒!」
「昼飯も一緒!」
「休み時間もべったり! 距離感バグ!」
「放課後も休日も二人が一緒にいる目撃情報多数あるし!」
「逆に何が違ったんだよ!」
「今まで付き合ってなかったの事件すぎん!?」
口々に飛んでくる言葉に、僕は思わず尚を見る。尚は肩を震わせながら笑いを堪えていた。
「……そうなのか」
「北斗、その反応は反則」
何が反則なんだろう。
でも、言われてみれば確かに僕と尚はずっと一緒だった。
家は隣。幼稚園から高校二年まで、クラスが離れたことは一度もない。出席番号も、及川、近江といつも連番。僕たちの間に誰か入ったことは一度もない。席替えをしてもなぜか毎回、前か後ろの席に尚がいたし、進級すればまた尚の次。
……呪いだと思う。
それに、高二の夏休みが明けたというのに、このクラスには席替えという娯楽がいまだに訪れていない。
縦ではなく、横に出席番号順という謎の配置を採用していて、僕の席は尚の隣だ。前や後ろにいるのは慣れていたけど、真横にいるのは少しだけ新鮮だった。
「ほらほら、夫夫漫才は昼休みにして」
誰かの一言に、教室がどっと笑う。
夫夫漫才。
カップル。
交際。
リア充。
どうやら付き合うと語彙が増えるらしい。
テストには出ないでほしい。



