「お断りします」
結婚初日、初夜の閨にて。
行灯の薄明かりが照らす室内で向き合う男女が一組。
互いに正座で向かい合い、その様はまるで密談でもしているかのような緊迫感に包まれていた。
男の淡い藤色をした隻眼が、驚愕の色を隠さずこちらを見つめている。
「なぜ、というお顔ですね」
射殺すかのような視線をものともせず、幽子はただくすりと微笑んだ。
「……もう一度聞こうか。一年後、君は俺と離婚し、今後の暮らしに不自由ない十分な金を渡した上で人郷に帰してやると言ったんだ」
「ええ」
「君もこの結婚は不本意だったんだろう。ほとぼりが冷める頃に離縁してやると言うのに、なぜ断る? それとも、俺を籠絡してみせろとでも命じられていたのか?」
嘲るような言い方に、きつくこちらを睨みつける目。
これでもかというほどの威圧に対し、幽子は動じない。
「その通りです」
「……は」
藤色の目が見開かれる。
まさか、自分を暗殺しに来たと堂々と言い放つ間者がどこにいるだろうか。
「父からはそのように申し付けられておりました。わたくしの体を使い白藤様を懐柔し、閨で暗殺せよと」
「あの老いぼれめが!やはり俺の命を狙っておったか……!」
男————白藤はすぐさま枕元の刀を手に取り、鞘を抜く。
警戒するように鋭い切っ先をこちらに向けた。
初夜の閨には相応しくないその太刀は、彼が元より疑いを持っていたというなによりの証拠だ。
「そのように白状するとは、君は俺を殺せないと分かっているからだろう? 身の安全が欲しいのならば、俺の言うことに従え。俺とて、裏切り者の妻をいつまでも可愛がってやるほど気の長い男ではない。君が自ら鎖に繋がれ座敷牢で暮らしたいというのなら、話は別だがな」
「いいえ、わたくしは保身など考えておりません」
刃を向けられてもなお、幽子は表情を変えない。
ただ、真っ直ぐに白藤の瞳を見据えた。
「離縁は望みません。わたくしが望むのは……あなたの天下です」
白藤との結婚は、幽子にとってそう唐突な話ではなかった。
「喜べ。お前の嫁ぎ先が決まったぞ」
ぽろん。
幽子の手元が狂い、箏の弦が音を立てた。
東雲家屋敷の一番奥、日当たりの悪い小さな小部屋。
弦楽器以外はわずかな私物しかない殺風景なこの部屋に、父がわざわざ足を運ぶなど滅多にないことだった。
「どういうことですか、お父様」
慌てて顔を上げれば、険しい顔の父がこちらを見ている。
喜べ、と言われたが、とても祝い事の雰囲気には思えなかった。
「鴉天狗にはお前が嫁ぐのだ」
「な、何を仰いますか……! 姉上様の婚約はまだ解消されておりません! それなのに、わたくしが姉上様の婚約者に嫁ぐなどそんな勝手な!」
「だからだ。鴉天狗との縁談が消えぬ限り、常子はもう戻っては来んだろう。お前が常子の代わりに嫁いでしまえば、常子は帰ってくるに違いない。あちらの一族との約束も違えることなく、全てが解決できるのだ」
父は幽子を黙らせるかのように大声でまくし立てた。
この世界には、人ならざるものが存在する。
妖、悪霊、そして高天原の神々。
古くから妖と人間は争いあっていたが、時代が移り変わると共に関わり方も変化が起き、鎖国の頃には物の怪祓いと妖の間では同盟が結ばれた。
しかし、長い時を経ても完全な和平とは言えず、対立することはしばしばあった。
今の時代、物の怪祓いが祓うのは人間に害を及ぼす悪霊の類だが、時として人間に手を出す妖もいれば、その逆もあった。
明治の世になりこの国を取り巻く事情が変化する中、内輪揉めの絶えないこの状況を解決するため、物の怪祓いの名門一族から妖の一族に娘を嫁がせることが決定された。
そこで選ばれたのが、東雲家の次女常子だ。
常子は物の怪祓いの才も受け継ぎ、東雲家に恥じない活躍を見せる一方、淑やかで慎み深く、従順で物分りも良いともっぱら評判の良い娘だった。
しかし、常子は政略結婚を嫌がり、下男と駆け落ちしてしまった。
嫁入りのわずかひと月前の出来事だった。
それほどまでに常子が結婚を嫌がるのも当然だろう。
常子に命じられた政略結婚の中身は、『結婚相手の妖を暗殺すること』だったのだから。
これまで父親の言うことの全てに従ってきたはず常子の突然の離反に、当初、父は酷く狼狽えていた。
表向きは病で寝込んでいることになっているが、失踪が周知の事実になるのも時間の問題だろう。
さして会話をした覚えは無い姉だったが、昔、『才能もないのにこんな家に生まれて可哀想に』と哀れんでくれたことは覚えている。
表面上は押し殺していただけで、常子の心は限界だったのだろう。
母は幽子を産んでからすぐに亡くなり、以来、この家ではいつも不機嫌で高圧的な父が全てを支配している。
幼い頃から東雲家のためにと厳しく躾られ、自由もなく、ただひたすら父の言いなりに生きていくことが強制される人生。
父は何一つ気づかなかったようだが、常子は齢十八にして、人生につくづく嫌気がさしていると言わんばかりの目をしていた。
父は必死になって常子を連れ戻そうとしたが、行方知れずで生きているのかさえ分からない。
そうしているうちに嫁入りは刻一刻と迫ってくる。
暗殺を目論んだのは、結婚相手である鴉天狗の妖、白藤と敵対している妖との共謀だった。
彼ら鴉天狗の郷では次期頭領の座を巡り有力な一族同士が争いあっている。
そんな中持ち上がった人間との協定。これに目をつけた連中と裏で手を組み、白藤を蹴落とし頭領にのし上がろうというのだ。
白藤の一族に人間との協定により自分たちが頭領となるだろうと確信させ、その慢心を突くというつもりらしい。
そして頭領一族となった彼らから益を得ようというのが父の考えのようだが、裏では彼らを利用し実権を得ることを狙っているのが見え透けている。
要するに、協力関係にあれどお互いいつ寝首をかかれるかわからない状況だ。
だからこそ父も余計に焦っているのだろうが、長女の詩子は既に嫁いでおり、一族に他に同世代で未婚の女はいない。
長男の鷹臣はまだ婚約中で、鷹臣に娘が産まれたら嫁がせる、などという約束を取り付けるわけにもいかない。
(つまり、身代わりを用意できなかったから、仕方なく代替品としてわたくしを選んだと)
仕方なしに不出来な末娘を差し出すなど、鴉天狗の一族に知られればなおのこと問題になるだろうに。
まして、自分自身、暗殺の任務を易々と遂行できるとは思いがたい。
それこそ、自らの命を投げ打って捨て身で戦うことになるだろう。
(ああ、だからわたくしなのね……)
東雲家の落ちこぼれ。冴えない三女。
物心ついた時から、一人だけ祓術の才能を持たなかった幽子はひどく冷遇されてきた。
それこそ、父に暴力を振るわれようが女中に意地悪をされようが誰からも見向きをされなかった。
東雲家の中で唯一のいつどこで死んでもいい存在なのだから、この作戦の代役には誰よりも相応しかった。
「いかに無能なお前とて、少しの間妖どもを騙すことぐらいできよう。なに、顔だけは常子に似ておるのだ。あの隻眼では見分けなど付かんだろうな。たとえお前の顔が気に食わなかったとしても東雲家の娘には違いないのだから、向こうも文句は言えまい」
なんとまあ無礼なことを口にするものだろうか。
ほとほと呆れてしまいそうだが、悲しいことに今の幽子には父に逆らうことなどできない。
「お父様、きっと鴉天狗様方もわたくしの評判を知ったらお怒りになりますよ。婚儀どころか追い出されてしまいます」
「馬鹿なことを。婚儀まではもう一週間しかない、今更覆せるものか。あの忌々しい隻眼の醜男を殺せば約束は果たしたことになるんだぞ」
「とにかく一週間で花嫁修業を終わらせろ。最低限、東雲家の人間として恥じない程度には体裁を整えておけ」
「で、ですがせめて取り柄をひとつはと、琴の練習はお父様の言いつけで……」
「そんなものはもう不要だと言っている! 美しくも無ければ悪霊を祓うこともできない演奏など、誰が必要とするものか!」
激しい怒鳴り声に、幽子は自然と萎縮してしまう。
東雲家に伝わる秘術のうちの一つ、奏術。
管弦の調べに霊力を乗せ、悪霊を調伏する技のことだ。
古くは平安の頃から貴族たちに重宝され、今の時代でも東雲一族に受け継がれている技だが、幽子は奏術を扱えなかった。
輝かしい功績を持つ兄姉たちと比べられては笑いものにされてばかりで、霊力至上主義なこの世界に幽子の居場所はどこにもない。
「とにかく、奴を殺すことだけを考えておけ。段取りも全てこちらでやる。考える脳もないのだからお前はただ、私の命令に従えば良いのだ」
「……はい」
幽子が頷けば父は満足そうに去っていく。
まさかこんな形でこの家を出ていくことになろうとは、夢にも思わなかった。
(暗殺が失敗に終われば、東雲家はすぐに足元を救われてしまう。離縁されたとしても、二度と東雲家の敷居はまたげないわね……)
たとえ敷居をまたげても、それは死体となってのことだろう。
東雲家は元々名のある一族ではあったが、かつては他の一族に出し抜かれている状態が長く続いていた。
父の代になり急成長を遂げたものの、出る杭は打たれるというのが常というもの。
父は東雲家の立場を強固たるものにする為なら、どのような代償でも惜しまないつもりなのだろう。
妖の郷をひとつ手に入れたとなれば、他家も簡単に手出し出来ないどころか、和平へ傾いていた物の怪祓いたちの世論も一気に覆るかもしれない。
(もっと私に力があれば、こんなことにはならなかったのかしら)
ため息を飲み込んで、箏を片付ける。
幽子という名は幽玄を意味するとして、亡き母が名付けてくれたものだ。
その名に恥じぬよう努力を重ねてきたが、幽子に出来ることは妖力の気配や祓いを行う際の霊力の流れを読み取ることぐらい。
扱えないのならせめてこの長所をと思った時もあったが、いくら目が良かろうと祓術を扱えないのであれば何にもならない。
(いくら努力しても、結果が残せなければ意味もない。分かっていたことなのに、悲しいなんてね……)
引出しの中に丁寧に保管しておいた譜面を、手に取ろうとしてやめた。
父が日頃まとわりつかせている刺々しい霊力と違い、幽子の手のひらからは何も浮かばない。
そこにあるのは虚しさだけだった。
それからあっという間に日々は過ぎ、幽子は予定通り鴉天狗の一族へと送り出された。
嫁入り衣装は幽子に合わせて急遽直したもので、嫁入り道具も全て常子のものをそのまま持たされた。
ろくに役に立てないというのに贅沢など、と言われ、質素なものしか与えられてこなかったものだから、初めて着る華美な装いは少しばかりの心の慰めになった。
向かう先は鴉天狗の一族が治める郷、朱糸野だ。
亥の刻、満月の光が照らす夜の道を嫁入り行列が進んでいく。
朱糸野は四方を山々に囲まれた自然豊かな美しい郷だ。妖たちの住まう家々からは灯りが漏れ出て、集落を温かな色で包んでいる。
少し目を凝らせばいくつもの妖力が灯りに華を添えるかのように幽子の目に映る。
隣の月草は妖狐の治める郷で、さらに川向いにも他の妖たちの郷が続いている。
郷の代表である頭領一族がそれぞれ土地を治めており、朝廷や幕藩の管轄外の世界だ。
しかし朱糸野は現在の頭領が若くして亡くなり後継の席は依然として空席のままという状況である。
『武力を最も重んじる妖の世界のしきたりに従い、次の頭領はこの郷で最も強い妖とする』という遺言により、頭領一族の傍系や有力な一族同士が頂点を巡って争いあっており、その中でも白藤は最も有力な候補だとされている。
人間社会でも後継者争いは起こるものだが、彼らの習わしや暮らしは必ずしも人と同じではない。習慣や祝い事に始まり、社会制度やものの考え方に至るまで様々な違いがあると言えよう。
そうして、しばらく歩いた先。
郷の神事を執り行う社にて、幽子の夫となる男、そして、幽子が殺さなければならない男……白藤は待ち構えていた。
「君が俺の嫁か」
黒曜石のような艶やかな黒髪に、幽子よりもはるかに高い背丈。
眼帯が左目を覆い隠しているが、右目は白藤という名の通り淡い藤色をしていた。
袴姿ではあるものの、その背には黒い立派な鴉の羽が生えている。
周囲には彼の一族の鴉天狗たちが付き従うようにずらりと並び、幽子を見ていた。
「お初にお目にかかります。東雲幽子と申します」
恭しく挨拶をしても、白藤はじっとこちらを見つめている。
当然ながら、幽子を訝しんでいるのだ。
だがそれもすぐに、彼は幽子の手を取り社へ足を進める。
「では、行こうか」
幽子よりも大きな節くれだった手のひらは熱かった。
温度だけではない、彼の強い妖力が直に伝わってくる。
もはや目を凝らさずとも幽子には痛いほど伝わってきた。
強者としての風格、圧、それら全てが幽子をひれ伏させようとしている。
幽子は必死に震えを隠し、白藤の手を握り返す。
(なんて強い妖……この人を殺すことなんて、わたくしにはできない)
できないのならば、どうするか。
迷っている時間はもうない。生き残りたくば、道は一つだ。
月明かりを背に、幽子は心を決めた。
この男に、全てを賭けると。
そうして、迎えた初夜。
幽子は白藤から提示された解放という条件をいとも簡単に切り捨てた。
「俺の天下、だと?」
予想外の言葉に、白藤の手元が揺れる。
「わたくしと契約しましょう。あなたはわたくしを妻としてこの屋敷に置くかわりに、わたくしはあなたをこの朱糸野の郷の頭領にしてみせます」
「なっ……」
なんという大胆な提案だろうか。
白藤はこんな女を相手にするのは初めてだった。人間でも、妖でもだ。
「白藤様、その片目……もうほとんど見えていないのでしょう?」
「——————さあ、どうだろうな」
幽子の指摘に、白藤はあくまでシラを切ろうとする。
だが、その沈黙は肯定でしかない。
「ではなぜ、そのように不自然に距離を取るのです?」
「……」
白藤は切っ先をこちらに向けてはいるものの、不自然なまでに幽子から距離を取っている。
暗殺者を殺すのなら、そのように距離を取る必要はない。むしろ、至近距離で突きつけるのが自然だろう。
踏み込めば、一撃で幽子の首を跳ねられるはずだ。
(やはりあなたは……)
行灯の灯りだけが頼りの室内では、幽子のことはほとんど見えていないのだろう。
だからこそ、不用意に切ってしまわないようにあえて離れているのだ。
――――世間では恐れられておりますが、旦那様はどうしようもなく生真面目な堅物なのですよ。
閨の支度をしてくれた女中が、緊張をほぐすようにこそりと教えてくれたことだ。
確かに、彼女の言う通りの人物なのだろう。
真面目で誠実で、卑怯な真似が嫌い。だからこそ、この命を預けるに値する。
「それに、白藤様は先程からわたくしの影の動きばかり追っていますわ。どうして目を合わせてくださらないの?」
「っ、……もういい、黙れ!」
図星だったのだろう。
挑発するように片手をひらひらと振って見せれば、顔を歪めて幽子に殺気を放ち、さらに押さえきれないのかそれを上回るほどの妖力を放っている。
だが幽子は、これでようやく『本題』に入れるようになった。
「白藤様。わたくしが、あなたの目となりあなたを生涯お支えします」
「はっ、ふざけているのか? 解放してやると言ったのに、君のようなひ弱な人間が俺の目になるだと?」
「わたくしは最初から解放など望んでおりません」
幽子はただくすりと、優雅に余裕たっぷりに微笑んだ。
「このお屋敷では、日当たりの良い部屋に住まわせていただけると聞きました」
「……何が言いたい?」
「美味しい食事に、暖かい部屋。それ以上に理由が必要ですか?」
「……はぁ?」
心底理解できない、という顔だ。
彼にこんな顔をさせた者は、一体この世に何人いるだろうかと幽子は内心ほくそ笑む。
「わたくしはこの郷では、名門東雲家の娘としか知られておりません。表向き、あなたは東雲家の天才を囲い込んだと周囲に知らしめ、わたくしはその裏であなたの『弱点』を補う。わたくしは東雲家の天才を演じ、あなたは視力の弱点などないかのように振る舞う。わたくしは美味しい食事を享受し、あなたは秘密を隠さなくて良い協力者という安寧を享受する。とっても魅力的な提案だと思いませんか?」
「……」
白藤はしばしの沈黙の後、ようやく刀を下ろす。
そうして、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「いいだろう。ただし、妙な真似をしたらすぐに斬り捨ててやる。せいぜい俺のために足掻いてみせろ」



