はしたないのはオレの前だけ


 鷹谷と『普通のデート』をした2日後の火曜日。
 その日最後の講義のため教室に入った俺は、後方窓寄りの席で外を眺めながら開始時刻を待っていた。
 松枝と安田はそれぞれゼミに参加していて、今日は連れもいない。

(そういや俺もゼミの課題やってねーな。あれいつまでだったっけ……)

「よ、桧並サン」
「……は?」

 バッグをドサッと置いて左隣に座ってきた男に、俺はあんぐりと口を開く。

「鷹谷っ? おまっ、何してんだよ!?」

 今日はまた眼鏡と前髪でほとんど顔が見えないが、間違えようはない。
 鷹谷だ、文理学部2年の。経済学部、国際経済学科の俺と被る講義なんてないはずで、もちろん今までこの講義で見かけたこともない。

「俺、休講で暇になったから。この講義、教授緩いらしいしバレねーだろ」

 ぬけぬけと言いながら、着ていたミリタリージャケットを脱いで椅子にかける。

「だからってなんで来る!?」
「バイト。今日一緒だろ」

 鷹谷は声のボリュームを落とし、ひそっと囁くように答えた。

「……ここから仲よく一緒に行きましょうって?」
「そゆこと。あとはまぁ──」

 その時、ドアがガラッと開いて教授が入ってきた。鷹谷は言葉を切り、いかにも普通の受講生ぶってバッグから適当なノートや筆記用具を出し始める。
 本当に最後まで居座る気かと呆れつつも、俺もとりあえずは講義に耳を傾けた。実際この教授はゆるゆるなので、鷹谷が咎められることは多分ない。

「──であるからしてぇ……、ここで問題になってくるのは──」
「つまり、統計学においては──……」

(……ふぁ、ねっむ。この人のしゃべり方いつも眠くなるんだよなぁ。けど内容は重要だから寝れねー……)

 込み上げてきたあくびを嚙み殺しつつ、それでも真面目にノートを取り続ける。すると──隣で、気配が動いた。
 どうしたのかと思うとほぼ同時に、机上に置いていた左手に指が絡んでくる。

(へっ!?)

 ぎょっとして見ると、鷹谷はニヤリと口を三日月形にして、繋いだ手を机の下に滑らせた。

「……!」

(こっいつ、授業中にどういうつもりで──!)

 振りほどこうとするが、鷹谷はぎゅっと力を強めてきてそれを許さない。指と指を絡めた、いわゆる恋人繋ぎでがっちりホールドされている。

『は・な・せ!』

 眉を吊り上げて表情で怒りを示しつつ、声を出さずに訴えた。

「やだ」

 ごくごく小さいものの、鷹谷は声で答えてくる。腹の立つほど楽しそうな顔で。
 そして俺の指の付け根を撫でるように、親指をすりすりと動かした。くすぐったさに思わず首がすくむ。

「や、やめっ……」

 反射的に声が出てしまい、右手のペンを放り出してとっさに口を押さえた。
 鷹谷は吐息で笑ってさりげなく肩を寄せてくる。

「授業中こっそりイチャつくとか、アオハルっぽくていいじゃん。忘れてるときめき思い出させてあげようとしてんだけど」

(はぁっ!? アオハルだぁっ!?)

「ときめくか! 誰かに見られたらどうすんだよ!」

 仕方なく俺も最小限の声で返す。なんとかほどこうと手も動かし続けているが、適わない。力でも指の長さでも負けていた。

「誰も見てねーし、アンタがおとなしくしてりゃバレない」

 耳に吹き込むように涼しい声を落として、鷹谷はトントンと指先を動かす。まるでなだめるような動き。そしてまた、ゆっくりと指先で俺の肌をなぞる。

「っ……」
「好きなやつとはいつでもくっついてたい、触れ合ってたい。外では無理だけど、でも我慢できなくて、こうやってこっそり人目を盗んで触れ合う……」

 皮膚を滑る指先の感触に合わせて、少しかすれた低音が耳をくすぐる。 

「相手の体温感じてドキドキするのって、まずはこういうのからだよな。それで、もっと触りたい、キスしたらどんな感じなんだろう、他のところはどうなんだろうとか、エロい想像してまたドキドキして」

 言葉を切った鷹谷が上体を倒して顔を覗き込んできた。前髪の隙間から、黒い瞳が俺をとらえる。

「そういうの、いいと思わね?」
「……っ……知らねー、よ……!」

(普通の恋人同士でもねーのに、んなお花畑な気分になれるわけねーだろ……)

 俺たちは好き合ってるわけでもなくて、今は授業中で。

「ちなみにこの理論について、かの有名な経済学者であるイギリスの──」

 広い室内には、マイクを使った教授の声が響いている。周りの学生は皆静かに聴講しているのに、俺たちだけが逸脱している。

(こんなの、ときめきじゃなくて……)

 背徳感、罪悪感だ。やっちゃいけないことをしているという焦り。

「桧並サンにはそういう感覚、思い出してほしいんだよな」
「……も、黙れっ……」

 教授の声が途切れたわずかな隙に、俺と鷹谷の声が誰かに届いてしまうんじゃないか。近くに座っている誰かが、様子のおかしい俺たちに気づくんじゃないか。
 そんな焦燥で、心臓ができそこないのダンスみたいなリズムを刻む。体が火照って、繋いだ掌にも汗が滲んでいく。

「なんで。ドキドキしてない、今?」

 見透かすような目線が、憎たらしい。

(だからこれは、そういうドキドキじゃねーんだよ……!)

 違うはずだ、こんなの。
 精いっぱいの抗議を込めて、俺は熱に潤んだ瞳で鷹谷を睨み返すことしかできなかった。