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バイトを終えると、俺は大急ぎで着替えを済ませて店を出た。店前の路上ですぐにスマホを取り出し、鷹谷に電話をかける。
音声通話に応じてもらえるかは賭けだったけれど、2回スルーされた後、3回目でようやく繋がった。
『……何、しつこいんだけど』
ああ、鷹谷の声だ。ほんの数日聞かなかっただけなのにバカみたいな懐かしさが込み上げるのを感じながら、俺は端的に告げた。
「今からおまえんち行くから」
『は、なんで』
「話したいからに決まってんだろ。おとなしく待ってろ」
鷹谷の声は面食らっていたが、かまわず言い切って通話を切った。そして走り出す。一刻も早くという思いが急いて、走れるところは全部走って鷹谷のマンションまでたどり着いた。
「……はや」
インターホンに応じてドアを開けてくれた鷹谷は、呆れたような眼差しで息を切らす俺を出迎える。前髪は下りているが、眼鏡はかけていない。
「っ……走って、きた、からっ……」
「聞かなくてもわかる。水飲む?」
「あ、ああ……」
無言で促され部屋に上がると、奥の洋室には作りかけのパズルが出たままだった。それとはローテーブルを挟んだ反対側で息を整えていると、鷹谷が水を注いだグラスを差し出してくれる。
「ありがと」
ゴクゴクと水を飲んで、グラスをテーブルに置いて。ひとつ、深く深呼吸をした。
(うまく話せないかもしれない。けど、ありのまま話そう)
「この間引っぱたいちまったの、ごめん。気が昂ったからって、手出すの最悪……ほんと、悪かったって思ってる」
鷹谷はほんの少し目を見張った後で、すっと視線を外す。
「……別にいい。そんだけ苛ついたんだろ」
「そうだけど……漣とのことも、バーに行ったりしたのは鷹谷の言う通りで、俺が不用意だった。おまえが軽率だって思うのも当然だ。動揺してたなんて言い訳にもならないよな」
鷹谷はまだ床を見ていて目線が合わない。だからせめてもと、一歩間隔を詰めて続ける。
「でも、期待して行ったなんてことは絶対にないから。それだけは信じてほしい」
「……本当に?」
鷹谷が顔を上げた。俺を見る瞳がかすかに揺らめく。その揺らぎは、俺には『不安』のように感じられた。
「本当に。勝手な解釈だったけど、俺は本当に、漣はもう俺のことなんかなんとも思ってないと思ってて……ヨリ戻せるかもなんてカケラも考えてなかったし、今も考えてない」
「……今、も?」
「うん、今も」
しっかりとうなずく。
漣にああ言われて考えてみたけれど、これが答えだ。2年前は大好きだった相手で、好きなまま別れたけれど……再会にも告白にも、そういう意味で心は動かなかった。
「今はもう、あいつはそういう存在じゃない」
言い切った直後、鷹谷の体が近づく。次の瞬間には、強く抱きしめられていた。
「っ……た、鷹谷……?」
「……よかった」
頭のすぐ上で、心の底から出たようなつぶやきが聞こえてくる。
「……バイト中の態度見てたら、グラついてるようには思えなかったけど。あいつにアピられて、もしかしたらその気になったのかもって……一瞬疑った」
ぼそぼそと話す声には、普段のような強気さがまったくなくて。まるで鷹谷が今以上に年下の子供になってしまったような気がして、つい笑みがこぼれた。
(なんか……可愛い。とか、こいつに思うの変だけど……)
俺は右手を鷹谷の背中に回し、そっと触れながらゆっくりと話し出す。
「これは漣にも伝えたんだけど。俺、別れ方には傷ついたけど、終わったこと自体には納得してるんだ」
初めての恋と失恋。傷ついたこと、感じたこと。全部、きちんと伝えよう。
「漣とは高3になってしばらくして付き合い始めた。2年の時から同クラだったんだけど、言動がなんとなく自分と同じなのかなって感じることあって。漣も同じように思ってたらしくて、3年になってすぐ漣からカミングアウトされたんだ」
俺もそうだと打ち明けて。そこから一気に距離を縮めて、数か月後に付き合うことになった。
「俺、中学の時はノンケの友達に片想いしてて、気持ちすら言えなくて。初めてできた彼氏だから舞い上がってたのもあると思うけど、ほんとにすげー好きで、夢中だったっていうか……」
「夢中、ね。桧並サンが自分でそう言うなら相当なんだろうな。どんな感じだったの」
抱き締める腕を少しだけ緩めて、耳元でどこか悔しげな声が問う。
「とにかく好きって伝えたくて仕方なかったんだ、あの頃。別々の大学に通うようになってもこまめに連絡したし、会いたがってた。自分たちの関係についても、よく口にした。あ、漣は頭めっちゃよくて、大学もいいとこ行ってさ」
(それに……あんまり詳しく話してくれなかったけど、多分あいつ、将来もある程度決まってる)
漣は自分の家庭環境を口にするのを避けているようだった。でも言葉の端々から、恐らく……と推測できることがあって。多分あいつは、親の経営している会社を継ぐ立場なんだと思う。大学も、難関大学の経営学部に進学した。
『もしかしたら俺たち、住む世界が違う?』
そんな不安もあって、俺はますます気持ちをアピールせずにはいられなくて。
「ずっと一緒にいたいとか、就職したらどうとか、俺の夢物語みたいな話をよくしてた。それが漣の現実や心とはズレてて、重かったんだと思う」
自分には冬真と同じようなイメージが持てない、と言われたところからすれ違いが始まって。修復できないまま、大学1年の夏に終わったことも伝える。
「今思えば俺、自分のことしか考えてなかった。それは絶対に俺が悪いんだけど……でも同時に、やっぱ男同士の恋愛って難しいんだなって思っちゃってさ」
ははっと力なく笑うと、鷹谷が抱擁を解いた。そのまま両手で俺の肩を掴み、至近距離で見降ろしてくる。
「難しいってどういうこと?」
瞳は『そんなことないだろ』と言外に語っているようだ。そのまっすぐさについ怯みそうになるけれど、目線を外さずに俺は答えた。
「出会って、付き合うまではそんなに難しくないかもしれない。でも、その相手と長く関係を続けて、それこそ生涯のパートナーとして傍にいるとか……そういうのは、一人の大人として生きてく中で、ものすごくハードルが高いって。あの時は、そう思っちゃったんだ」
「……それが、まともな恋愛しなくなった理由?」
「うん。次恋をしても、本気で好きになったらまた、関係を継続させるためにきっとすごく体力と神経を使う。それでも別れが来てしまったら、またこんな苦しい思いをするんだって考えたら……もう、いいかなって」
「そっか」
鷹谷は静かにそれだけ言い、俺の肩から手を離した。そして無言で、その場にあぐらをかいて座る。俺を見上げると、自分の横をぽんぽんと叩いた。
提げていたバッグを下ろし、俺も膝を立てて座り込む。壁を背もたれにして、二人で並んだ。
「まぁ、過去の何かを引きずってるんだろうとは思ってた。桧並サン、別に軽薄なやつじゃないし」
前を見たまま、鷹谷はあまり感情がのらない声で言った。ただ、俺の話を受け止めてくれただけの言葉だ。
受け止めてもらえたことに安堵しながら、俺も「うん」とうなずいた。
「俺も、アンタに謝りたい」
「え? 鷹谷が俺に謝ることなんてないだろ。漣との関係を勘繰った件なら、俺が引っぱたいたのでもうおあいこなんだから」
「おあいこじゃねーよ、全然」
鷹谷は顔ごとこちらに向け、食い気味に否定してくる。苦いものを嚙み潰したような表情をしていた。
「だってアンタ泣かせて……好きなやつ泣かせるとか最低じゃん」
「……!」
『好きなやつ』という言葉に胸が小さく音を立てる。こら、と𠮟りつけて、今は鷹谷の話を聞くのが最優先だと耳を傾け続けた。
「好きとか、俺のものにしたいとか、他のやつに渡したくないとか。そういうのって全部、結局は自分のエゴでしかなくて。俺はいつも、それをそのまんま相手にぶつけてた。相手がどう思うかとか、そういう……相手のことを、ちゃんと考えられてなかった」
鷹谷の表情がますます険しくなる。ああそうか、この苦そうな顔の理由は『罪悪感』なんだと気づいた。
「俺、昔から人に合わせるのとか、人を気遣うのは苦手で……でも大事にしたい相手ならそれは駄目なのに、できてなかった。もっとよく相手を見て、この言い方で自分の気持ちがその通り伝わるかとか、押し付けになってないかとか、考えるべきだった」
そこで一度息を継ぐと、鷹谷は思案するようにこめかみを掻く。
「正直、そこまでしたいと思う相手がこれまでいなかったっていうか……去る者追わずじゃねーけど、自分に合わない人間なら俺の人生にいらねーだろ、みたいに思ってるとこあったし」
「はっ……鷹谷らしいな」
いかにもな口ぶりに、思わず噴き出してしまった。鷹谷はバツが悪そうに眉尻を下げる。
「笑い話じゃねーぞ。……今回は、心底後悔したんだから」
そう言うと、表情を引き締めて体を動かした。俺との間に手を突き、逆側の脚を立ててこちらに上体を寄せてくる。目線の高さを合わせるように顔が近づいてきた。
「なんでもっとアンタの気持ち考えてやれなかったんだって、自分殴りたいくらい……人生で初めて、こういう後悔した」
「……っ」
ダメだ。さっき叱りつけた心臓が、また騒ぎ出す。静まれ静まれと唱えても効果がない。
(こんなの……無反応でいるの、無理だろ)
人生で初めて、なんて。そんな、特別な言葉。
鷹谷の顔が近いせいで、余計に鼓動が加速してしまう。でも今は、こいつに伝えたいことがある。だから今度は俺が鷹谷の両肩をえいっと押して、間隔を取った。
鷹谷はちょっと不満げな顔をしたけれど、言葉を紡ごうとしている俺を見てすぐにそれを引っ込める。
「たしかにあの時、『んなこと考えてるわけねーのに、なんでそんなひどいこと言うんだよ』って悲しくなったけど。でもそれは、引っぱたいたのでマジでおあいこ。それ以外には、俺はおまえにエゴをぶつけられたとも、気持ちを考えてもらえてないとも思ったことないから。もう気にしなくていいよ」
「桧並サン……」
鷹谷はまじまじと俺に見入る。たっぷり2、3秒そうした後で、まだ少し不安そうに口を開いた。
「仲直りしてくれんの、俺と」
「仲直りって、言い方子供か」
「茶化すな。こっちは終わらせる覚悟でバイト辞めるつったんだけど」
(あ、そうだった。まだその問題も残ってた)
「辞めないよな?」
「……桧並サンがいていいって言うならいる」
「いいに決まってんだろ。辞めんな」
「わかった、辞めない」
答えながら、鷹谷は俺に体重を預けるようにして抱きついてきた。重みで背中が壁にぎゅむっと押し付けられる。
「ちょ、鷹谷、苦しい……!」
「今日、帰んの」
「えっ……?」
肩口で聞こえるくぐもった問いかけに、またドキンと俺の中で音がした。
「泊まってけよ」
「……や、でも……」
「別に、何もしねーし」
言葉を濁す俺に、鷹谷は起伏のない声で重ねて告げる。顔を上げ、視線を合わせてもう一度言った。
「帰んなよ」
(ずるいだろ。こんなふうに言われたら……)
「……わかった」



