●〇●〇
漣と話をした翌日。
この日も俺はシフトに入っていたが、漣は休み。そして、鷹谷は出勤という予定だった。
「ざまっす」
俺より1時間遅れでシフト入りだった鷹谷がパントリーに現れる。目が合った瞬間、俺はとっさに横を向いて視線から逃げた。
「……トウマさん?」
「あ……お、おはよう。俺ちょっとテーブル回ってくるから」
水差しを持ってそそくさとホールに出る。明らかにぎこちない態度になってしまった。わかっているが、どうしようもない。
(合わせる顔がないっつーか……)
昨日の漣とのことを考えると、自己嫌悪でとても鷹谷に平然とした顔を向けられない。
(あいつがどこまで確信持って忠告してきてたのかわかんねーけど……言われた通りになってんだもんな)
『漣にとっても昔の思い出。下心なんてあるわけない』
……俺が勝手にそう思っていただけだった。
「はぁ……」
個室に通じる無人の通路で、つい大きなため息をついてしまう。結局その日は普通に仕事はしつつも、まともに鷹谷と目を合わせることができなかった。
それでもどうにか閉店時間を迎え、その後のクローズ作業。
「……疲れた」
ぼやきをこぼしつつ個室を一人で掃除していると、突然勢いよくドアが開いた。
「桧並サン」
「っ、鷹谷……!」
(な、なんで来るんだよ……!)
「どうしたんだ? ここなら俺一人で大丈夫だぞ、おまえはホールのほう──」
「なんかあったんだろ、昨日」
言葉と同時に右手首を強く掴まれて、思わずビクッと体を震わせる。
「おまっ、離せ! 店だぞ……!」
「誰も来ねーよ」
「そういう問題じゃ……!」
振りほどこうとするが鷹谷も抗ってきて、軽い揉み合いになる。反動で足がもつれた俺は大きくよろめいた。
「うわっ……」
転倒は免れたが、後ろにあった一人掛けソファにどさっと座り込んでしまう。腕は掴まれたままで、立ち上がる前に鷹谷が膝のぶつかる距離に入り込んできた。覆い被さるように迫ってきて、動きを封じられてしまう。
「あいつと、昨日なんかあったんだろ」
貫くような眼差しで、もう一度同じ問いを繰り返された。
「っ……」
漂う気迫にゾクリとする。はぐらかそうとか考える以前に、気圧されて何も言えない。
けれど鷹谷は俺の態度でもう大体察しているのか、低く冷たい声で続けた。
「ヨリ戻したいとでも言われた?」
「……!」
「やっぱりか」
これもまたギクリとした俺の反応で確信したらしい。ほとほと呆れたように言い、掴んでいた手を放り投げるようにポイと振り払う。
「だから言っただろ。ごまかそうとしてもムダだから。詳しく話せ」
「……わかったよ」
座ったまま、俺は昨日のことを話し始めた。休憩中に頼まれ、仕事終わりにバーで会ったこと。ところがそこまで話した時、鷹谷がぎょっと目を剥く。
「はぁっ!? 酒飲んだのか?」
「え、いや……飲んだっていっても1杯オーダーしただけで……」
「そういう問題じゃねーだろ。なんで酒飲む店に行くんだっつってんの」
再び体を屈めた鷹谷の顔がぐっと迫ってくる。頭ひとつ分もない距離で怒りをあらわに凄まれ、俺は身をすくめた。
「なんでって言われても……特に、理由は……。ていうかずっと動揺してて、ただ漣についていっただけで……場所のことなんて、深く考えてなかったっていうか……」
目線を泳がせながらしどろもどろに説明する。
「っ……アンタさぁ……」
息とともに吐き出された語尾はわずかに震えていて、強い苛立ちが滲んでいた。同時に胸元へ腕が伸びてくる。今日は黒タイを選んで着けていたが、それをむんずと掴んで引っ張られた。
「ちょっ……!」
「そういうとこが緩いってんだよ、アンタは」
首の後ろを圧迫される感覚に声をあげたが、これまで以上に鋭い眼光に射すくめられる。
「俺、気をつけろって言ったよな。なのになんで酒飲むわけ?」
「だっ、だから飲んでないって。俺、急にそんなこと言われても困るって言って、すぐに漣を置いて帰っ──」
「そもそも隙見せんなって言ってんだよ」
さらに強くタイを引っ張られ、首が反った。
(こいつ、本気で怒ってる)
ここまで強い怒りをぶつけてくる鷹谷をこれまでに見たことがない。圧倒されて、酸欠のように息苦しさが増してくる。
「どこまで無防備なの? 脇が甘いのも大概にしろよ。ああ、それか──」
怒りだけだった鷹谷の瞳に、ふっと昏い火が灯った気がした。片方だけ口角を上げた、無理に作ったような冷笑がその顔に浮かぶ。
「もしかしてアンタも期待してたのか? 男断ちに限界来て、人肌恋しくなって、ワンチャンありって思って行ったんじゃねーの」
「なっ……」
ぐらっと、全身の血が一瞬で沸き立った。
鷹谷が怒っているのはわかる。わかっているし、怖かった。自分に非があるのも重々承知だ。
けれど。だとしても。
(んなこと、あるわけねーだろ──!)
パンッと、高い音が響いた。掌がビリビリと痛い。でも今はそれ以上に、俺も怒りが爆発している。
「……いいかげんにしろ」
低く押し殺した声をもらし、斜め上にある鷹谷の顔を睨んだ。
「……ってぇ」
つぶやいた口元が歪む。
──次の瞬間には、その唇がぶつかるように俺の唇をふさいだ。
「……!」
突然のキスに動転する。呼吸することも、目を閉じることもできない。
「誰のせいだよ」
もどかしげに吐き出し、鷹谷はキスを深めてきた。唇を割り開かれ、入り込んできた舌が俺のそれを強引に絡め取る。むさぼるような求め方に翻弄されて、脳がビリビリと痺れた。
(苦しっ……)
ネクタイは引っ張られたままで、息も継げなくて。本当に酸欠かもしれない。頭がくらくらする。
「っ……やめ、ろっ……!」
これ以上続くと本気で気が遠のきそうな不安に、渾身の力を振り絞って鷹谷を突き飛ばした。
成功したようだ。生理的な涙でぼやけた視界の先に、体勢を立て直す鷹谷が見える。
(わかってるよ、俺が悪いのは。鷹谷の言うことだってもっともだ)
(いいかげんな付き合いばっかしてきて……俺、正しい距離感も忘れて、フラフラするだらしないやつに成り下がってんのかもしれない)
(だけど、それでも……あんな言い方はあんまりだろ)
人肌恋しいなんて、ここ最近は微塵も考えなかった。そんな感覚さえ忘れていた。
──それはきっと俺の中に、鷹谷という存在が入り込んできたからなのに。
「……俺だってバカだったって思ってる。漣の考えてること、まったくわかってなかった。けど、そういうやつなんだよ、俺は」
視界がどんどんかすんでいく。何かおかしいと感じてようやく、俺は自分が泣いていることに気づいた。もう生理的な涙ではない熱い雫が、後から後からあふれてくる。
けれどそれを拭うこともしない俺を、鷹谷は呆けたような顔でじっと見ていた。
「緩くて、隙があって脇が甘いって、おまえが思うならその通りなのかもしれない。でも、できねーよ。俺はおまえじゃないから、おまえみたいに要領よく正解だけ選んだりできない。真剣な相手を切り捨てんの、できなかった」
「桧並サ──」
「おまえに嫌な思いさせて申し訳ないとも思うけど……こんなふうに言われても、苦しいよ。俺がダメなんだろうけど、苦しい」
もれそうになった嗚咽をぐっと堪えて、右腕で涙を拭った。腹筋に力を入れて立ち上がる。
「仕事戻る」
足早に部屋を出た俺を、鷹谷が追ってくることはなかった。
●〇●〇
翌日。講義前の教室で、俺は力なく机に突っ伏していた。
(さすがにビンタはまずかったか……)
昨日あの後、鷹谷とは一言も口をきかずに勤務を終えた。連絡もない。
引っぱたいて、感情のままの言葉をぶつけて。多少冷静さが戻れば、大人げなかったしやりすぎたとは思っている。
(謝るべきか……? でもなぁ……言い方はまずかったかもだけど、正直あれが本音だし……)
(ビンタはやりすぎだったってところだけ謝る? それもなんか……)
鷹谷からしてみれば、俺みたいなやつは見ているだけで苛つくんだろう。ビンタを謝ったところで根本的な解決にはならない。それならいっそ、何も言わないほうがいいような気さえしてくる。
(いやでも、これからも同じ店で働くんだしな。やっぱ筋として詫びは……)
「ああぁぁ~っ、どうしたらいいんだぁ……!」
「え、何。どした?」
「急に雄叫びあげんな。こわ」
ビビり声のリアクションに顔を上げれば、傍らに松枝と安田が立っていた。俺を見つけてやってきたところのようだ。
「……ちょっとな」
「おいおい、クマやべーじゃん」
「もしかしてレポート進んでねーの? 頑張れよ~」
(……レポートのほうが簡単かも)
整理するのにはこちらのほうが時間を要しそうだ。しかも、無情にも締め切りは目前に迫っている。
(今日のバイト、また3人で研修の日だよな……。はぁ……どうする俺……)
陰々滅々としたまま授業を終え、店へと向かった。
3人とも入り時間は同じだ。鷹谷とは道中で出くわす可能性も高いと思っていたが、会うことのないまま事務所に着く。
俺を見ると、颯月さんが「あ」と口を開けて近づいてきた。
「トウマ。今日、タカは病欠になったんだ。だからレンの研修、一人でお願いできる?」
「え……」
(病欠……?)
「へー、そうなんだ。風邪かな。インフルじゃないといいけどね~」
休憩中で、ソファに座っていたイブが会話に入ってくる。
「昨日は普通だったし、そこまでひどい様子じゃなかったからただの風邪じゃないかな」
そう、昨日は咳のひとつすらしていなかった。
(仮病? まさか、昨日のことが原因で……?)
俺と顔を合わせたくなくて──状況的には、どうしてもそう考えてしまう。
(……そりゃそうか。あっちだってキレてるよな)
だからといって仕事に影響を出すのはどうかと思うが、勤務中にあんなことをした俺にとやかく言う権利もない。「わかりました」と颯月さんに答えた時、ちょうどドアが開いて漣が入ってきた。
「あ……」
漣とも、バーで話したあの時以来だ。気まずさでお互い最初は視線が泳いだが、指導役としてここはきちんとしなければと、俺から話しかけて鷹谷の不在を伝えた。
「……ごめん、やりづらいよな」
着替えて二人一緒に更衣室を出る時、漣が小声で謝ってくる。
あの時、『急にそんなことを言われても考えられない、困る』と伝えた俺に、漣は『考えてみてほしい』と言い、俺は返事もせずに店を出た。
(だけどこれも、漣が謝るようなことじゃないよな。全部俺が、すぐにはっきり答えを出さないから……)
「ううん、大丈夫。……あの件はもう少し時間欲しいけど、研修はちゃんとやろう」
せめてもの罪滅ぼしにと、精いっぱいの笑みを作って答える。漣もわずかに口元をほころばせ「うん」と返してくれた。
若干ぎこちなくはなってしまったものの、その日も無事に研修を終え──
(このままにはしておけないよな)
夜、帰宅するとすぐにスマホを取り出し、ラインの画面を開いた。
昼間にはうじうじ悩んでいたが、鷹谷がバイトに来なかったことで逆に腹が決まった。
あいつは責任感のない男じゃない。なのにそんなあいつが急な欠勤をするほどのことを、俺はしてしまったのだ。
(とにかく、話そう)
『昨日は悪かった。引っぱたいたこと、反省してる。風邪だって聞いたけど、本当なら大丈夫か? もう一回話がしたい』
そうメッセージを送って、しばらくの間じっと画面を見つめる。無反応なので数分で諦めたが、入浴後に確認するといつの間にか既読がついていた。
(……既読無視か)
日付が変わり、寝ようという頃になっても返信は来ない。
「……もう、愛想つかされたのかな」
深い息をついてスマホをヘッドボードに置き、布団にもぐり込んだ。



