漣のメンターを始めてから1週間ほどが過ぎた。
漣のシフトは俺か鷹谷の出勤日に合わせられている。元々冬の書き入れ時で俺たちも極力シフトに入っていたので、3人揃って研修できる日も多かった。
その日も順調に指導を終え、次のスケジュールを確認すると──
「あ。次はタカがいないから、俺だけになる日か」
「……っすね」
俺はスケジュールを見て思い出したけれど、鷹谷は覚えていたのかあらぬほうを向いて低く答える。ふてくされたような声だ。
「明後日だよね。……よろしく、冬真」
対して漣は、どことなくほっとしているような顔で先に上がっていった。今日は予定があるとかで、漣の退勤時間が少し早い。
その後、俺と鷹谷は同じ時間に上がり、店も一緒に出た。すると店を少し離れたところで、ふいに隣を歩く鷹谷が間隔を詰めてくる。
「明後日、気をつけろ。あいつにあんま気許すな」
「はぁ? どういう意味だよ」
「あいつが下心出してくるかもって言ってんだよ」
真顔で忠告してくる鷹谷に、俺は一瞬ぽかんとした後で眉を寄せた。
「おまえ、まだそんなこと言ってんのか」
(漣が元カレって知って、完全に邪推してるよな、こいつ)
(そりゃもちろん、俺だってまだちょっと気まずいけど……でも漣の様子におかしいとこなんかねーし、研修も問題なく進んでんのに)
「漣は普通に仕事頑張ってるだけで、なんもしてねーだろ。下心とか、あいつにも失礼だぞ」
語調を強めて睨みつける。鷹谷は無言で俺を見返していたけれど、やがて疲れ切ったように嘆息した。
「……はぁ、そうかよ。これからも何もないといいな」
吐き捨てるように言い、「先行くわ」と付け足して歩を早める。すぐに距離が開き、後ろ姿は人混みにまぎれた。
「何もって……こっちはこっぴどくフラれてんだぞ。何があるってんだよ、ったく……」
──そして2日後、マンツーマン指導の日。
この日はいよいよ紅茶のサーブを教えることになっていたので、キッチンの片隅で研修を進めた。
「姿勢は常に意識して。ポットの位置はもう少し上。そう、それくらい──」
「うう……緊張で力入っちゃうな……」
「わかる、最初はみんなそう。だから意識して肩や腕の力は抜くといいよ。レン、もう基本姿勢はバッチリだから──」
今日も漣は熱心にスキルを習得しようと頑張っていて、順調に進んでいく。1時間ほど経過したところで、いつものように10分休憩を入れた。
(新人の時はとにかく緊張で疲れるし、こまめな休憩必須だよな。でも漣、今日はいつもよりリラックスしてるかも。もしかして鷹谷がいないからか?)
あいつは不機嫌でなくても基本的に態度がそっけないので、気持ちはわかる。
「それにしても、もうすぐ12月か。あっという間にクリスマスイベントの日が来そうだな」
休憩室に移動してソファに座ると、漣が壁のカレンダーを見ながら言った。
「かもな。この時期バタバタだから」
「……冬真、24日クローズまでシフト入ってるよな。25日は休みみたいだけど」
漣の目がこちらに向く。声にかすかな緊張が混じったように聞こえた。
「あー、うん」
「じゃあ、個人的な予定は25日に入れてる感じ?」
「いや、25は寝るわぁ。脅すわけじゃねーけどクリパイベ、マジでけっこう疲れんだよ」
これは本当だ。具体的に考えていたわけでないが、大学も休みに入るので思いっきりダラダラしてやろう、くらいのつもりでいた。
「はは、そうなんだ。怖いな~」
肩を揺らして漣が笑う。けれどその笑みはすぐに引っ込み、張りつめた顔がまっすぐ俺を見た。
「……あのさ」
その一言にこれまでとは違う空気を感じて、俺も小さく息を詰める。
「俺、ここで冬真に会えてよかったって、ひそかに喜んでたんだ。……ずっと、話したいって思ってたから」
熱量を増した声には、緊張とどこか焦燥のような響きがあった。
「は……」
俺は即座にその意味を咀嚼できず、石のように固まる。漣は切り出したことで勢いづいたのか、前傾姿勢で言葉を重ねた。
「今日、仕事終わったらどこかで話さないか?」
(え……なに。どういう展開、これ)
(俺と漣で話? って、今さら何を?)
「……話すことなんて、何もないだろ」
俺が目を逸らすと、漣も申し訳なさそうにうつむく気配がした。
「謝りたかったんだ、2年前のこと。あんな形で終わりにして、俺、最低だったって思ってるから」
「……!」
ドクンと心臓が音を立てる。俺の意思に関係なく、一瞬であの日の記憶が今起こっていることのように甦ってくる。
「虫がいいのはわかってる。でも、あの時できなかった分、ちゃんと話をさせてくれないか。頼む」
(……どう答えるのが正解なのかわかんねー)
ただわかるのは漣の言葉が必死に紡がれた、真剣なものだということで。それを突き放す頑なさは、俺にはなかった。
「……わかった」
(……来ちまった)
その日の退勤後。動揺そのままに店を出て、漣の先導で近くのバーに入った。
カウンター席に座ってそれぞれのオーダーが出てくるまで、俺たちの間に会話はほぼない。漣の緊張と、どうしたらいいかわからない俺の困惑が漂うのみだ。
「……あの時は、本当に悪かった」
カクテルに口をつけて唇を潤したところで、ようやく漣がそう切り出した。
「お互い大学が始まって、生活とかずれることも増えてきて。冬真はこれからのこととかよく話してくれたけど、色々考えたら俺、不安になってきて」
「……うん」
(それはあの時も聞いた)
『冬真のことはすごく好きだけど、俺たち男同士で、これから周囲の環境もどんどん変わっていくだろ。でも俺には、5年後10年後に冬真と一緒にいるイメージが見えないんだ』
夏前、漣がそう言ったのが始まりだった。
きっとそれまでにもズレはあったんだろうけど、俺は好きだという感情で視野がいっぱいで、見えていなかったんだと思う。
でもそれが漣の言葉をきっかけに表面化し、互いの考え方や目指す形の違いが覆い隠せないほどの溝になってきた。
だけどそれは、どっちが悪いとかそういう話じゃない。
「あのさ。俺、メールで終わらされて最後に話す機会ももらえなかったのは、たしかにショックだったけど。漣の選択自体は納得してるし、ひどいとも思ってないから」
誤解があるなら最初に解いておきたいと、思い切って自分からそう話す。
「だから、謝るってんならメールのことだけで──」
「違うんだ!」
思いのほか強い口調で遮られ、俺はハッと漣を見る。漣は昂揚で目尻をほのかに染めていた。
「謝りたかったのは、もっとちゃんとあの時の冬真や、自分の気持ちに向き合わなかったことで……あの時は目を背けて終わらせた気になってたけど、後から何度も冬真のこと思い出した。それで、後悔した」
「え……」
呆然とする俺のテーブルに置いた手へ、漣が掌を重ねてくる。
「れ、漣……」
「──冬真。やり直せないかな、俺たち」



