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大学1年の夏休み。その日、俺は図書館で課題用の資料を探すために来校していた。
けれど、気分は重く沈んでいた。数か月前から恋人との関係がギクシャクしていて、悩んでいる時期だったのだ。
高3の時、人生で初めてできた彼氏。クラスは違ったが同学年で、別々の大学に進学してからも関係は続いていた。
俺は彼が大好きで、夢中で。こまめに連絡し合っていたし、休日にはデートして、翌朝まで過ごすこともあって。順調だと思っていた。
だけど、6月に入ったくらいから向こうの態度が変わり始めて。
夏の盛りにはもう、正直なところ終わりの予感もあった。あったけれど……。
図書館で本を借り終えて、帰ろうとその棟のラウンジ脇を歩いていた時。彼からメッセージが届いた。
『やっぱり冬真とはもう無理だ。嫌いになったわけじゃないけど、俺たち考え方も違うしこれ以上一緒にいるのは難しいと思う。終わりにしよう。ごめん。もう会わないし連絡もしない』
「……!」
決定的な別れの言葉。
とうとうそれを告げられてしまったことと、こんなにもあっさり、メールで済まされてしまうのかというショック。
目の前が真っ暗になり、近くのテーブルにすがって座り込んだ。涙があふれて、視界が溶けた。
休暇中でラウンジにも人影はまばらだったので、人目も恥も忘れてボロボロ泣き続けた。
けれど息を継ごうと顔を上げた時、少し離れたところで男子学生が一人、驚きの眼でこちらを見ているのに気づいて。
(ヤバ、ガン見されてる……)
俺は慌てて走り去ろうとした。でも力の抜けた体は情けなくもふらついてしまい、別のテーブルに思いきり足をぶつけてしまう。
「うわっ」
再び座り込んで痛む脛を押さえる俺に、足音が近づいてきて──
「あー、なんかすいません、俺のせいで」
背の高いその男は、長い脚を折って俺の傍に屈み、手にしていたミネラルウォーターのボトルを差し出した。
「これ、まだ凍ってるから。目冷やせば」
コンビニで買える、凍らせて売っているものだ。少し溶けかけていて、水滴がポトポトと落ちる。
「え……でもこれ、キミの……」
「いい。まだ飲んでねーし」
ぶっきらぼうに言うと、彼は俺の手にボトルを押し付けて立ち上がった。離れていく背中をしばらく呆然と眺めていたが、ハッと気づいて俺も立ち上がる。
「あっ、あのっ」
泣いた名残の鼻声で呼び止めると、彼は振り返った。
「あ、ありがとう」
それを聞いた彼は数秒無言で俺を見つめた後、わずかに頬を緩めて、
「どういたしまして」
短く応え、今度こそ去っていった。
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(そうだ、あの時のあの人……私服だったし、ここの学生だと思ってたけど……)
「……あの時水くれたの、鷹谷だったのか……」
「思い出した?」
「思い出した。悪い、俺、全然気づいてなくて……」
「それは別にいい。俺の顔なんてろくに見てなかっただろ」
「……まぁ、そうだな……うん」
(まともに頭動いてなかったし、泣きすぎて視界ぼやけてたし……)
「ていうか、あの時も驚いたんだよ。何があったか知んねーけど感情剥き出しで、魂溶けて出てくんじゃねーのってくらい泣いてんのに、わざわざ礼言ってくれんだって」
「それは……水もらったから……」
「あげたけど。それどころじゃないだろうに、真面目っつーか律儀っつーか。あんだけ泣けんのもすげーし、なんか可愛い人だなって思ったんだよな、あの時」
「え……それって……」
(じゃあ……もしかして、鷹谷はその時から……?)
表情から内心の疑問を感じ取ったのか、鷹谷は肯定するように顎を引く。
「一目惚れとまではいわないけど、ずっと印象に残ってた。入学してからも気になって、どこかにいないかって探したんだ。2週間くらいして、学食で見つけて。こそっと学部と名前ゲットした」
「こそっとって……盗み聞きかよ」
「見つけたからには情報収集するだろ。学部違うし、あんまり機会はなかったからバイト追っかけて……それからも見てた、アンタのこと。そんで、どんどん好きになっていった」
「……っ」
(……ヤバい)
心音が駆け足を始めるのを、はっきりと感じてしまう。ダメだと念じても止められない。
(このタイミングで、ずるいだろ……そんな前からって……)
引っ張られたくないのに、傾きたくないのに。足元が揺らぐ。
温度を高めたように見える鷹谷の瞳からも、目が逸らせない。
「俺が本気だってこと、少しは伝わった?」
「根に持つな。……もうそんな……疑っては、ねーし……」
なけなしの虚勢で出だしこそ強気に言ったけれど、語尾はどんどん落ち着きを失っていく。
「じゃ、好きになってきた?」
「そっ、そんなことも言ってねー! 拡大解釈すんなっ……!」
ボッと鳩尾に火がともって、頭のてっぺんまで一気に熱が駆け抜けた。
ああ、足場も俺の心もグラグラだ。
「ひでーな。俺はこうして話すようになって、前よりもっと好きになってんのに」
拗ねたように目尻を下げ、鷹谷は片手で俺の頬に触れてくる。
「っ……」
この指先を冷たく感じるのは、きっと俺のほうがとんでもなく熱いからだ。
「初めて会った時の感覚、間違ってなかった。桧並サン、やっぱいい」
するり、火照った頬を撫でられて思わず肩が揺れる。
「寂しがりのくせに強がりで、でも強がりきれてなくてすぐ顔に出る。結局素直になっちゃってたりするし、可愛すぎ」
「っ……可愛い可愛い、何回も言うな……」
(そんな優しい目で言われたら、もう……)
これ以上、鷹谷のほうに傾きたくない。寄りかかってしまったらダメだ。そう懸命に言い聞かせているのに。
体の内側から別の感情がグイグイ自分を押して、突き破ってきそうになる。
(流されるな……しっかりしろ、俺……!)
「……離せ、バカ」
全身が痺れたような感覚に陥っていたけれど、どうにか腕を持ち上げた。頬に触れる鷹谷の手を掴んで、下ろそうとする。
でも、鷹谷は抗ってきた。掴んだ手を、逆にするりと絡め取られてしまう。
「離さない。俺、やっぱ絶対アンタ欲しいから」
「……! な、に、言っ……」
「早く好きになれって言ってんの」
もう一方の手が腰に回り、クイと引き寄せられた。そんなに強い力ではなかったのに抵抗できない。
何もかも見通しているような瞳が、俺の動きを封じてしまったみたいだ。
逃げられないし──逃げなければ、なんて考えることすらもう忘れていた。
今、真剣な表情で目の前にいる鷹谷しか見えない。
(ダメ、なのに……)
レンズ越しの黒く濡れた瞳がゆっくり近づいてきて、やがて焦点が合わないほどに視界を埋めていく。
唇にかかる吐息に誘われたように、俺は目を閉じてしまっていた。
「っ……」
唇が触れ合う。ほんのりとした熱が、驚くくらい優しく俺を包む。まるで繊細な綿毛に触れるように、本当に優しく。
その温もりが、俺の中にも息づいて。音もなく胸のほうへ落ちていくのを感じた時、頭の隅でかすかに考えていたこともすべて蒸発するように消えていった。
もう恋はしないとか、あの夏に誓ったはずだとか。好きになったらいけない、期待しちゃいけない、とか。そんなことが全部。
(もう……無理、かも……)
触れるだけのキスは、またゆっくりと離れていく。目を開けると、鷹谷の柔らかい笑顔が少し滲んで見えた。
「……いつ人来るかわかんねーのに」
うるさい鼓動が聞かれてしまいそうで、苦しまぎれにそんな文句を口にする。
「アンタも逃げなかっただろ」
「…………」
(……鷹谷の言う通りだ)
面映ゆい空気を味わいながら、しばらくの間、俺たちは肩を並べて座り続けていた。敷地の中心部からは離れているせいか、賑わいはやや遠く聞こえる。
「展示、見る?」
やがて鼓動が落ち着いた頃、鷹谷がおもむろにパネルを指差した。
「……うん、見たい。鷹谷がどんなことしてんのか教えて」
「了解」
二人で立ち上がり、鷹谷に説明してもらいながら展示を見て歩いた。
慰問に行くと毎回笑顔で迎えてもらえること。河川敷清掃で想像以上のゴミが集まったこと。子供食堂で料理の腕を振るって絶賛されたこと。そんな鷹谷の話を聞くのが、存外楽しくて。
何人かは来客もあったけれど、無人になるとまた二人で話し続けた。
「午後どこ行いきたい、桧並サン?」
「んー。とりあえず腹ごしらえじゃね」
「だな。やっぱ焼きそばとかお好み焼きとか?」
「手堅いとこだな」
小一時間もすると交代の学生がやってきて、お役御免となった鷹谷と校舎を出た。
予定通り焼きそばとお好み焼きを買い、さらに追加の焼き鳥を食べながら歩いていると、毛色の違う可愛い外装の屋台に行き当たる。
「っ、あれは……」
「どした?」
つい足を止めた俺を、鷹谷が不思議そうに振り返った。
(あれは学園祭名物だっていう、製菓サークル恒例のクレープの屋台! めちゃくちゃうまいっていう噂の……)
「あー、なんか大体読めたわ。行く?」
俺と屋台を見比べていた鷹谷が、笑いを堪えるような顔で顎をしゃくる。
「や、でも……キャラじゃないし……」
(だから興味はあるけど今まで買ったことないんだよな……)
「んなの誰も気にしてねーって。食いたいもん食えばいいだろ」
言うが早いか、鷹谷は俺の手首をむんずと握って歩き出した。
「うおっ、ええっ……」
「ほら、どれにすんだよ」
「え、えっと、じゃあ……ショコラバナナキャラメルカスタードクレープ、生クリーム多め」
(はっ、しまった。欲望のままに言ってしまった!)
鷹谷は「名前長っ」とツッコんでから、売り子に「それひとつ」とオーダーしてくれる。
「はーい、ショコラバナナキャラメルカスタードクレープ、生クリーム多めでーす」
「どうも。はい、桧並サン」
「サンキュ……わ、うまそ……!」
受け取ったクレープは文句なしの好物てんこ盛りで、あっさりテンションが上がってしまう俺。
「んーっ、うんまっ!」
「はは、幸せそー。な、買ってよかっただろ?」
「んむっ……そう、だな……」
食べたいものを食べるなんて当たり前のことなのに、どうして今までこんなに気にしていたんだろう。鷹谷の笑顔を見ていると、自然とそんなふうに思えた。
(鷹谷は俺みたいにあれこれ、うじうじ考えたりしないから。なんか、つられる)
(でも今は、それも嫌じゃない。それどころかむしろ……心地いい)
(あー……ほんと俺、鷹谷のこと……)
クレープの甘い香りに包まれながら、ほわほわと考える。その時、今度は鷹谷のほうが唐突に足を止めた。
「まずい、桧並サン」
「え、何?」
「あれ」
鷹谷は目配せで、少し離れた位置に立っている女子2人を示す。彼女たちも、ちらちらとこちらをうかがっていた。
「ねぇ、あそこにいるのってアキバのサニーガーデンのさ……」
「知ってる、爽やか執事の子だよね! え……待って、ひょっとしたら隣にいるの……」
(……! 鷹谷がバレそうになってる!?)
「逃げんぞ」
再び鷹谷に手を引かれ、走り出す。
「うわっ、ちょっ! まだクレープ食ってんのに! バナナ落ちるっ」
「頑張れ」
「簡単に言うな!」
悪態をつきながらも、俺は自分が笑っていることに気づいた。
(はは、なんでだ。なんで楽しいんだろ)
右手を鷹谷に引っ張られ、左手のクレープはこぼれそうで。そんな俺たちに向けられる目も数多くあるのに、今はなぜか大して気にならない。
「6号館まで避難!」
そう言いながら、前を走る鷹谷も笑っているから。
俺の足取りも、ほわほわと軽かった。



