珠景姫 Mikage Hime ~百年越しの夏に見た夢~


 太陽が世界を照らし出す。
 目を覚ますと、八月九日の早朝だった。

「……大丈夫なんだ」

 どこに居ても『八月八日が終われば、眠りについてしまう』かもしれない。
 現代で生きる決断をした時、その不安だけは拭えなかった。

 八月八日しか生きられないのは、ある種の呪いだと思う。
 しかし、その制約は御神体に居る時だけ、効力を発揮するらしい。

 改めて、特異な存在であることを痛感する。
 中庭の雑草に視線を落とすと、重たい息が漏れた。

「清々しい朝に、ため息をつく子は誰だぁ」
 声が聞こえた方向に目を向けると、ゆっくりと弥栄(やえ)が歩いて来た。

弥栄(やえ)おばあちゃん……おはようございます」
「おはようさん。早起きだな」
「目覚めが良かったから。空も晴れていたし」
「心は晴れていなそうだけども」
 弥栄(やえ)の返しに、思わず黙ってしまう。

「何を悩んでいるんだい?」
「……やっぱり、色歌(いろか)には申し訳ないなって」
「そうか。朝食を作るから、一緒においで」
 弥栄(やえ)の後を追い、珠景(みかげ)も厨房へ。

 朝の厨房は、夜とは違う雰囲気を見せる。
 窓から射し込む光で、流し台のタイルがキラキラと輝いていた。
 弥栄(やえ)は手を洗うと、朝食の準備を始めた。
 「それで?」

「……姫として生きて、長姫(おさひめ)として死んでいく――。そんな人生を送りたくなかったし、特別な扱いを受けるのも嫌だった」

 だからね。と言葉を繋ぐ。

「私が、長姫制度(おさひめせいど)を終わらせようと思った――」

 生き地獄が続くのなら、この命で未来の子供に自由を与えたい。
 結婚と出産を強要される前に命を絶てば、自分を守ることも出来る。
 最後の姫になる決意は、一瞬で固まった。

「本当は、一人で成し遂げるつもりだったけど…… 色歌(いろか)に怪しまれちゃって。仕方なく全て話したの。すぐに反対されたし、泣きながら必死に怒ってくれた」

 懐古の笑みに、切なさが染みる。

「姫の『命令』ってさ。使いたくない権限まで使って、強引に説得したんだけど……裏では、ずっと一人で……私を止める手立てを考えてたんだと思う。色歌(いろか)は誰よりも賢くて、諦めの悪い子だったから」

 ただの姉妹から、姫と侍女へ。
 関係性が変化しても、いつも一緒だった。
 これからも続く日常を手放して、十七歳で別れを告げる。

「最後の夏を一緒に楽しんで、迎えた長姫(おさひめ)昇格の日。色歌(いろか)に全てを託して、私は御神体の穴に飛び込んだの」

 あれから、百年の月日が流れたのに。
 珠景(みかげ)にとっては、百日前のことなのだ。
 姫として生きた時代の記憶は、今も鮮明に残っている。

「きっかけを作ったのは私だけど、長姫制度(おさひめせいど)の撤廃を成し遂げたのは、色歌(いろか)なんだよ……あの子の青春時代を、私は奪ってしまった……」

 自然と涙が溢れ、頬を伝っていく。 
 十四歳の少女に、姉の死と文化の変革を背負わせたのだ。
 それが、どれだけ酷なことかも分からずに。

「『だから、申し訳ない』と」
 弥栄(やえ)の言葉に、珠景(みかげ)は涙を拭いながら頷く。

「これは母の遺言だ。『もし、珠景姫(みかげひめ)が帰ってきたら、自由に暮らせる環境を作ってあげて欲しい。今の時代なら、きっと幸せに生きられるから』」

「……なんでよ……」
 戸惑う心に、温かさが滲んでいく。

「良い事があれば『今度、姉さんに教えないと』って喜んで、テレビに映るアイドルを可愛いって言えば『姉さんより可愛い人はいない』と呟いたり。まぁ、とにかく、毎日のように、珠景姫(みかげひめ)の話を聞いて育ったもんだ」

 懐かしむように微笑むと、弥栄(やえ)は野菜を切る手を止めた。

「誰よりも珠景姫(みかげひめ)のことを知る母が、怒ると思うか? むしろ、泣いて喜ぶと思うよ」

 珠景(みかげ)を見つめ、弥栄(やえ)は優しい声で告げる。

「母は、あなたの事が大好きだったから」

 目に映る世界が、綺麗に洗われる。
 心の土壌に触れる雫は、不思議なくらい温かくて。
 淡い光さえ、眩しく見えた。

「……ありがとう、色歌(いろか)……私も大好きだよ」

 涙の雨が降り、悩みの雲が消えていく。
 心も晴れ渡り、七色の想いで彩られた。


弥栄(やえ)おばあちゃんも、ありがとう。もう大丈夫!」
 涙を拭って、珠景(みかげ)は笑顔を見せる。
 安堵の笑みを浮かべると、弥栄(やえ)は調理を再開した。

「そろそろ出来るから、(つむぎ)を起こしておいで」
「うん!」

 (つむぎ)の部屋は、厨房の隣にある和室らしい。
 襖を開けたまま寝ていて、廊下から(つむぎ)の姿を見る事が出来た。
 大きなカニのぬいぐるみを抱きしめながら眠る(つむぎ)は、可愛らしい寝顔を覗かせている。

(つむぎ)、朝だよ」
 廊下から声をかけてみるが、(つむぎ)は寝息を立てるだけ。
 全く起きる気配がない。
 部屋に入り、(つむぎ)の傍に座って声をかける。

「起きて。そろそろ、朝ごはん出来るよ」
「……ご飯食べる……ふわぁぁあ。おはよ」
 大きな欠伸をしながら身体を起こすと、(つむぎ)は子供のように手で目を擦った。
 まだ頭は起きていないのか、眠たげな瞳で珠景(みかげ)を見つめている。

「おはよう。朝ご飯だよ」
「うん……行かなきゃ」
 立ち上がった(つむぎ)は、カニを抱えたまま歩き出す。
 その姿は逞しい漁師のようだが、背中は小さく可愛らしい。

 一緒に厨房へ向かうと、出来立ての朝ご飯が二人を待っていた。