あの夏から百年。
長姫制度の無い世界で。
色歌の曾孫に、出会ってしまった。
今思えば、御神体から見守るべきだったのだろう。
でも、放っておくことは出来なかった。
トンネルの前で泣く紬が、幼い頃の色歌にしか見えなかったから――
「ただいま。色歌」
部屋に残された珠景は、亡き妹の遺影に語りかける。
「……私は、どうしたら良いかな……?」
お婆ちゃんになった色歌を見つめ、弱々しい声を漏らす。
現代の世界で始まった『珠景』の物語。
紬を家まで送るだけのつもりが、民宿かみしまで暮らす事になってしまった。
もう一度、あの夏の続きを描けるのなら。
この機会を逃す訳にはいかない。
ただ、令和の時代に『珠景姫が夢見た世界』が存在する保証は無い。
期待と不安の狭間で、天秤が大きく揺れる。
「……やっぱり、御神体に帰るよ」
人生をやり直すのは、全てを託した色歌に申し訳ないから――
運命に従って、御神体で眠り続けよう。
「ごめんね」
その一言を残して、珠景は色歌の部屋を出た。
今なら、まだ間に合うだろう。
八月八日が終わる前に、御神体に戻れば問題ないはずだ。
中庭に降り立ち、夜風を割くようにして歩き出す。
「どこ行くんだ。もうご飯出来るよ」
弥栄の声に呼び止められた。
きっと、珠景の分も夕飯を作ってくれたのだろう。
その優しさに、少しだけ胸が痛む。
「……すみません。嬉しい提案でしたが、私は御神体に戻ろうと思います」
「そうか。それは残念やな」
「紬ちゃんにも、よろしくお伝えください。では、失礼します」
「何でだろうね。母の寂しそうな顔が目に浮かぶ。『せっかく帰ってきたのに、もう帰るんですか?』ってね。ずっと、あなたの帰りを待ってたから――」
色歌の声が、聞こえた気がした。
もう生きていない妹の言葉が、心に波紋を広げていく。
「迷うくらいなら、新しい道を選びなさい。それが正しい選択じゃなかったとしても、得られるものがあるからね。不変を望むのは、現状に満足している時だけで良い。珠景は御神体で生きる事に、満足しているのかい?」
「私は……」
「せっかく帰ってきたんだ。生き続ける理由を探してみたら? 今のあなたは、自由なはずでしょ」
心の空が、再び迷いの雲で覆われていく。
「それと」
弥栄は言葉を繋ぎ、廊下に腰を下ろした。
「紬の為にも、ここに居て欲しい」
「…… 紬ちゃんの為……?」
「臆病で泣き虫なあの子が、あなたを引き留めようとする姿を見てね。『あぁ、寂しかったんだなぁ』と。あの子の両親は本州で働いているから、普段は婆さんと二人きり。兄妹も居ないから、ずっと一人だった」
弥栄は紬の部屋に目を向けると、暗い室内を寂しそうに見つめた。
「もし、珠景が義理の姉として生活してくれたら、あの子の人生もより豊かになる。まあ……これは婆さんの我儘だ」
悩む珠景に、弥栄は穏やかな表情で告げる。
「話はこれで終わり。御神体に帰っても良いし、ここで暮らしても良い。母も私も、あなたが選ぶ道を尊重するから」
ゆっくりと立ち上がり、弥栄は厨房に戻ってしまった。
月明かりに照らされた中庭の中心に立ち、珠景は夏の夜空を見上げる。
姫として生きた最後の日。
輝く星を見る事は出来なかった。
夕陽の光を背に、底の見えない穴の中へと飛び込んだから。
静かな世界で、自分の心と向き合う。
紬との出会いは、きっと偶然じゃない。
神様が用意してくれた運命的な巡り合わせなのだろう。
初めて御神体を離れて、生まれ育った地へ帰郷することが出来た。
姫としての暮らしを強要された宮殿も無く、代わりに帰る場所が用意されていた。
色歌が残した想いと共に、珠景姫の存在を受け入れてくれる人達も居る。
もし、色歌が許してくれるのなら。
この場所で、あの夏に諦めた夢を叶えたい――
迷いの雲が散っていき、希望の光が傷ついた心を優しく照らし出す。
中庭から、色歌の部屋に目を向ける。
ねぇ、色歌。
四季が巡って次の夏が来るまで、私はここに咲いていたあの桜になるよ。
紬ちゃんの隣で、彼女を見守りながら生きていこうと思う。
だから、一年だけここに居させてね。
再び廊下に上がり、厨房へ向かう。
中に入ると、夕飯の支度をする弥栄の背中が見えた。
「あのっ!」
弥栄は作業する手を止め、珠景に目を向ける。
「――来年の夏まで、お世話になっても良いですか?」
「ここは、神島色歌の家だから。遠慮せず、自由に暮らすと良い」
「ありがとうございます」
「ここでは、あなたのお婆ちゃんだ。一人の孫として、気軽に接しておくれ」
「うん。じゃあ、よろしくね。弥栄おばあちゃん」
珠景が笑顔を見せると、弥栄も穏やかな笑みを浮かべた。
「こちらこそ。紬が風呂から戻るまで、部屋でゆっくりしてるんだ」
「色歌にも話してくる」
厨房を出た珠景は、奥から二番目の和室へと向かう。
生前に色歌が使用していたこの部屋が、珠景の新しい居場所だ。
仏壇の前に座り、色歌の写真に語りかける。
「まだ、気持ちは揺れてるんだけど……今日から『珠景』として、現代の世界を生きてみようと思う」
大切な報告を済ませた後、珠景は表情を緩める。
「でもまさか、色歌の曾孫と暮らす日が来るとは思わなかったな。しかも、役割がお姉ちゃん。良いお姉ちゃんで居られるか心配だよ」
ずっと、色歌の姉として生きてきた。
今日からは、紬のお姉ちゃんにもなる。
「…… 色歌にしてあげるべきだった事を、紬ちゃんにしてあげようと思うんだ。幸せな時は静かに見守って、辛い時は誰よりも寄り添ってあげる。必要な時はちゃんと怒って、成長の為なら嫌われたって良い」
一緒に居てあげられるのは、一年間だけ。
先の長い紬の人生のなかでは、本当に僅かな時間でしかない。
だからこそ、成長に必要な壁にもなってあげたいのだ。
「紬ちゃんが幸せに生きられるように、 陰ながら支えていくよ。それが、今の私に出来る唯一の恩返しだと思うから」
穏やかな表情で色歌を見つめ、優しい声で語りかける。
「『もう一度生きる私』を許してね」
顔の前で合掌し、亡き妹に祈りを捧げる。
姫の字を捨てた私は、もう最後の姫じゃない。
今日からは普通の女の子として、『珠景』という名で生きていく。
悲劇として完結したはずの物語が、百年越しに続きを描き始めた――
