七月の青空を、白い雲が流れていく。
ぬるい風が吹き、遠くで蝉が鳴き始めた。
「夏か……」
陰に呑まれた部屋の奥。
珠景は壁際に座り、外の世界を見つめていた。
廊下の先、太陽に照らされた雑草が輝く。
光が届かない場所で一人。何もせず、ただ生きる。
それが、姫の日常だった。
夏は好き。でも、夏は嫌い。
失ったものばかり、思い出すから――
「珠景!」
突然呼ばれて、ハッと顔を上げる。
廊下に立つ紬は、大きな虫取り網を持っていた。
「一緒に蝉取りに行こう!」
「え、蝉……?」
顔をしかめる珠景を見て、紬は首を傾げる。
「カブトムシが良い?」
「そういう事じゃなくて……」
「カラスアゲハ!」
「虫取りの誘いに、驚いているんだって」
暗い部屋を出て、光の差す場所へ。
歩み寄る珠景を見つめ、紬は無邪気に笑う。
「珠景も一緒にやろ?」
「……動物とか虫は、あんまり好きじゃないんだよね……」
「え、そうなんだ! んぅ……じゃあ一人で行って来る」
「ごめんね。怪我しないように遊ぶんだよ」
「大丈夫! いってきまーす!」
肩にかけた虫かごを揺らして、紬は廊下を駆けていった。
立ち尽くして数秒。
見えなくなった背中を追いかける。
玄関の先、夏の世界を楽しむ少女が一人。
「あ、オニヤンマ!」
紬は目を輝かせ、声を弾ませる。
虫取り網を振りながら、緩やかな坂道を下っていく。
「何してんの?」
「ふふっ、紬の可愛い姿を見てた」
全力で遊ぶ紬を指さして、隣に立つ凪の視線を誘導する。
「高校生になっても、虫取りしてんのかよ」
呆れつつも微笑ましい。そんな声だった。
「暇なら、キャッチボールするか?」
「え、やりたい!」
「準備出来たら、中庭に集合で」
「すぐ行くね」
一度部屋に戻り、頼から貰ったグローブを持って中庭へ。
先に準備していた凪は、軽くストレッチをしている。
「お待たせ」
「俺は軽く投げるけど、珠景は普通に投げて良いぞ」
珠景が捕りやすい位置に、山なりのボールを投げてくれた。
受け取ったボールを、凪に届くように力を入れて投げる。
「そのグローブ、頼のお古だろ?」
「うん。キャッチボールした後に、『是非貰ってくれ!』って渡されたの」
「あいつらしいな」
身体も温まってきて、首筋や背中を汗が滴る。
「ごめん。髪結ぶから、少し待って」
珠景は腕に付けていたヘアゴムで、ポニーテールを作った。
ゴールドベージュの髪が、束になって揺れる。
「頼が居なくて良かったな。今の珠景を見たら、発狂してぶっ倒れてる」
「……?」
「可愛さの暴力も、ほどほどにな」
凪は一息ついてから、珠景にボールを投げる。
「無邪気に遊ぶ紬も、可愛かったよね」
「そうなんじゃねーの」
「言ってよ。『可愛い』って」
「言うか」
「さては、告白まで大事にしておくつもりだなっ?」
「うっせぇ。珠景に関係ねぇだろ」
感情が乗った一球は、今まで体験した事がない速度で向かって来た。
「きゃっ!」
思わず避けてしまい、珠景は体勢を崩した。
グローブを弾いたボールは、地面を転がっていく。
「あ、悪い! 大丈夫か」
「平気。こんな速い球、頼君もよく捕れるよね」
駆け寄って来た凪の手を借りて、ゆっくりと立ち上がる。
「珠景も、充分すげぇよ」
凪は地面に転がるボールを拾うと、珠景のグローブの中に入れてくれた。
「今日は、ここまでにしよっか」
「おう。付き合ってくれてありがとな」
「こちらこそ、誘ってくれてありがとう。楽しかった」
握手を交わし、微笑み合う。
物音がしたのは、その時だった。
咄嗟に目を向け、音の正体を確かめる。
玄関前の廊下。床に落とされた虫取り網。
その横に、頬を膨らませた紬が立っていた。
「「あ」」
思うことは同じなのだろう。
珠景と凪の声が重なり、時間が止まった。
「っもう! 知らない! せっかくギンヤンマ捕まえたのに!」
紬は自室へ駆け込み、勢い良く襖を閉めた。
夏の静寂。首筋を滴る汗。
襖が少し開き、隙間から三体のぬいぐるみが出て来た。
部屋の前に並べられ、衛兵にように目を光らせる。
襖の隙間から覗く紬も、中庭をじっと見つめていた。
凪は苦笑いを浮かべ、『またか』と呟く。
そこへ、厨房に居たリンも合流。
「うわっ! めっちゃおこやん」
何年も一緒に暮らしてきた二人には、見慣れた光景なのだろう。
リンは手招きして珠景を呼ぶと、紬に聞こえないように耳打ちした。
「……ええか、姫ちゃん。つむっちは、怒ると籠城を始めるんよ。廊下に陣取るぬいぐるみが多いほど、怒りのレベルも高くなる。三体も陣取っているって事は、激おこやで」
「……激おこ」
「ちなみに、何したん?」
「凪君とキャッチボールをして、握手してる所を見られました……」
「……え。それだけ?」
リンはポカーンと口を開けると、紬の部屋に歩み寄った。
「おーい、つむっち。ただの嫉妬で、ぬいぐるみ三体は、流石に無いっしょ」
「流石にある!」
「誰におこなのさ?」
「……誰にも怒ってない」
「じゃあ、何で籠城してるの?」
「……だって。珠景は国宝級に可愛いし、凪を取られたらどうしようって……」
「それで姫ちゃん達を困らせるのは違うでしょ」
「だって、だってさ! もぉ!」
「だってじゃない! 良い加減にしないとママ怒るよ」
「やーだ! リンさんの鬼ママ!」
「つむっちは赤ちゃんに戻っちゃったのかな? じゃあ、今日から離乳食だね」
「え……それは。うぅ……」
紬は頬を膨らませて、部屋から出て来た。
「二人に『ごめんね』は?」
「……ごめんね」
「はい、良い子です」
紬の頭を撫でると、リンは自室の方へ歩いて行った。
ぬいぐるみを片付ける紬に、珠景は優しく声をかける。
「紬も、凪君とキャッチボールしたかったんだよね?」
「うん……あと、ギンヤンマ捕まえたから、みんなに見て欲しかった……」
「そっか。なら私と交代しよ? ほら、凪君も待ってるし」
日陰で待機する凪を見て、紬は嬉しそうに頷く。
「珠景、ギンヤンマの写真撮って!」
虫かごを珠景に手渡し、紬は水色のグローブを持って中庭に降りた。
自室からカメラを取ってきた珠景は、虫かごの中を覗いてみる。
黄緑と水色が美しい蜻蛉。
運命に身を任せ、静かに息をしていた。
透明な小窓にレンズを近づけ、シャッターを切る。
撮れた写真を確認し、今度は中庭にカメラを向けた。
「よ、よし。行きます!」
ふぅと息を吐き、紬は凪に向かってボールを投げる。
放物線は描かれなかった。
紬の後ろに、ぽとりとボールが落ちる。
「……あはは」
「投げる練習が先だな」
「どうやったら、前に飛ぶの?」
「逆に、どうやったら後ろに飛ぶんだよ」
凪は紬に歩み寄り、ボールの持ち方を教え始めた。
楽しそうに笑い合う二人は、夏の太陽より眩しくて。
絵になる瞬間を切り取るように、シャッターを切った。
「お似合いじゃん」
珠景はカメラを置き、虫かごに目を向ける。
ギンヤンマは、かごの隙間から外の世界を見つめていた。
制限された環境で、ただ時間だけが過ぎていく。
行きたい場所があっても、逃げ出せない。
生きているだけでは、何も変えられない。
これは、縮図だ。
珠景姫の人生を、形にしたもの。
「……ねぇ、紬。このギンヤンマ逃しても良い?」
「あ、うん! 良いよ」
そっと、かごの蓋を開けた。
ギンヤンマは、再び外の世界へと飛び立っていく。
仲良く遊ぶ二人に背を向けて、珠景は静かに姿を消した。
畳に伸びる濃い影さえ、切なく感じた夏の始まり。
もう、この物語は終わりにしたい――
