ご飯の香りが漂う夕暮れ時。
厨房に向かうと、リンがテーブルで仕事をしていた。
ノートPCを見つめるリンと向き合うように、紬も椅子に座る。
「どうしたぁ、つむっち」
「……リンさんは、叶えたい夢とかある?」
「昔はあったよ。割と早い段階で諦めちゃったけどね」
「そうなんだ」
「そうなんよ。んで、つむっちの夢は?」
「え……」
「話を聞いて欲しいんでしょ? 困った顔で入って来て、いきなり夢の話題を振ってくるんだもん。流石に分かるって」
ノートPCを閉じ、リンは穏やかな表情を見せる。
リンの優しさに甘えるように、紬は抱えている想いを打ち明けた。
初めて叶えたい夢が出来たこと。
珠景姫の物語を知って、早くも挫折しかけていること。
そして、何より。
珠景姫の人生に、介入して良いか分からないこと。
悩みを吐露した紬を見つめ、リンは口を開く。
「やるだけ、やってみたら?」
返って来たのは、呑気な声だった。
「進路に関する話でもないし、人生を揺るがす決断な訳でもないじゃん? もっと気楽に考えても良いと思うけどなぁ。叶えられたらラッキー。ぐらいの気持ちでさ」
「……でも」
「まあね。姫ちゃんの人生に関する話でもあるから、つむっちが真剣に悩むのも分かる。ただ、悩み過ぎかなって、私は思う訳ですよ。未完成な物語をどう完結させるのかは、姫ちゃんに決めてもらえば良いし、それが一番でしょ」
「そうだよね……やっぱり、私が介入するのは違うし――」
「こらこら。私の話、まだ終わってないよ? 最後まで聞く」
一呼吸置き、リンは紬の目を見て告げる。
「最後の決断をするのは姫ちゃんだけど、幸せな未来へ導けるのは、つむっちなんだよ」
不安が生んだ黒雲の隙間から、心の土壌に光が差す。
希望の光を浴びたことで、強張っていた表情も解れ始めた。
「結局、何が言いたいかって言うとさ。姫ちゃんが夢と向き合う環境を作ってあげることが、つむっちの夢を叶える方法なんだと思う。だから、その方法を模索したり、姫ちゃんの思いや考えを知ることから、始めたら良いんじゃない?」
「なるほど……ありがとう。リンさん」
「彩美リンは、夢と現実を知る大人の女性だからね。もっと崇めなさい」
リンは真面目な表情を崩すと、魅惑的な声と共にウインクしてみせた。
数回瞬きをした後、紬は呑気な声で問いかける。
「それよりさ、何から始めたら良いと思う?」
「私の扱いが雑な子に、教える知恵はありませーん。自分で考えてくださーい」
「大人の女性は拗ねませーん。ばかな私に知恵をくださーい」
「こんにゃろー……あっ、コハモとか良いんじゃない?」
「コハモ?」
「コレクト・ハッピー・エモーションの略で、通称・コハモ」
リンはスマホを取り出すと、あるアプリを開いて見せてくれた。
「コハモはSNSの一つで、簡単な記事を投稿出来るアプリなの」
「へぇー。何が出来るの?」
「記事を作って投稿するのがメインだけど、他のSNSみたいにチャット機能もある」
紬が理解しやすいように、リンは実際に記事の制作を始めた。
既存のフレームやフォントの種類が豊富で、新聞のように細かく作ったり、ポスターのように手軽に作ることも可能なようだ。
写真や文字を自由に配置でき、動画や位置情報、URLなども載せられるらしい。
ポスター風の記事を作成したリンは、紬に視線を向ける。
「こんな感じ」
リンは適当に作った記事を削除すると、他のユーザーの記事を見せてくれた。
日常の思い出や商品の宣伝、アート作品など、記事の内容はさまざまだ。
「世界の文化や景色を知ることが出来るし、流行を把握することも出来る。時代のギャップを埋めたい姫ちゃんにピッタリだと、私は思う訳ですよ」
「私もやってみよ」
早速、紬はコハモのダウンロードを始める。
「そういえば、姫ちゃんは?」
「お風呂」
「そかそか。なら、私も先に入って来ようかなぁ。夕飯は、凪が来てからで良いの?」
「うん。そろそろ帰って来ると思うし」
「おっけー。んじゃ、姫ちゃんの湯浴み姿を拝んで来るわ」
リンはノートPCを持ち、自室へと行ってしまった。
残された紬も、夕飯の内容を確認してから厨房を後にする。
秋の夕陽に照らされた廊下を歩いていると、玄関の戸が開く音がした。
「おかえり」
廊下から玄関を覗き込むと、予想通り凪が帰ってきていた。
「ただいま……悪いな、酷い試合を見せて。珠景も来てたんだろ?」
頷く紬を見て、凪は苦笑を浮かべる。
「次は良い試合を見せるから、期待してくれ」
「うん! また応援しにいくね」
「おう。あと、知らない外国人がついて来たんだけど……何か知らね?」
玄関の外に目を向けると、サングラスをした外国人が立っていた。
大きなリュックを背負い、スマホの画面を見つめている。
「さっきの外人さん!」
紬の声に気づいた外国人男性は、一礼してから民宿の中に入って来た。
凪の背中に隠れ、紬は困惑した声で尋ねる。
「えっと……何か御用ですか?」
「ナギは変化球がタリマセン。あの球を覚えれば、必ず化けマス」
「……だからって、家までついてくるか? 通報案件だろ、これ」
怪訝な表情を浮かべる凪に、外国人男性は思いだしたように告げる。
「あ、民宿の予約ならシマシタ。一ヶ月、お世話にナリマス」
外国人男性はスマホの画面を二人に見せる。
そこに表示されていたのは、民宿かみしまの予約サイトだった。
「え、お客さん?」
「イエス」
紬と凪は顔を見合わせた後、流れるように土下座して声を揃える。
「「怪しんですみませんでした」」
外国人男性は不思議そうに二人を見つめるだけで、何も反応はない。
変な空気が生まれ始めたところで、居住部屋の方からリンが歩いてきた。
「ねぇ、つむっち聞いてよ。今、とんでもない予約が入ってさぁ――」
呑気な声と軽快な足音が、ピタリと止まった。
「え、何やってんの……?」
声をかけられた二人は頭を上げて、リンの方を振り返る。
そこに居たのは、鬼だった。
