目を開くと、夏の世界だった。
夕陽の光に包まれた景色に、ひぐらしの鳴き声が溶けていく。
廊下の柱に背を預ける少女は、民宿を営む神島家の一人娘。
紬という名を授かり、夢奥島の地で生まれ育ってきた。
グレージュのゆるふわボブを、風が揺らして遊ぶ。
桜が舞う水色の江戸風鈴も、優しい音を奏でた。
大きな瞳が、ゆっくりと瞬きをする。
「ふわぁ……お祈り……行かなきゃ」
百年前の八月八日。
神島家の先祖である『珠景姫』は、最後の姫になった。
島の伝統、長姫制度を終わらせるために。
巨樹の根元に出来た大穴へ身投げし、十七歳の若さで生涯を終えたのだ。
珠景姫の命日を迎える度、神島家の人々は祈りを捧げてきた。
百年間、このお祈りが続いた意味を、紬はまだ知らない。
小さな花束と和菓子の箱を持って、紬は一人で御神体に向かう。
始まりの夏は、終わりの夏。
特別な一年が始まった。
❀.*゚
苔に覆われた小さなトンネル。
その先に、御神体はひっそりと佇んでいる。
樹齢千年の巨樹は、秘境の岬で存在感を放っていた。
岩を呑み込むように太い根を張り巡らし、枝の先の深緑は空を目指している。
夕陽の光を身に纏う姿は神々しく、息を呑むほどに美しい。
岩を彫って作られた献花台に、小さな花束と和菓子を供える。
木漏れ日が揺れる地面に正座し、顔の前で合掌して目を閉じた。
どうか、安らかにお眠りください。
ゆっくりと目を開け、御神体に深々と頭を下げる。
「また来年」
もうすぐ日が暮れる。
灯りの無いトンネルの中は、夜になると真っ暗になるのだ。
日没前に通らなければ、一人で帰れなくなってしまう。
砂浜の上を足早に進み、トンネルの前で足を止めた。
あとは、無我夢中で走り抜ければ良い。
呼吸を整えた紬は、何気なく御神体の方を振り返った。
「……え……」
怯えた声を漏らし、その場に立ち尽くす。
一人の少女が、珠景姫が飛び込んだ穴から出てきたのだ。
「……なんで、人が居るの……」
この場所は、神島家の敷地からしか入れない。
民宿の宿泊予約も無かったはずだ。
残された選択肢は一つ。
あの少女は、この土地に縛られた亡霊――
「……あぁっ」
涙が頬を伝っていく。
その場に座り込んでしまった紬は、抱えた膝に顔を埋めた。
風に揺れる木々の葉が、不吉な音色を奏でる。
不安に煽られて、心臓の鼓動も騒ぎ出す。
息が詰まりそうだった。
「大丈夫?」
そっと、誰かの手が触れた。
手から伝わる人の温もり。
加速した鼓動が、徐々に落ち着いていく。
優しさが滲む綺麗な声。
初めて聞いたはずなのに、どこか懐かしい。
顔を上げなくても分かる。
助けに来てくれたのは、あの少女だ。
「君、お名前は?」
「…… 紬。です」
「紬ちゃんかぁ。私は、珠景姫――」
涙で濡れた顔を上げると、一人の少女と目が合った。
容姿端麗な姿に、思わず見惚れてしまう。
ゴールドベージュの長髪。透き通るような白い肌。
桜色の大きな瞳は凛としていて、色気と可愛さを兼ね備えた顔は美しい。
「み、珠景姫って……あの『珠景姫』ですか?」
「私が知る限り、一人しか居ないはずだよ?」
「つまり…… 珠景姫の、亡霊……っ!」
自分で導き出した答えに、紬は声を震わせる。
「御神体の精霊に、魂が宿っちゃったみたいなんだけど……私もよく分かんないっ!」
困ったように笑う姿を見て、不思議と緊張が和らいだ。
「それで、こんな場所で何してたの?」
「八月八日のお祈りに来たんです。帰ろうとしたら、御神体に人の姿が見えて……」
「あぁ……驚かせてごめんね? もう誰も来ないと思って、普通に出て来ちゃった」
顔の前で手を合わせ、可愛らしくウインク。
アイドルみたいな仕草に、心を奪われそうになった。
「暗くなってきたし、早く帰りなよ?」
「あっ……」
最後の試練を忘れていた。
もうすぐ、夜が始まる。
灯りの無い隧道は、既に真っ暗だ。
誰でも良いから、一緒に帰る人が欲しい。
たとえ、珠景姫の亡霊だったとしても。
知らない幽霊と出会うよりは、怖くないはずだ。多分。
「……い、一緒に来てくれませんかぁ……?」
お盆になれば、先祖の魂が家に帰ってくるのだ。
珠景姫の魂を宿した精霊が帰ってきても、別に不思議じゃない。
「もしかして、夜のトンネル怖いの?」
視線を落とし、黙ったまま頷く。
「ふふっ、色歌にそっくり」
どこか懐かしそうに微笑むと、珠景姫は紬に手を差し伸べた。
「良いよ。家まで送ってあげる」
「やった!」
面倒見が良い珠景姫と、臆病で泣き虫な紬。
まるで姉妹のような二人は、トンネルの前で手を繋ぐ。
「行こっか」
真っ暗なトンネルの中を、並んで歩いていく。
まだ誰も知らない物語へと、足を踏み入れるように――
