断てず紡ぐ赤の糸 くだん姫(二)


 月の下で、老人が書をめくっていた。
 縁結びの神だった。
 書には人の縁が綴られており、老人はそれを見て、男女のそれぞれに赤い糸を結ぶ。
 縁結びの伝説。
 
 糸の色は、赤。

◇◇

「――ようやく、戻ったのか」
 あきれ顔、というより、げんなりとした様子で、稲毛重成はふたりを迎えた。
 鎌倉御所のさらに奥、小御所と呼ばれる、大姫の住まい。
 すでに夜。月は高くのぼり、まるく輝いている。
 しずかだった。
 篝火のはぜる音までが響き渡るようだ。
 大姫の棟は、限られたものしか出入りすることはできない。
 出迎えた稲毛重成は、海野幸氏や比企宗員よりひと回りほど年上の、落ち着いた佇まいの男だ。武士のなりをしてはいながらも、その身からはどこか上品な文官の香りが漂っていた。
「今宵は、重成どのが宿直(とのい)番ですか」
 幸氏が、感情のうすい、低い声で尋ねる。
「ああ。わたしでよかったなあ、幸氏。葵や胤義だったら、たいへんな騒ぎだぞ」
「なぜ」
「たのしみにしているのさ。新しい同輩の訪れをな」
 おだやかな目線に揶揄の色はなく、ただ、あたたかかった。
「――かわいい。とにかく、かわいい」
 ふたりに割って入ったのは、宗員。相変わらずの僧形で、有髪。ほがらかだった。
「おまえが舞い上がってどうする、宗員」
「見ればわかる。この幸氏が、片時も離れず鎌倉まで連れて来たのだぞ」
「すごいな、それは」
 重成は本気で感心する。
「姫さまの命だからだ」
 幸氏は淡々と返す。
「それだけではなかろう? あやうくて、目が離せぬとゆうておったではないか」
「それはあのむすめが、お人よしすぎるからだ」
「かわいいよな」
「どこがだ。病人がいれば看病しようとし、物乞いがいれば有り金すべて出してしまいそうになるんだぞ」
「かわいいじゃないか」
「おまえは、そればかりだな、宗員」
「そうとも。だってわしはーー」
 下から覗き込むように、宗員は、幸氏の視線をとらえた。
 おたがいを視界にとらえてから、いたずらみたいに、宗員はつぶやいた。
「ささめどのを気に入っているから」
 ほほえみながら、目は、ただ、ふしぎな色で。挑むでもなく、からかうでもなく。
 視線がゆれたのは、幸氏だった。何も、言えなくなった。


「――おまえたち。主を待たせて、楽しそうじゃな」
 背後から、静かな声が響いた。
「姫!」
 いっせいに彼らは叫び、跪いた。
 ただひとりの主、くだんの姫。
 ちいさな体に、圧倒的なちからを秘めた存在が現れて、とたん、場はひきしまった。
「申し訳ございませぬ。ただいま、戻りました」
 幸氏はひたすら伏した。
「待ちくたびれた」
 大姫は豪奢な小袿をひいて、上座にまわり、座った。
「――が、無事でよかった。ご苦労だったな、ふたりとも。皆、楽にせよ。まずは、報告を」
 どこか楽し気で、どこか物憂げな、そんな矛盾が大姫の日常の(おもて)だった。


「許婚は、冥府へいったか」
 ぽつりと、重成の声。
 ささめの旅の物語。彼女と彼の別れを話せば、だれもがしんとした重いものをこころに落とした。
 しかし、結末は正しいことだった。
「もう、終わったことだ。背後は想像もつかぬが、我らの立場では、いつどんなあやかしに目をつけられるかなど、いちいち気にしてもいられぬ」
 幸氏に次いで、宗員もあっさりとしたものだった。
「そうそう。どんな災いが来ようとも、我らで火の粉を払うしかなかろう」
「あれには、守役がおるようだ」 
 くすりと、姫がこぼす。
「あのケダモノ。姫の許しを得たなどと申しておりましたが」
 幸氏の表情は、苦い。
「よい。幸氏。あの娘には、自分で戦う力はないから、当面の護衛につけておけ」
 姫の言葉へ、否はない。
 ささめに纏い付くあやかし叶野は、姫さまが認めた。ならば害はないということだ。
「それで、ささめどのには、どんな異能があるのじゃろうか?」
 だれもが疑問に思っていたことを、宗員が切り込んだ。
 視線が、姫へ集まる。
「ーーそうじゃのう。珍しいちからがあるな」
 即答しない。
 これはまた、明確な答えはすぐにもらえないようだ。つまりは何かしらの思惑があるのだろう。
 宗員は、眉をひそめる。
 姫は、彼らをみまわし、くすっと息をくずした。
「さて、お前たちには、訊いておこうか」
 イヤな予感しかしない。
「?」
「お前たちにとって、「愛する」とは、なんだ?」
 唐突に。
 しかし、何を問われているのか、彼らにはわからなかった。
「そうだな、今のお前たちにとって、愛とは何かな」
 姫に言い直されて、まず、重成が応えた。
「今の私にとって、愛とは、安らぎに向けられたものです。妻や子・・・家族を何より愛しております。互いの信頼と、生活、思いやりを重ねて、守りたいものです」
「ふむ。奥方は相変わらず息災か」
「はい。姫さま。元気過ぎて、かないませぬ」
 重成の妻、安子は、北条時政の娘、政子の妹、そして大姫にとっては伯母だった。
「安子どのは、太陽のような女だからな。そこらのあやかしなど寄せつけぬ「気」を持っておられる。重成には、しあわせなことだな」
 頷く重成の横顔は、満ち足りていた。
 政略により結ばれたふたり。けれどこのうえなく、平穏な家庭を築いている。
「ーー私には、わかりませぬ」
 幸氏は、視線を落とす。
「あの娘を見て、何を思う」
「よくわかりませぬ。ただ、胸が痛くなります。私に愛があるとしたら、それは、守りたい、ということです」
 昔、失った主君を守りたかった。
 主君のたいせつな姫を守りたい。
 そして今、現れた女。どこか懐かしいまなざし。胸が痛くなる。
「幸氏はそれでよいのだろうな。でーー宗員、おまえに、愛はあるのか?」
 最後に水を向けられて、宗員は、そっぽを向いた。
「ーーさあな」
「人の生は短いよ」
「わかっておる」
「おまえのような者が、いちばん質が悪い」
 父に愛されず、母に見捨てられ、一族から離れて育てられた子ども。
 くだんのしもべは、多かれ少なかれ血族との縁はうすいが、宗員ほど泥沼な者はなかった。
「もしも、わしに愛が生まれたらーー」
 奪いつくし、閉じ込めずにはいられないかもしれない。
 焦燥にも似た予感が、宗員自身にもあった。
 言葉にはされないそれを、姫は、「もう、よい」と留めた。代わりに、しるべを置いた。
「おまえたちは、今後も、思い出せば問うがいい。それが地獄を抜け出す鍵となろう」
 姫のこのしるべを、あとになって、どのような思いで、振り返ることになるのだろうか。
「ーーさて、ささめは、義時どのの館におるのだな」
「はい」
 北条義時。大姫の母・政子が最も信頼する弟の館は、鶴岡八幡宮のすぐ目の前、鎌倉御所の目と鼻の先にあった。有事の際には真っ先に駆けつけられるその立地は、頼朝公にとっても北条が一族を挙げた親衛隊であることを示している。
 一方、父の時政が守備するのは、鎌倉の入り口のひとつである名越の切通。
 鎌倉の要所を、北条が握っているな・・・宗員は内心でそうごちたが、それを口にするほど野暮ではなかった。
「近く、挨拶に参る。皆で迎えるように」
 運命の歯車が回り始める。
 そして、姫は付け加えた。
「近ごろ、怪異があるようじゃ。赤い糸が暴れておる。お前たちに動いてもらうよ」