9.
白い腕が、飛び込み台の縁を掴む。会場が息を呑んで、静まり返った。
響き渡る号砲代わりの高い電子音。息を吸う間ののちに、ワッと歓声が弾ける。
ドーム型の会場を震わせる声。水を掻く音が遠くに聞こえる。
100メートル自由形。予選3組で出場した瀬田は、周りの選手を突き放し、身体ひとつぶん飛び抜けていた。
「なんだあいつ、速ぇ……!」
「どこの高校? なんて選手?」
「初めて聞いた――瀬田鯨介」
応援の声に混じって聞こえる瀬田の名前。噂する生徒たちに混じって、慌ただしく席を立つ大人たちの姿も見える。
(ああ、これ……瀬田が言ってたやつじゃないかな)
――なんかやたらと大人が集まってきて、いろいろ言われるようになった。
瀬田が、息ができなくなったきっかけ。
世間に瀬田が見つかるということは、もう一度、息苦しい勝負の世界に瀬田を送り出すということ。
(もしかしたら、いつか瀬田はそれを望むのかも知れない)
(でも今は、まだ違う)
佐伯はグッと強く唾を呑んで喉を通してから、大きく息を吸い込んだ。
掴んだ柵を支えにして背中を引いて、押し出す勢いに乗せて、叫ぶ。
「瀬田ぁぁぁぁぁ!! いっけぇぇぇぇぇ――!!」
前の席に座っていた応援の一団がギョッとして振り向くほど。
佐伯はフンッと強く鼻息を吐いて、瀬田が泳ぐのレーンを見つめる。
水の中では、音はほとんど聞こえない。歓声も届いたとは思えない。
それなのに、瀬田の泳ぐスピードがさらに上がった気がした。
「え、やば……後半まだ伸びんの……?」
「あいつ、化け物じゃん」
生徒たちが噂する間に、瀬田は水面から顔を出していた。電光掲示板の一番上に瀬田の名前とタイムが表示されて、一拍置いて他の選手名がなだれ込むように表示された。
「やっ、た……!」
佐伯は拳を握り、柵を手放して走り出す。
観客席横の階段を降りきったところで、控室へと戻る瀬田を見つけた。
「瀬田!」
呼びかけた声に、瀬田が顔を上げる。パッと開く形の良い唇。白い歯列の影が見えたと思ったところで、佐伯の身体は濡れた腕に包まれていた。
「わ、ぶ……ちょ、瀬田……濡れるって……!」
「佐伯」
耳の後ろ、首筋の太い血管が走る位置に、声が触れる。
ゾクリ、と。電流のような痺れが駆け抜けた。
身体の力が抜けそうになるのを気合で留め、佐伯は瀬田の体を受け止める。
「佐伯、さえき……佐伯」
「ん、ゃ……っ、ちょ、まじ、そこでしゃべんの、やめ……、っん……」
身体を捩って抵抗するのに、瀬田には聞こえていないようだった。
ドクドクと激しく脈打つ鼓動を聞き流しながら、佐伯は諦めたように、瀬田の背中に回した手をポンポンと優しく弾ませる。
「ん、頑張ったね。いっぱい、息吸って」
「ん……」
濡れた腕が、より強く腰を抱きしめる。
ツンと鼻を突く塩素の匂い。ジャージにじわりしみてくる冷えた水。耳の傍で繰り返される呼吸音が落ち着くまで、佐伯は柔らかく弾ませる手を止めずにいた。
「……吸えた?」
「ん……まあまあ」
「まあまあなんかいっ」
声を上げて笑いながら、背中を叩く。
ゆっくりと身体を起こした瀬田は、まだ不満そうな顔をしていた。
「すごかったね。一位だよ! 二位の人と何秒差あったってくらい」
「うん……なんか、久々に本気で泳いで――楽しかった」
見上げる瞳の青が、光を帯びて鮮やかに染まる。
佐伯は、息を止めていた。
「次も、名前呼んで。佐伯の声聞こえると、すごく力が出るから」
「……水の中で声なんか、聞こえるもんか」
「聞こえる。本当だよ」
瀬田の掌が、佐伯の頭をそっと抱き寄せる。濡れた肩に額が触れて、上がりかけた熱を冷ましていった。
「じゃあ、また」
離れて行く身体。
遠ざかる足音を、耳の端で引いた。
濡れた額をゆっくりと拭って、佐伯は嫌な音を立てる心音を聞く。
「あんな青――」
(俺は、知らない)
白い腕が、飛び込み台の縁を掴む。会場が息を呑んで、静まり返った。
響き渡る号砲代わりの高い電子音。息を吸う間ののちに、ワッと歓声が弾ける。
ドーム型の会場を震わせる声。水を掻く音が遠くに聞こえる。
100メートル自由形。予選3組で出場した瀬田は、周りの選手を突き放し、身体ひとつぶん飛び抜けていた。
「なんだあいつ、速ぇ……!」
「どこの高校? なんて選手?」
「初めて聞いた――瀬田鯨介」
応援の声に混じって聞こえる瀬田の名前。噂する生徒たちに混じって、慌ただしく席を立つ大人たちの姿も見える。
(ああ、これ……瀬田が言ってたやつじゃないかな)
――なんかやたらと大人が集まってきて、いろいろ言われるようになった。
瀬田が、息ができなくなったきっかけ。
世間に瀬田が見つかるということは、もう一度、息苦しい勝負の世界に瀬田を送り出すということ。
(もしかしたら、いつか瀬田はそれを望むのかも知れない)
(でも今は、まだ違う)
佐伯はグッと強く唾を呑んで喉を通してから、大きく息を吸い込んだ。
掴んだ柵を支えにして背中を引いて、押し出す勢いに乗せて、叫ぶ。
「瀬田ぁぁぁぁぁ!! いっけぇぇぇぇぇ――!!」
前の席に座っていた応援の一団がギョッとして振り向くほど。
佐伯はフンッと強く鼻息を吐いて、瀬田が泳ぐのレーンを見つめる。
水の中では、音はほとんど聞こえない。歓声も届いたとは思えない。
それなのに、瀬田の泳ぐスピードがさらに上がった気がした。
「え、やば……後半まだ伸びんの……?」
「あいつ、化け物じゃん」
生徒たちが噂する間に、瀬田は水面から顔を出していた。電光掲示板の一番上に瀬田の名前とタイムが表示されて、一拍置いて他の選手名がなだれ込むように表示された。
「やっ、た……!」
佐伯は拳を握り、柵を手放して走り出す。
観客席横の階段を降りきったところで、控室へと戻る瀬田を見つけた。
「瀬田!」
呼びかけた声に、瀬田が顔を上げる。パッと開く形の良い唇。白い歯列の影が見えたと思ったところで、佐伯の身体は濡れた腕に包まれていた。
「わ、ぶ……ちょ、瀬田……濡れるって……!」
「佐伯」
耳の後ろ、首筋の太い血管が走る位置に、声が触れる。
ゾクリ、と。電流のような痺れが駆け抜けた。
身体の力が抜けそうになるのを気合で留め、佐伯は瀬田の体を受け止める。
「佐伯、さえき……佐伯」
「ん、ゃ……っ、ちょ、まじ、そこでしゃべんの、やめ……、っん……」
身体を捩って抵抗するのに、瀬田には聞こえていないようだった。
ドクドクと激しく脈打つ鼓動を聞き流しながら、佐伯は諦めたように、瀬田の背中に回した手をポンポンと優しく弾ませる。
「ん、頑張ったね。いっぱい、息吸って」
「ん……」
濡れた腕が、より強く腰を抱きしめる。
ツンと鼻を突く塩素の匂い。ジャージにじわりしみてくる冷えた水。耳の傍で繰り返される呼吸音が落ち着くまで、佐伯は柔らかく弾ませる手を止めずにいた。
「……吸えた?」
「ん……まあまあ」
「まあまあなんかいっ」
声を上げて笑いながら、背中を叩く。
ゆっくりと身体を起こした瀬田は、まだ不満そうな顔をしていた。
「すごかったね。一位だよ! 二位の人と何秒差あったってくらい」
「うん……なんか、久々に本気で泳いで――楽しかった」
見上げる瞳の青が、光を帯びて鮮やかに染まる。
佐伯は、息を止めていた。
「次も、名前呼んで。佐伯の声聞こえると、すごく力が出るから」
「……水の中で声なんか、聞こえるもんか」
「聞こえる。本当だよ」
瀬田の掌が、佐伯の頭をそっと抱き寄せる。濡れた肩に額が触れて、上がりかけた熱を冷ましていった。
「じゃあ、また」
離れて行く身体。
遠ざかる足音を、耳の端で引いた。
濡れた額をゆっくりと拭って、佐伯は嫌な音を立てる心音を聞く。
「あんな青――」
(俺は、知らない)

