8.
学校の25メートルプールは、瀬田のように水を愛する魚には狭すぎると思っていた。
それでもいざ外に出て相応のプールを目の当たりにすると、自分たちだけの守られた環境が恋しくもなる。
「はー……でっけぇー……」
「うん、でかいな」
傍らに立つ瀬田は相変わらずだった。ドーム型の天井が見下ろす巨大な敷地。ぐるりと周りを囲むスタンド席と、色とりどりの横断幕。
揃いの部活ジャージや学校名が刺繍されたバッグ。日焼けしたガタイの良いザ・スイマーな選手とすれ違う度に、情けなく身体が震えた。
目移りする佐伯を他所に、瀬田の目はただ一点に注がれている。
観客席が見下ろす先にある、50メートルの競泳プール。
落ち葉のひとつも浮いていなければ、悠々と水面を滑るアメンボもいない。
それだけでも感動を覚えるのに、照明を跳ね返す澄んだ水面を見ているだけで、吸い込まれるようだった。
「瀬田はこういうとこ、来たことあるんだっけ」
「うん。でももう、ほとんど覚えてない」
トン、と肩に染みる柔らかな熱と頭の重さ。ギョッとして身を固める間に、瀬田が甘えるように鼻先を擦り寄せてくる。
学校内でされる分には気にしなかったけれど、周りに知り合いがいない中では異質に感じる、瀬田の距離感。
それでも、安心しきった呼吸音を聞いてしまえば、突き放すことはできない。
佐伯はそっと瞼を伏せて、瀬田の呼吸のリズムに息を合わせた。
「ここで勝てばいいんだっけ」
「うん。決勝まで残れたらとりあえずはいいんだと思う。……って、むちゃくちゃ言ってるけど」
「分かった」
浮かべた苦笑を遮って、瀬田ははっきりとした口調で言った。
肩に乗せていた頭を上げて、グンッと大きく伸びをする。しなやかな筋肉が、柔らかい音で微かに鳴る。
「今日は見てて、佐伯。俺、準備してくる」
「あ、うん」
一度だけ左右に視線を振った瀬田は、迷うことなく観客席の間の通路を降りていった。
夏休みに入ってすぐに開かれた地方予選。
名前を借りた三人は欠場として、瀬田と佐伯の二人でエントリーして競技に臨んだ。
佐伯は当たり前のように予選敗退したが、瀬田のほうはあっさり100メートルと200メートルの自由形で本選進出を決めてた。
あまりに早すぎて、泳ぎを見逃していたほどだった。
けれども、周囲の噂で瀬田の凄さを思い知る。
「瀬田鯨介って知ってる?」
「ああ、なんか聞いたことない高校の……あそこって水泳部あったんだ?」
「なんか部員五人とかって聞いたけど、応援とかきてんのかな?」
「瀬田のための部活って感じなんだろうな。俺だったらちょっと惨めかも」
「でも、そこでならレギュラーとれんじゃね?」
笑いながら背後を通り過ぎていく水泳部員。レギュラーという話が出るだけあって、ジャージに書かれていた学校名は、佐伯でも聞いたことのある強豪校だった。
(そんな高校の人まで、瀬田の噂してる)
佐伯は観客席の柵に寄りかかって、溜息をついた。
気づけば、プールサイドに瀬田の姿がある。
地方大会では他校のプールに戸惑って佐伯の背中をついて回っていたのに。
本選の会場では、人が変わったように堂々としている。
(本来の場所に還ってきたって、言うか)
(ああいうキラキラした場所が、本当によく似合うな)
学校の教室では、存在を忘れられたまま飼われている水槽の中の魚みたいなのに。
(たぶん瀬田は――魚じゃないんだ)
二本の脚が生えた人間。異次元の泳ぎをする、優れたスイマー。もう、佐伯の知らない場所まで泳いで行ってしまいそうな。
出会いは、濁った水たまりで泳ぐ魚だったのに。
喉の奥で、息が詰まる。
間近で見てきた瀬田の表情が、浮かんでは消える。
不思議な青い瞳。
水の中では本当によく笑って、疲れたらすぐ眠って、甘えかかってくる顔はちょっと可愛い。
――佐伯。
呼ぶ声が、耳底に沈んでいく。
周囲の「瀬田」と噂する声が、記憶の中の音を塗り潰していく。
(ああ、息が――苦しいな)
不意に、こちらを振り仰いだ瀬田と目が合った。
佐伯は無理に作った笑顔を浮かべて、瀬田に向けて手を振った。
学校の25メートルプールは、瀬田のように水を愛する魚には狭すぎると思っていた。
それでもいざ外に出て相応のプールを目の当たりにすると、自分たちだけの守られた環境が恋しくもなる。
「はー……でっけぇー……」
「うん、でかいな」
傍らに立つ瀬田は相変わらずだった。ドーム型の天井が見下ろす巨大な敷地。ぐるりと周りを囲むスタンド席と、色とりどりの横断幕。
揃いの部活ジャージや学校名が刺繍されたバッグ。日焼けしたガタイの良いザ・スイマーな選手とすれ違う度に、情けなく身体が震えた。
目移りする佐伯を他所に、瀬田の目はただ一点に注がれている。
観客席が見下ろす先にある、50メートルの競泳プール。
落ち葉のひとつも浮いていなければ、悠々と水面を滑るアメンボもいない。
それだけでも感動を覚えるのに、照明を跳ね返す澄んだ水面を見ているだけで、吸い込まれるようだった。
「瀬田はこういうとこ、来たことあるんだっけ」
「うん。でももう、ほとんど覚えてない」
トン、と肩に染みる柔らかな熱と頭の重さ。ギョッとして身を固める間に、瀬田が甘えるように鼻先を擦り寄せてくる。
学校内でされる分には気にしなかったけれど、周りに知り合いがいない中では異質に感じる、瀬田の距離感。
それでも、安心しきった呼吸音を聞いてしまえば、突き放すことはできない。
佐伯はそっと瞼を伏せて、瀬田の呼吸のリズムに息を合わせた。
「ここで勝てばいいんだっけ」
「うん。決勝まで残れたらとりあえずはいいんだと思う。……って、むちゃくちゃ言ってるけど」
「分かった」
浮かべた苦笑を遮って、瀬田ははっきりとした口調で言った。
肩に乗せていた頭を上げて、グンッと大きく伸びをする。しなやかな筋肉が、柔らかい音で微かに鳴る。
「今日は見てて、佐伯。俺、準備してくる」
「あ、うん」
一度だけ左右に視線を振った瀬田は、迷うことなく観客席の間の通路を降りていった。
夏休みに入ってすぐに開かれた地方予選。
名前を借りた三人は欠場として、瀬田と佐伯の二人でエントリーして競技に臨んだ。
佐伯は当たり前のように予選敗退したが、瀬田のほうはあっさり100メートルと200メートルの自由形で本選進出を決めてた。
あまりに早すぎて、泳ぎを見逃していたほどだった。
けれども、周囲の噂で瀬田の凄さを思い知る。
「瀬田鯨介って知ってる?」
「ああ、なんか聞いたことない高校の……あそこって水泳部あったんだ?」
「なんか部員五人とかって聞いたけど、応援とかきてんのかな?」
「瀬田のための部活って感じなんだろうな。俺だったらちょっと惨めかも」
「でも、そこでならレギュラーとれんじゃね?」
笑いながら背後を通り過ぎていく水泳部員。レギュラーという話が出るだけあって、ジャージに書かれていた学校名は、佐伯でも聞いたことのある強豪校だった。
(そんな高校の人まで、瀬田の噂してる)
佐伯は観客席の柵に寄りかかって、溜息をついた。
気づけば、プールサイドに瀬田の姿がある。
地方大会では他校のプールに戸惑って佐伯の背中をついて回っていたのに。
本選の会場では、人が変わったように堂々としている。
(本来の場所に還ってきたって、言うか)
(ああいうキラキラした場所が、本当によく似合うな)
学校の教室では、存在を忘れられたまま飼われている水槽の中の魚みたいなのに。
(たぶん瀬田は――魚じゃないんだ)
二本の脚が生えた人間。異次元の泳ぎをする、優れたスイマー。もう、佐伯の知らない場所まで泳いで行ってしまいそうな。
出会いは、濁った水たまりで泳ぐ魚だったのに。
喉の奥で、息が詰まる。
間近で見てきた瀬田の表情が、浮かんでは消える。
不思議な青い瞳。
水の中では本当によく笑って、疲れたらすぐ眠って、甘えかかってくる顔はちょっと可愛い。
――佐伯。
呼ぶ声が、耳底に沈んでいく。
周囲の「瀬田」と噂する声が、記憶の中の音を塗り潰していく。
(ああ、息が――苦しいな)
不意に、こちらを振り仰いだ瀬田と目が合った。
佐伯は無理に作った笑顔を浮かべて、瀬田に向けて手を振った。

