7.
背中で聞こえる寝息が、定番のBGMになりつつある。つられてガクンと揺れる頭。肩にめり込むシャーペンの先。
「痛っだ……っ」
反射で上げかけた声は、古典の老教師の鋭い視線を受けて呑み込んだ。
佐伯は窪んだ後の残る腕をさすりながら、情けない視線を隣に向けた。
「起こしてやったんだから睨むなよ」
「もうちょっと優しくしてよお……」
「お前は甘やかしすぎだぞ、そいつのこと」
相田はくるりと回したシャーペンの先を、佐伯の背後へと向けた。
肩越しに向けた視線の先で、瀬田が教科書を頭に乗せて机に突っ伏している。
「なんで頭に教科書乗ってんだと思う?」
「え、一応隠れてるつもりなんじゃない?」
「あー……漁礁ってやつか」
興味なさそうな口調でぼやいた相田は、教科書を団扇がわりにしながら前を向く。
瀬田は、水の中以外では驚くほど存在感がない。
転校してきたばかりの頃は、整った顔立ちが目を惹いて何かと話しかけられていた。
けれども、本人がほとんど何もしゃべらないので、構われる期間は早々に去った。
授業中は寝てばかりだったが、彼の複雑な事情を知ってか、教師に目をつけられることもない。
表情を微妙に変えたり、何かをしゃべるのは佐伯の前だけ。
距離が近くていつもべったり貼り付いている様は、友人たちの間で「大型犬の散歩」と呼ばれていた。
◇
「佐伯、瀬田。ちょっと職員室に来てくれ」
夏休みが目前に迫った時期。
名ばかりの水泳部顧問である体育教師の萩原が二人に声をかけてきた。
部活に行くために手にしたプールバッグを担いだままで、職員室に入る。
席の傍で待つ二人に、萩原は一枚の紙を手渡してから、深く頭を下げた。
「ちょ、萩センなにやってんの? この紙なに?」
「新人戦……」
後ろから紙を覗き込んでいた瀬田が、寝起きの声でポツリと文面を読み上げる。
萩原はパッと頭を起こして激しく頷いた。
「そう、新人戦。お前らこれ出てくんない? そんでなんとかして入賞してほしい」
「は、入賞ぉ?」
職員室中に響き渡る声が出た。萩原は再び深く頭を下げる。
「部が出来てそろそろ二か月だろ? 思ったよりプールの維持費が嵩んでて、予算取ってくるにしても説得するにはどうしても実績がいるんだよ。遠征費用も持つからさ、な。この通り!」
「この通りって言われてもなあ……」
中学の大会ですら心折れた佐伯にとって、高校生の大会は未知の領域でしかない。
同じく中学で一度水泳を離れている瀬田にしても、その感覚は同じだろう。
「……その、実績ってやつがないと、水泳部なくなるんですか?」
普段滅多にしゃべらない瀬田の発言に、萩原はぽかんとした顔を上げる。
数回瞬きしたあとで、複雑な形に顔を歪めた。
「なくす、なんて乱暴なことはしないけど……たとえば親御さんに後援会を作ってもらうとか、少しでも部費をとるとか、そういうことをする必要は出てくるな」
「親、かあ……」
中学での挫折を知っている親ならば、また水泳を始めたと言えば協力してくれるかもしれない。
チラッ、と。瀬田の横顔を窺い見る。
瀬田は固い表情のままで黙り込んでいた。無表情をいつもことだけれども、聞こえてくる呼吸音が若干浅い。
「瀬――」
「やります」
呼びかけようとした声を遮るように、瀬田がはっきりとした声を出す。
「は……え、瀬田、いいの?」
探る視線を向けて問うと、瀬田はあごを引いて頷いた。
「ばあちゃんにこれ以上迷惑はかけられないし、佐伯がいればおれは――ちゃんと息できるから」
正面にある気配が、ピタリと静止する。
佐伯は背伸びをして瀬田の口を塞ぎ、引き寄せる勢いのまま萩原に頭を下げる。
「えっと、そういうことなんで! 俺らがんばります! 他のやつらにも言っとくんで、申し込みとかそういうのも諸々お願いします!」
瀬田を引きずるようして職員室を出た。
残された萩原は、口をぽかんと開けたまま数秒の間固まっていた。
「……息?」
背中で聞こえる寝息が、定番のBGMになりつつある。つられてガクンと揺れる頭。肩にめり込むシャーペンの先。
「痛っだ……っ」
反射で上げかけた声は、古典の老教師の鋭い視線を受けて呑み込んだ。
佐伯は窪んだ後の残る腕をさすりながら、情けない視線を隣に向けた。
「起こしてやったんだから睨むなよ」
「もうちょっと優しくしてよお……」
「お前は甘やかしすぎだぞ、そいつのこと」
相田はくるりと回したシャーペンの先を、佐伯の背後へと向けた。
肩越しに向けた視線の先で、瀬田が教科書を頭に乗せて机に突っ伏している。
「なんで頭に教科書乗ってんだと思う?」
「え、一応隠れてるつもりなんじゃない?」
「あー……漁礁ってやつか」
興味なさそうな口調でぼやいた相田は、教科書を団扇がわりにしながら前を向く。
瀬田は、水の中以外では驚くほど存在感がない。
転校してきたばかりの頃は、整った顔立ちが目を惹いて何かと話しかけられていた。
けれども、本人がほとんど何もしゃべらないので、構われる期間は早々に去った。
授業中は寝てばかりだったが、彼の複雑な事情を知ってか、教師に目をつけられることもない。
表情を微妙に変えたり、何かをしゃべるのは佐伯の前だけ。
距離が近くていつもべったり貼り付いている様は、友人たちの間で「大型犬の散歩」と呼ばれていた。
◇
「佐伯、瀬田。ちょっと職員室に来てくれ」
夏休みが目前に迫った時期。
名ばかりの水泳部顧問である体育教師の萩原が二人に声をかけてきた。
部活に行くために手にしたプールバッグを担いだままで、職員室に入る。
席の傍で待つ二人に、萩原は一枚の紙を手渡してから、深く頭を下げた。
「ちょ、萩センなにやってんの? この紙なに?」
「新人戦……」
後ろから紙を覗き込んでいた瀬田が、寝起きの声でポツリと文面を読み上げる。
萩原はパッと頭を起こして激しく頷いた。
「そう、新人戦。お前らこれ出てくんない? そんでなんとかして入賞してほしい」
「は、入賞ぉ?」
職員室中に響き渡る声が出た。萩原は再び深く頭を下げる。
「部が出来てそろそろ二か月だろ? 思ったよりプールの維持費が嵩んでて、予算取ってくるにしても説得するにはどうしても実績がいるんだよ。遠征費用も持つからさ、な。この通り!」
「この通りって言われてもなあ……」
中学の大会ですら心折れた佐伯にとって、高校生の大会は未知の領域でしかない。
同じく中学で一度水泳を離れている瀬田にしても、その感覚は同じだろう。
「……その、実績ってやつがないと、水泳部なくなるんですか?」
普段滅多にしゃべらない瀬田の発言に、萩原はぽかんとした顔を上げる。
数回瞬きしたあとで、複雑な形に顔を歪めた。
「なくす、なんて乱暴なことはしないけど……たとえば親御さんに後援会を作ってもらうとか、少しでも部費をとるとか、そういうことをする必要は出てくるな」
「親、かあ……」
中学での挫折を知っている親ならば、また水泳を始めたと言えば協力してくれるかもしれない。
チラッ、と。瀬田の横顔を窺い見る。
瀬田は固い表情のままで黙り込んでいた。無表情をいつもことだけれども、聞こえてくる呼吸音が若干浅い。
「瀬――」
「やります」
呼びかけようとした声を遮るように、瀬田がはっきりとした声を出す。
「は……え、瀬田、いいの?」
探る視線を向けて問うと、瀬田はあごを引いて頷いた。
「ばあちゃんにこれ以上迷惑はかけられないし、佐伯がいればおれは――ちゃんと息できるから」
正面にある気配が、ピタリと静止する。
佐伯は背伸びをして瀬田の口を塞ぎ、引き寄せる勢いのまま萩原に頭を下げる。
「えっと、そういうことなんで! 俺らがんばります! 他のやつらにも言っとくんで、申し込みとかそういうのも諸々お願いします!」
瀬田を引きずるようして職員室を出た。
残された萩原は、口をぽかんと開けたまま数秒の間固まっていた。
「……息?」

