6.
手首を掴まれたまま、連行されるようにプールへ戻る。
着替えを済ませた佐伯がプールサイドに出ると、瀬田は待ちかねたように水色の水面に飛び込んだ。
相変わらず、飛沫のほとんど立たない美しい飛び込み。
どの角度で入れば抵抗を受けないか、本能が感じとっているのだろう。
ただ水を掻くだけで美しい生き物を眺めながら、佐伯は飛び込み台の隣に座り、爪先を水面に浸す。
「佐伯」
水に伝わる変化はすべて分かるとでも言うように、瀬田はすぐに寄ってきた。
水面から上半身を出して。プールの縁に腕を組む。
「泳いでていいよ?」
「俺が、話があるって言ったんだ」
「まあ、うん。そうね。いいよ、聞くよ」
水面の影が揺れる青。形の良い唇を通る呼吸は、胸筋をわずかに膨らませ、詰まることなく吐き出される。
佐伯は意識して、瀬田に呼吸の調子に合わせた。
「俺も、中学で一度水泳やめてる」
「んぇ……?」
呼吸も乱さず、淡々と。
告げられた切り出しに、佐伯はゴクンと唾を呑む。
「昔から、泳ぐのが好きだった。風呂でも、川でも、どこでも泳いでたし、少し大きくなってプールを知った時は、天国かと思った」
初めて目にしたプールに瞳を輝かせる瀬田少年を想像すると、自然と笑いがこみ上げた。
本人はあくまで淡々としているので、手を当ててそっと口角を隠す。
「泳いでるうちに、競泳の世界を知って、タイムを測るようになった。そしたら、なんかやたらと大人が集まってきて、いろいろ言われるようになった」
「ああ、うん……そういうの、あるよね」
佐伯の場合は、のんびりしたものだった。
田舎のスイミングスクールでトップでも、大人たちは褒めてくれるだけでそれ以上は望まない。
テレビで大会を観戦して「あそこに立ちたい」と言っても笑われるだけだった。
けれども瀬田は、たぶん違う。
もっと真剣で、お金や人がたくさん絡んでくるやつだ。
「俺はただ、泳ぎたいだけだったから。泳がせてくれるっていうなら、いろんなところについていった。だけど、なんか違くて……そしたらなんか、息が出来なくなった」
瀬田の指が、自身の喉に触れる。
柔らかな肌を押し込む指先。カッ、と乾いた息の音が鳴る。
佐伯は思わず、顔を顰めた。
沈み込んでいた指が離れて、瀬田は淡い息を吐く。
「それはその、結構シビアなやつ?」
「うん。息の吸い方が分かんなくて、吐き方も。はじめは水から上がったときだけだったんだけど、そのうち、水の中でも呼吸ができなくなった」
水の中で呼吸ができないのは、人間なら当たり前なんだけど。
けれども瀬田の告白はたぶん、そういうことを言っているのではない。
「それは……すごく、しんどいやつだね」
「うん」
迷いなく瀬田は頷く。水の中での呼吸の仕方が分からなかったら、泳げない。
泳げないとたぶん死ぬ、とまで言う人間が、呼吸する場所を奪われるということ。
佐伯は縁の溝に溜まった水を、そっと掻きまわした。
わずかに渦を巻いた水は、すぐに解けて静かに凪ぐ。
「もしかして、それでこっちに転校してきたの?」
「うん。こっちに、ばあちゃんの家があって。治療も上手くいってなかったし、環境変えたほうがいいだろうって」
「上手くいかなかったのって、息できないのに泳ごうとしちゃうからじゃない?」
「……なんで分かるんだ?」
「ほらあ」
佐伯は笑って、水に浸した爪先を跳ね上げた。
パシャン、と跳ねる飛沫。空中で丸く結んだ雫は、凪いだ水面に落ちていくつも波紋を描く。
「瀬田のこと見てたら、そりゃ分かるよ」
「佐伯は?」
「ん?」
「息、上手くできるか?」
「そりゃ、俺は……まあ、うん……はは」
力ない笑いが漏れた。指先に温い水が触れる。ジリジリ焼く太陽が、ラッシュガード越しにも突き刺さる。
「俺ね、すごいお人好しでお節介なの」
「そうだな」
「コラァ。……って、話逸れちゃうな。人の危険信号みたいなのがね、なんか分かるっていうか。そんでそれを聞くと、どうしても走っちゃう。だから人のためにばっか動いてたんだけど、唯一ね、水泳だけは、得意だって思って、俺が俺のためだけにがんばってたの」
水面から顔を出した時、まだ他のだれもゴールしてないと知ったときの快感。
泳いでるときは一人で、自由で、勝負のことなんて忘れているのに、気づいたら勝っている。
楽しくて、夢中で、ずっと続けていたかった。
「でもさ、中学行ったら、全然勝てなくて。そしたらなんか、水泳がどんどん嫌になっていっちゃったの。泳いでも、どうせ勝てないって。始めたばっかの頃はそんなこと考えてなかったはずなのに、好きな気持ちに結果がついてこなくなった瞬間嫌になるとか、最低だなって」
何度も、何度も、指先で水面を乱す。
いくら乱しても、水は知らん顔で元に戻る。
「勝てたから好きだったのか、水泳が好きなのか、分かりたくて。中学の三年間、マネージャーとして部に残ったんだ」
「それで……どうだったんだ?」
「うーん……分かんない」
再びこぼれた笑いは、情けなく、乾いていた。
「周りのみんなも、苦しんで、いっぱい苦しんで、それで勝ったり、負けたりしてて。俺はちゃんと、選手として向き合ってこなかったから、分かんないまんま。バカなことしちゃったなーって、思う」
「じゃあ今はどうして、俺に付き合ってくれてるんだ?」
ふと、瀬田と目を合わせる。
不思議な色をした青い眼の奥に、不安が揺れていた。
相田に向けられたのと、同じ問い。
佐伯は強く、息を吐いた。
「俺も……知りたいのかもしれない」
「なにを?」
「息の仕方」
パタッと、瀬田の青眼が瞬く。
そっと、手首に触れる指先。瀬田は佐伯の手首を握り込んで、強く手前に引いた。
「う、わ……っ」
引かれるままに、水面に落ちる。澄んだ水の中で、瀬田の姿がぼんやりと揺れた。
瀬田は佐伯の肩に両手をついて、押し付ける力をかけてくる。
(沈められる――!?)
佐伯は丸く目を見開いて、瀬田を見上げた。
視界の中で、瀬田が口を開くのが見える。気泡が生まれ、一斉に水面に昇っていく。
その光景に、目を奪われる。
同時に、瀬田がなにかしようとしているのを察した。
佐伯はふっと、身体の力を抜いた。
水の中で、細められる青眼。肩を押せえる力が緩んで、瀬戸の顔がすぐそばまで近づく。
「……っ」
思わず、息を呑む。唇の隙間から小さな気泡が生まれ、視界の中を上っていく。
瀬田はその水泡を――唇で捕まえた。
ザバン、と。派手な飛沫を立てて二人同時に水面から顔を出す。
佐伯は唇をパクパクと動かして瀬田を見上げた。首から上の温度が一気に上がっていく。
「ああ、おっ、おま……ちょ、ねえ今、何した!?」
対する瀬田は、単に首を傾げるだけ。
「食べた」
「うん、なんかね、なんかそんな感じだった。まって、え、俺の息を? え、ちょ、……なんで!?」
内側の動揺と連動するみたいに暴れる水面。こちら側ばかりに波紋がいくつも落ちて、瀬田の側は変わらず凪いだままでいる。
「これが俺の答えだから」
「……ぉん?」
怪訝に顔を顰める佐伯を見下ろしながら、瀬田は表情を柔らかく綻ばせる。
「佐伯の傍だと――息がしやすいんだ」
手首を掴まれたまま、連行されるようにプールへ戻る。
着替えを済ませた佐伯がプールサイドに出ると、瀬田は待ちかねたように水色の水面に飛び込んだ。
相変わらず、飛沫のほとんど立たない美しい飛び込み。
どの角度で入れば抵抗を受けないか、本能が感じとっているのだろう。
ただ水を掻くだけで美しい生き物を眺めながら、佐伯は飛び込み台の隣に座り、爪先を水面に浸す。
「佐伯」
水に伝わる変化はすべて分かるとでも言うように、瀬田はすぐに寄ってきた。
水面から上半身を出して。プールの縁に腕を組む。
「泳いでていいよ?」
「俺が、話があるって言ったんだ」
「まあ、うん。そうね。いいよ、聞くよ」
水面の影が揺れる青。形の良い唇を通る呼吸は、胸筋をわずかに膨らませ、詰まることなく吐き出される。
佐伯は意識して、瀬田に呼吸の調子に合わせた。
「俺も、中学で一度水泳やめてる」
「んぇ……?」
呼吸も乱さず、淡々と。
告げられた切り出しに、佐伯はゴクンと唾を呑む。
「昔から、泳ぐのが好きだった。風呂でも、川でも、どこでも泳いでたし、少し大きくなってプールを知った時は、天国かと思った」
初めて目にしたプールに瞳を輝かせる瀬田少年を想像すると、自然と笑いがこみ上げた。
本人はあくまで淡々としているので、手を当ててそっと口角を隠す。
「泳いでるうちに、競泳の世界を知って、タイムを測るようになった。そしたら、なんかやたらと大人が集まってきて、いろいろ言われるようになった」
「ああ、うん……そういうの、あるよね」
佐伯の場合は、のんびりしたものだった。
田舎のスイミングスクールでトップでも、大人たちは褒めてくれるだけでそれ以上は望まない。
テレビで大会を観戦して「あそこに立ちたい」と言っても笑われるだけだった。
けれども瀬田は、たぶん違う。
もっと真剣で、お金や人がたくさん絡んでくるやつだ。
「俺はただ、泳ぎたいだけだったから。泳がせてくれるっていうなら、いろんなところについていった。だけど、なんか違くて……そしたらなんか、息が出来なくなった」
瀬田の指が、自身の喉に触れる。
柔らかな肌を押し込む指先。カッ、と乾いた息の音が鳴る。
佐伯は思わず、顔を顰めた。
沈み込んでいた指が離れて、瀬田は淡い息を吐く。
「それはその、結構シビアなやつ?」
「うん。息の吸い方が分かんなくて、吐き方も。はじめは水から上がったときだけだったんだけど、そのうち、水の中でも呼吸ができなくなった」
水の中で呼吸ができないのは、人間なら当たり前なんだけど。
けれども瀬田の告白はたぶん、そういうことを言っているのではない。
「それは……すごく、しんどいやつだね」
「うん」
迷いなく瀬田は頷く。水の中での呼吸の仕方が分からなかったら、泳げない。
泳げないとたぶん死ぬ、とまで言う人間が、呼吸する場所を奪われるということ。
佐伯は縁の溝に溜まった水を、そっと掻きまわした。
わずかに渦を巻いた水は、すぐに解けて静かに凪ぐ。
「もしかして、それでこっちに転校してきたの?」
「うん。こっちに、ばあちゃんの家があって。治療も上手くいってなかったし、環境変えたほうがいいだろうって」
「上手くいかなかったのって、息できないのに泳ごうとしちゃうからじゃない?」
「……なんで分かるんだ?」
「ほらあ」
佐伯は笑って、水に浸した爪先を跳ね上げた。
パシャン、と跳ねる飛沫。空中で丸く結んだ雫は、凪いだ水面に落ちていくつも波紋を描く。
「瀬田のこと見てたら、そりゃ分かるよ」
「佐伯は?」
「ん?」
「息、上手くできるか?」
「そりゃ、俺は……まあ、うん……はは」
力ない笑いが漏れた。指先に温い水が触れる。ジリジリ焼く太陽が、ラッシュガード越しにも突き刺さる。
「俺ね、すごいお人好しでお節介なの」
「そうだな」
「コラァ。……って、話逸れちゃうな。人の危険信号みたいなのがね、なんか分かるっていうか。そんでそれを聞くと、どうしても走っちゃう。だから人のためにばっか動いてたんだけど、唯一ね、水泳だけは、得意だって思って、俺が俺のためだけにがんばってたの」
水面から顔を出した時、まだ他のだれもゴールしてないと知ったときの快感。
泳いでるときは一人で、自由で、勝負のことなんて忘れているのに、気づいたら勝っている。
楽しくて、夢中で、ずっと続けていたかった。
「でもさ、中学行ったら、全然勝てなくて。そしたらなんか、水泳がどんどん嫌になっていっちゃったの。泳いでも、どうせ勝てないって。始めたばっかの頃はそんなこと考えてなかったはずなのに、好きな気持ちに結果がついてこなくなった瞬間嫌になるとか、最低だなって」
何度も、何度も、指先で水面を乱す。
いくら乱しても、水は知らん顔で元に戻る。
「勝てたから好きだったのか、水泳が好きなのか、分かりたくて。中学の三年間、マネージャーとして部に残ったんだ」
「それで……どうだったんだ?」
「うーん……分かんない」
再びこぼれた笑いは、情けなく、乾いていた。
「周りのみんなも、苦しんで、いっぱい苦しんで、それで勝ったり、負けたりしてて。俺はちゃんと、選手として向き合ってこなかったから、分かんないまんま。バカなことしちゃったなーって、思う」
「じゃあ今はどうして、俺に付き合ってくれてるんだ?」
ふと、瀬田と目を合わせる。
不思議な色をした青い眼の奥に、不安が揺れていた。
相田に向けられたのと、同じ問い。
佐伯は強く、息を吐いた。
「俺も……知りたいのかもしれない」
「なにを?」
「息の仕方」
パタッと、瀬田の青眼が瞬く。
そっと、手首に触れる指先。瀬田は佐伯の手首を握り込んで、強く手前に引いた。
「う、わ……っ」
引かれるままに、水面に落ちる。澄んだ水の中で、瀬田の姿がぼんやりと揺れた。
瀬田は佐伯の肩に両手をついて、押し付ける力をかけてくる。
(沈められる――!?)
佐伯は丸く目を見開いて、瀬田を見上げた。
視界の中で、瀬田が口を開くのが見える。気泡が生まれ、一斉に水面に昇っていく。
その光景に、目を奪われる。
同時に、瀬田がなにかしようとしているのを察した。
佐伯はふっと、身体の力を抜いた。
水の中で、細められる青眼。肩を押せえる力が緩んで、瀬戸の顔がすぐそばまで近づく。
「……っ」
思わず、息を呑む。唇の隙間から小さな気泡が生まれ、視界の中を上っていく。
瀬田はその水泡を――唇で捕まえた。
ザバン、と。派手な飛沫を立てて二人同時に水面から顔を出す。
佐伯は唇をパクパクと動かして瀬田を見上げた。首から上の温度が一気に上がっていく。
「ああ、おっ、おま……ちょ、ねえ今、何した!?」
対する瀬田は、単に首を傾げるだけ。
「食べた」
「うん、なんかね、なんかそんな感じだった。まって、え、俺の息を? え、ちょ、……なんで!?」
内側の動揺と連動するみたいに暴れる水面。こちら側ばかりに波紋がいくつも落ちて、瀬田の側は変わらず凪いだままでいる。
「これが俺の答えだから」
「……ぉん?」
怪訝に顔を顰める佐伯を見下ろしながら、瀬田は表情を柔らかく綻ばせる。
「佐伯の傍だと――息がしやすいんだ」

