5.
「ソラ」
長年の勘が告げる。
幼馴染がその声で呼ぶときは、大体機嫌が悪い。
掃除当番を終え、プールバッグを肩に引っ掛け銀のレールを飛び越える直前、相田が進路を塞いだ。
「真也、どしたん? 俺、部活行かなきゃ」
「なんでわざわざ水泳部なんだよ」
乾いた声は、鋭利な刃物のように胸を刺す。
佐伯は硬い感触のつばを喉に流し込んで、意識して力の抜けた笑みを浮かべる。
「たまたまだよ。瀬田が泳ぐ人だったってだけ」
「そう、じゃあもういいだろ。部活だって、名前さえ貸しときゃいんだろ? 俺たちみたいに、別に幽霊だって。体育の萩センだって文句言ってこねえだろ」
「う……まあ」
「あの魚くんだって、泳げる場所さえ作ってやったら勝手に泳いでんだろうが。わざわざお前が行ってやる必要ねえよ」
「えぇ……真也、なんかちょっと冷たくない? ねえ」
目の前の表情が痛そうに歪む。何度も呑み下す唾が硬いままで、喉がヒリヒリした。
表情から笑みを消して、途方にくれた顔を向ければ、相田はチッと舌打ちをして壁を叩く。
「お前がお人好しで世話焼きなんは知ってるよ。そういう性分だってことも理解してる。でも水泳はさあ、ダメだろ。なんでそんな自分を傷つけることすんの」
「……ごめん、真也」
「謝ってほしいわけじゃないから。俺はなんでって聞いてんの」
握った拳が白く染まっている。佐伯は短く息をついて肩を落とし、入口近くの席に相田を誘った。
ひとつの机を挟んで、向かい合わせの位置に座る。
「水泳はさ……確かに俺にとって特別だよ。小学校の時、唯一得意だって言えるもんだかったら」
「唯一、なんていうこたねえだろ」
「まあまあ……でも中学行ったら他に上手いやつやつも速いやつもいっぱいいて、全然だめだったから。俺はもう水泳でどうこうなろうって思うのはやめたの」
「そんなこと言って、結局中学の三年間ずっとマネージャーやってたじゃん。そんで、才能目の前で見せつけられんのしんどいっつってたじゃん。後任もいないし、頼まれて仕方なく残ったって、俺だけには本音言っただろうが。そっちが嘘なのかよ?」
「嘘じゃない……嘘じゃないって……」
責める口調で向けられる相田の言葉が、重く圧し掛かる。
佐伯はハァとため息を吐いて、机に突っ伏した。
「しんどかったのは、嘘じゃないよ。でも、水泳が好きって気持ちも嘘じゃないから、離れなかったのは俺の問題なんだよ」
「その気持ちは、中学の三年間で吹っ切れたって言ってたよな? 今も水泳にかかわってんのはなんでだよ。高校だって、あえて水泳部ないとこ選んだくせに」
「うぅー……」
下げた頭が、重くて上げられない。なんで、という彼の問いに対する答えが、ぐるぐる音を立てて渦巻いた。
自分の「好き」には区切りがついた。中学の三年間で「好き」と「苦しい」の間にずっと立ち続けて、痛いほど思い知ったから。
好きと得意は違う。
好きを一生懸命に続けることと、勝負の世界で結果を出せるのはイコールじゃない。
俯いて、自分で狭くした空間で、息を吐く。
苦しかった。
頭にふと、水の中で気持ちよさそうに笑う瀬田の顔が過ぎる。
(あんなふうに、俺も――)
「佐伯」
ポツン、と。凪いだ水面に雫を落とすように響く声。
相田が体重を乗せた椅子の背もたれが鈍く鳴る音と同時に、佐伯は顔を上げた。
教室の入口に、ラッシュガードを肩に羽織った瀬田が立っている。
濡れた前髪から、ポタンと一粒の水滴が床に落ちた。
「瀬田、なんで……」
「佐伯が遅いから、迎えに来た。部活、行こう」
瀬田の目は、間にいる相田を通り越して真っすぐ佐伯に向けられている。
深い場所で青が揺れる、不思議な色の瞳。
佐伯はゴクンと喉を鳴らして、ゆっくりと立ち上がる。
「ソラ」
叱責する口調で呼ぶ相田の声。佐伯はビクリと身体を震わせ、情けない目を彼に向ける。
「ごめん、真也。質問にはちゃんと答えるから……今は、行かせて」
「……約束な。あと腹立つからそれ、掃除しといてやるよ」
相田は佐伯から目を逸らして、あごで床に落ちた水滴を示した。
「ありがとう、真也」
瀬田の傍に行くと、彼も不思議そうな顔をしたたまま頭を下げる。
「……ありがとう」
「お前にまで礼言われる筋合いねえんだわ。早く行け、ばーか」
空中を蹴る動作に追いやられて、佐伯は瀬田を連れて廊下にでた。
廊下から階段、特別棟に続く渡り廊下まで、瀬田の落とした水滴は続いている。
「もー、ちゃんと拭いてからこないとダメでしょうがっ」
渡り廊下への降り口。数段のステップの上に立ち、瀬田の髪をタオルでかき混ぜた。
されるがままの青みがかった黒髪を眺めていると、不意に手首を掴まれる。
「ふぇ?」
タオルを避けて、覗き込んでくる深い青。
ドクン、と。大きく心臓が跳ねる。
「佐伯――話がある」
「ソラ」
長年の勘が告げる。
幼馴染がその声で呼ぶときは、大体機嫌が悪い。
掃除当番を終え、プールバッグを肩に引っ掛け銀のレールを飛び越える直前、相田が進路を塞いだ。
「真也、どしたん? 俺、部活行かなきゃ」
「なんでわざわざ水泳部なんだよ」
乾いた声は、鋭利な刃物のように胸を刺す。
佐伯は硬い感触のつばを喉に流し込んで、意識して力の抜けた笑みを浮かべる。
「たまたまだよ。瀬田が泳ぐ人だったってだけ」
「そう、じゃあもういいだろ。部活だって、名前さえ貸しときゃいんだろ? 俺たちみたいに、別に幽霊だって。体育の萩センだって文句言ってこねえだろ」
「う……まあ」
「あの魚くんだって、泳げる場所さえ作ってやったら勝手に泳いでんだろうが。わざわざお前が行ってやる必要ねえよ」
「えぇ……真也、なんかちょっと冷たくない? ねえ」
目の前の表情が痛そうに歪む。何度も呑み下す唾が硬いままで、喉がヒリヒリした。
表情から笑みを消して、途方にくれた顔を向ければ、相田はチッと舌打ちをして壁を叩く。
「お前がお人好しで世話焼きなんは知ってるよ。そういう性分だってことも理解してる。でも水泳はさあ、ダメだろ。なんでそんな自分を傷つけることすんの」
「……ごめん、真也」
「謝ってほしいわけじゃないから。俺はなんでって聞いてんの」
握った拳が白く染まっている。佐伯は短く息をついて肩を落とし、入口近くの席に相田を誘った。
ひとつの机を挟んで、向かい合わせの位置に座る。
「水泳はさ……確かに俺にとって特別だよ。小学校の時、唯一得意だって言えるもんだかったら」
「唯一、なんていうこたねえだろ」
「まあまあ……でも中学行ったら他に上手いやつやつも速いやつもいっぱいいて、全然だめだったから。俺はもう水泳でどうこうなろうって思うのはやめたの」
「そんなこと言って、結局中学の三年間ずっとマネージャーやってたじゃん。そんで、才能目の前で見せつけられんのしんどいっつってたじゃん。後任もいないし、頼まれて仕方なく残ったって、俺だけには本音言っただろうが。そっちが嘘なのかよ?」
「嘘じゃない……嘘じゃないって……」
責める口調で向けられる相田の言葉が、重く圧し掛かる。
佐伯はハァとため息を吐いて、机に突っ伏した。
「しんどかったのは、嘘じゃないよ。でも、水泳が好きって気持ちも嘘じゃないから、離れなかったのは俺の問題なんだよ」
「その気持ちは、中学の三年間で吹っ切れたって言ってたよな? 今も水泳にかかわってんのはなんでだよ。高校だって、あえて水泳部ないとこ選んだくせに」
「うぅー……」
下げた頭が、重くて上げられない。なんで、という彼の問いに対する答えが、ぐるぐる音を立てて渦巻いた。
自分の「好き」には区切りがついた。中学の三年間で「好き」と「苦しい」の間にずっと立ち続けて、痛いほど思い知ったから。
好きと得意は違う。
好きを一生懸命に続けることと、勝負の世界で結果を出せるのはイコールじゃない。
俯いて、自分で狭くした空間で、息を吐く。
苦しかった。
頭にふと、水の中で気持ちよさそうに笑う瀬田の顔が過ぎる。
(あんなふうに、俺も――)
「佐伯」
ポツン、と。凪いだ水面に雫を落とすように響く声。
相田が体重を乗せた椅子の背もたれが鈍く鳴る音と同時に、佐伯は顔を上げた。
教室の入口に、ラッシュガードを肩に羽織った瀬田が立っている。
濡れた前髪から、ポタンと一粒の水滴が床に落ちた。
「瀬田、なんで……」
「佐伯が遅いから、迎えに来た。部活、行こう」
瀬田の目は、間にいる相田を通り越して真っすぐ佐伯に向けられている。
深い場所で青が揺れる、不思議な色の瞳。
佐伯はゴクンと喉を鳴らして、ゆっくりと立ち上がる。
「ソラ」
叱責する口調で呼ぶ相田の声。佐伯はビクリと身体を震わせ、情けない目を彼に向ける。
「ごめん、真也。質問にはちゃんと答えるから……今は、行かせて」
「……約束な。あと腹立つからそれ、掃除しといてやるよ」
相田は佐伯から目を逸らして、あごで床に落ちた水滴を示した。
「ありがとう、真也」
瀬田の傍に行くと、彼も不思議そうな顔をしたたまま頭を下げる。
「……ありがとう」
「お前にまで礼言われる筋合いねえんだわ。早く行け、ばーか」
空中を蹴る動作に追いやられて、佐伯は瀬田を連れて廊下にでた。
廊下から階段、特別棟に続く渡り廊下まで、瀬田の落とした水滴は続いている。
「もー、ちゃんと拭いてからこないとダメでしょうがっ」
渡り廊下への降り口。数段のステップの上に立ち、瀬田の髪をタオルでかき混ぜた。
されるがままの青みがかった黒髪を眺めていると、不意に手首を掴まれる。
「ふぇ?」
タオルを避けて、覗き込んでくる深い青。
ドクン、と。大きく心臓が跳ねる。
「佐伯――話がある」

