水たまりの魚

4.

 水色――色の名前を取り戻したような、鮮やかな水面が揺れる。
 水泳部、という名前に恥じないよう新調した競泳水着。まだ上手く肌になじまない生地を、ストレッチで伸び縮みさせた。
 大きく背中を反らして見上げた先。暴力的な日差しを降らす太陽は、今日も晴れやかな顔でそこにいる。

 目を細める間に、ギィと鈍い金属音が鳴った。次いで、水を含んだ足音。
 二人きりの部活で、やってくる人物はひとりしかいない。

「瀬田! 今日に限って掃除当番なんて、災難だった……ね……」

 溌溂と上げた声が、尻すぼみに消えていく。

「どうした、佐伯」

 ゴクリ、と。大げさな音を立てて喉が鳴った。
 角度によって青く見える髪。水を目にすると青く光る瞳の色も絶好調。
 均整の取れた顔立ちは、存在感が薄い割にしっかりと美人で――それはいつもと変わらない。
 初めて目にしたのは、その下だった。

「いやその、瀬田……脱いだらヤバいのね……」

 口に出してから、もっと言い方を選べと自省した。
 言われた当人の瀬田は、まったく気にしていないようなのでホッとする。
 当然のように割れた腹筋。ストレッチのたびに浮き上がる、柔らかそうな肩の筋肉。
 引き締まった腰から広がる肩幅のラインは惚れ惚れするほど芸術的だった。

「瀬田って着やせするタイプ? ……とか、男子にこれ言うと思わなかったわ、俺」
「佐伯はもう少し筋肉があったほうがいいな」
「分かってますう!」

 やけくそで叫んで、ストレッチを終えた。
 もう一度シャワーを浴び直してから、飛び込み台の前に並んで立った。
 佐伯を見る瀬田の目は、まるで主人の合図を待つ大型犬のよう。

「初泳ぎ、行っていーよ」
「佐伯は?」
「俺はとりあえず、瀬田が泳いでるとこ見たい」
「分かった」

 ハッ、と。地上で最後の息を吐いて、ゴーグルに伸びる指先。
 ゴムを伸ばして顔面に装着した横顔は、水に飢えた魚だった。

「合図、頼む」
「おっけ。えっと……オンユアマーク」

 昔、テレビで見た掛け声を思い出して言ってみる。
 瀬田は飛び込み台の上に立ち、爪先を揃えた。
 引き結ばれたままの唇。肩に余計な力が入っていない、自然な立ち姿。
 心臓が、静かに内側を叩いてくる。
 佐伯はそっと息を詰めて、声が震えないよう気合を入れた。

「レディ……ゴッ!」

 声と、息を吸う音が重なった。同時に、低く沈む一瞬の後、音もなく飛び出す身体。
 ほとんど水しぶきを上げずに、水面に深く吸い込まれていく。
 滑らかに上下しながら水底を進む身体。予想したよりもずっと遠くに、白い水泳キャップの頭が現れる。

「は、っや……」

 佐伯は視界の端で時計の秒針を捉えた。そしてすぐに、視線を水面に戻す。
 白い腕が水を掻く。聞こえる音はまるで水を切るような音だった。水の抵抗なんてほとんどないんじゃないかと思うほどに、泳ぐ彼の姿は何よりも自由だった。
 あっという間に向こう岸にたどり着き、足が翻ってターンする。

 二十五メートルしかないプールは、彼には狭すぎる。
 端から端まで辿りつくのが一瞬すぎて目で追えない。

 呼吸も忘れて魅入る間に、壁に手をついた瀬田が水面から顔を出した。
 佐伯はハッとして時計の秒針を見る。

(なんか、すごいタイムなんじゃない……?)

「佐伯」

 不意に、手首に掛かる重さ。
 油断していた身体が、引っ張られるままに傾く。

「えっ……うわあ!?」

 ドボン、と派手で間抜けな音は、途中から聞こえなくなった。
 無数の水泡が肌を撫で、一斉に上へと向かって行く。
 身体を包み込む、柔らかな水圧。薄っすらと開いた瞼の隙間に、ぼんやりとした人影が映る。
 浮力に押し上げられる感覚よりも早く、頭が水面を破った。
 ブルッと頭を振って、瞬きをして。状況をようやく理解する。

「ちょ……、瀬田ぁ!」

 佐伯の身体は、抱っこの要領で瀬田の両手に持ち上げられていた。

「やめて! なに、ハズいんですけど!?」
「佐伯」
「はい、何!?」

 暴れる佐伯などお構いなし、と言った調子の落ち着いた声に、佐伯はやけくそで返事を返す。
 抵抗をやめて見下ろした先。
 青が、眩しく笑っている。

「すごく気持ちい!」

 あはは、と声まで上げて。
 無表情がデフォルトの人間の笑顔が持つ破壊力は――とてつもなくデカい。
 佐伯はあまりの眩しさに直視できずに、両手で顔面を覆った。

「ちょ……それダメでしょ……」
「なにが? なあ、佐伯も早くいっしょに泳ごう」
「……はいはい」

 げんなりと息を吐いて、苦笑を浮かべる。
 心臓はまだ、変な音を立ててた。



 その日の帰り路。
 空いた電車の座席に二人並んで座りながら。
 佐伯は、疲れて眠ってる瀬田を肩に乗せて、スマートフォンの検索画面を開いた。
 打ち込む文字は――瀬田鯨介。

「検索結果……ゼロ、か」

 てっきり、転校してくる前の場所で大会とか出まくってると思ったのに。
 佐伯はスマートフォンを伏せて、自身の胸に手を当てた。
 あの瞬間からちょっとおかしい心音は、まだそのまま。
 耳たぶが、じわりと熱を帯びる。

「やっべ……」

 呟いて、大きく逸らした頭を車窓につける。枕木を打つ音と、振動に揺すられるまま、そっと目を閉じる。

「俺だけが、知ってんだ」

 瞼の裏は暗闇のはずなのに、その時はなぜか白く光って見えた。