3.
気だるい体育教師が差し出した紙切れ一枚と、全力の土下座と全員分のアイスを奢って借りた友人三人の名前。
そして”もう一つの代償”と引き換えに、瀬田の希望はあっさり叶えられた。
それでも、右手に握った銀色の小さな鍵は、まるで勲章のように思える。
錆びついた鍵穴に鍵を差し込んで回し、重たい扉を開いた。充満するかび臭い匂いに苦笑しながら、奥へと進んだ。
更衣室と、シャワー、深い消毒層を抜けて、プールサイドに出る。
「うーわ、汚ねえ!」
いっそ清々しくて、佐伯は声を上げて笑った。
「これ、入れるようになるにはどれくらいかかるだろ」
「もう入っていいか?」
「ダメです。ねえ、なんで瀬田はそうなの? ガチで魚なの?」
ハァとため息を吐きながら見上げる隣。
瀬田は青の揺れる目を向けて、佐伯の瞳をじっと覗き込んでいた。
冗談なのに。澄んだ青に、否定する色はない。
ゴクン、と。喉が鳴る。
「幼稚園の時」
「え? ん?」
「将来の夢、魚って書いた」
「ああ、そう……」
噛み合っているような、いないような。
佐伯は靴と靴下を脱いで、スラックスの裾をまくり上げた。
水泳部を作るための最後の条件――自分たちでプール掃除をすること。
昨日の雨でより濁ったように見える水面。落ち葉やゴミを取り除くだけで汗だくになった。
「っしゃ、水抜くか」
「抜くのか……」
「抜くよ? いちいち残念そうにしないでくんない? めちゃくちゃ気遣うからね!?」
「すまない」
「いーよ!」
少しずつ下がっていく水面を、並んで眺めた。
瀬田は、距離が近い。今も、肩が微妙に触れる位置にいる。
あごを引いて覗き込む横顔は、減っていく水を本気で残念そうに眺めていた。
「苔とかヤバそう。ブラシで落ちるかな」
「多少残ってても、問題ないだろう」
「んまあなあ……でもあったら気持ち悪くない? 女子とかぜったい嫌がる」
「俺は気にならない」
「だろうよお」
笑い声が、湿った風に溶けて行った。今日も夕立がくるのかもしれない。
まだ青いままの空を見上げて、佐伯はホゥと淡い息を吐く。
――なんでそこまですんの? と、友人の声が不意に頭を過ぎった。
佐伯の性格をよく知る幼馴染の言葉だから余計に刺さる。
(俺のことよく知ってるから、誤魔化せたってのもあるよなあ)
本当の理由は、友人にさえ言えなかった。
(上手く言えないってのもあるんだけど――多分、もう一度こいつの泳ぎを見たら、はっきりする)
見たいような、見たくないような。
でももし見なかったら、ここまでの行動が全部無駄になる。
ブルッとひとつ頭を振って、佐伯はだいぶ水嵩が減った水槽の中へと飛び込んだ。
足首までの高さがある水が、バシャンと跳ねる。
「泳ぐ?」
「んなわけねーっしょ! そこのブラシ取って。泳ぐためにはまず掃除ですっ!」
瀬田は素直にあごを引いて頷いた。プールサイドに置いていたデッキブラシを二本まとめて掴み、水槽に降りてくる。
そこから水が完全になくなるまで、二手に分かれてプールの底を擦った。
水の抜ける鈍い音と、無心でブラシを擦る音。途中、借りてきたホースで水を撒いて汚れを流したりしながら。
汗と飛沫で、制服の白いシャツは肌にピタリと貼り付いていた。
「なんか、こんな時こそ昨日みたいな雨降ってほしい」
「……降るかも」
「え?」
絶え間なく続いていたブラシの音が止む。
振り返って見た瀬田は、真っすぐ空に鼻先を向けていた。
佐伯もつられるように空を見上げる。
太陽が、陰る。
やたらと流れのはやい雲が上空を覆って、ずっと遠くに雷の音が聞こえた。
「マジかよ……」
つぶやきをこぼす間に、暴力的にデカい雫が足元に落ちる。
始まりのひと雫を合図に、自棄を起こしたように空が泣きだした。
バケツの水をひっくり返したように降り出した雨に、一気にずぶ濡れになる。
ホースで撒いた水の何倍もの水量に降られて、佐伯は思わず声を上げて笑っていた。
「恵みの雨だな!」
視界にかかる茶色の髪を両手で掻き上げる。
透明な水が降りしきる視界の中、瞬きをして、見つめた先。
瀬田の周りだけ、音が消えたように感じる。
乱暴に雫が打ち付けるのに、痛そうに見えない。
雨の筋が流れる白い腕に、鱗が浮いていないことが不思議だ――なんて。
見つめている間に、不意にこちらを向いた青と視線が絡む。
青は雨を吸って一層鮮やかさを増して、光っているようにさえ見えた。
「あ……」
思わず、こぼす声。そうしないと、息の仕方を忘れてしまいそうだったから。
瀬田はしばらく佐伯と視線を合わせた後、フッと糸が切れたように倒れた。
両手を広げて、仰向けに。
――バシャン、と。派手な飛沫が弾ける。
「……って、瀬田ァ!?」
どこか深い場所にいっていた思考が急速で引き上げられた。
足元に張った水の膜を蹴って、転びそうになりながら瀬田の元へと駆け寄る。
「瀬田! 大丈夫!? やっぱどっか具合悪かったんじゃ……」
佐伯は病的なほど白い瀬田の頬に手を伸ばした。その手首は、触れる寸前に瀬田の手に捕まえられる。
瀬田の青眼がゆっくりと瞬いて、佐伯を見た。
形の良い唇が、微かに動く。
昨日の記憶と重なる、一瞬。今度は距離のおかげか、ちゃんと声が聞こえた。
「魚になれたらいいのに」
それは、冗談なのか、本気の願いなのか――判断がつかない。
佐伯は聴覚を埋める雨音を聞きながら、スゥとひとつ深呼吸をした。
「魚だったら、こんな浅い水の中じゃ生きられないよ」
パタ、と。鮮やかな青が光る瞳が瞬く。
形の良い唇の端が、柔らかく微笑んだ。
それが、佐伯が初めて目にした、瀬田の笑顔だった。
気だるい体育教師が差し出した紙切れ一枚と、全力の土下座と全員分のアイスを奢って借りた友人三人の名前。
そして”もう一つの代償”と引き換えに、瀬田の希望はあっさり叶えられた。
それでも、右手に握った銀色の小さな鍵は、まるで勲章のように思える。
錆びついた鍵穴に鍵を差し込んで回し、重たい扉を開いた。充満するかび臭い匂いに苦笑しながら、奥へと進んだ。
更衣室と、シャワー、深い消毒層を抜けて、プールサイドに出る。
「うーわ、汚ねえ!」
いっそ清々しくて、佐伯は声を上げて笑った。
「これ、入れるようになるにはどれくらいかかるだろ」
「もう入っていいか?」
「ダメです。ねえ、なんで瀬田はそうなの? ガチで魚なの?」
ハァとため息を吐きながら見上げる隣。
瀬田は青の揺れる目を向けて、佐伯の瞳をじっと覗き込んでいた。
冗談なのに。澄んだ青に、否定する色はない。
ゴクン、と。喉が鳴る。
「幼稚園の時」
「え? ん?」
「将来の夢、魚って書いた」
「ああ、そう……」
噛み合っているような、いないような。
佐伯は靴と靴下を脱いで、スラックスの裾をまくり上げた。
水泳部を作るための最後の条件――自分たちでプール掃除をすること。
昨日の雨でより濁ったように見える水面。落ち葉やゴミを取り除くだけで汗だくになった。
「っしゃ、水抜くか」
「抜くのか……」
「抜くよ? いちいち残念そうにしないでくんない? めちゃくちゃ気遣うからね!?」
「すまない」
「いーよ!」
少しずつ下がっていく水面を、並んで眺めた。
瀬田は、距離が近い。今も、肩が微妙に触れる位置にいる。
あごを引いて覗き込む横顔は、減っていく水を本気で残念そうに眺めていた。
「苔とかヤバそう。ブラシで落ちるかな」
「多少残ってても、問題ないだろう」
「んまあなあ……でもあったら気持ち悪くない? 女子とかぜったい嫌がる」
「俺は気にならない」
「だろうよお」
笑い声が、湿った風に溶けて行った。今日も夕立がくるのかもしれない。
まだ青いままの空を見上げて、佐伯はホゥと淡い息を吐く。
――なんでそこまですんの? と、友人の声が不意に頭を過ぎった。
佐伯の性格をよく知る幼馴染の言葉だから余計に刺さる。
(俺のことよく知ってるから、誤魔化せたってのもあるよなあ)
本当の理由は、友人にさえ言えなかった。
(上手く言えないってのもあるんだけど――多分、もう一度こいつの泳ぎを見たら、はっきりする)
見たいような、見たくないような。
でももし見なかったら、ここまでの行動が全部無駄になる。
ブルッとひとつ頭を振って、佐伯はだいぶ水嵩が減った水槽の中へと飛び込んだ。
足首までの高さがある水が、バシャンと跳ねる。
「泳ぐ?」
「んなわけねーっしょ! そこのブラシ取って。泳ぐためにはまず掃除ですっ!」
瀬田は素直にあごを引いて頷いた。プールサイドに置いていたデッキブラシを二本まとめて掴み、水槽に降りてくる。
そこから水が完全になくなるまで、二手に分かれてプールの底を擦った。
水の抜ける鈍い音と、無心でブラシを擦る音。途中、借りてきたホースで水を撒いて汚れを流したりしながら。
汗と飛沫で、制服の白いシャツは肌にピタリと貼り付いていた。
「なんか、こんな時こそ昨日みたいな雨降ってほしい」
「……降るかも」
「え?」
絶え間なく続いていたブラシの音が止む。
振り返って見た瀬田は、真っすぐ空に鼻先を向けていた。
佐伯もつられるように空を見上げる。
太陽が、陰る。
やたらと流れのはやい雲が上空を覆って、ずっと遠くに雷の音が聞こえた。
「マジかよ……」
つぶやきをこぼす間に、暴力的にデカい雫が足元に落ちる。
始まりのひと雫を合図に、自棄を起こしたように空が泣きだした。
バケツの水をひっくり返したように降り出した雨に、一気にずぶ濡れになる。
ホースで撒いた水の何倍もの水量に降られて、佐伯は思わず声を上げて笑っていた。
「恵みの雨だな!」
視界にかかる茶色の髪を両手で掻き上げる。
透明な水が降りしきる視界の中、瞬きをして、見つめた先。
瀬田の周りだけ、音が消えたように感じる。
乱暴に雫が打ち付けるのに、痛そうに見えない。
雨の筋が流れる白い腕に、鱗が浮いていないことが不思議だ――なんて。
見つめている間に、不意にこちらを向いた青と視線が絡む。
青は雨を吸って一層鮮やかさを増して、光っているようにさえ見えた。
「あ……」
思わず、こぼす声。そうしないと、息の仕方を忘れてしまいそうだったから。
瀬田はしばらく佐伯と視線を合わせた後、フッと糸が切れたように倒れた。
両手を広げて、仰向けに。
――バシャン、と。派手な飛沫が弾ける。
「……って、瀬田ァ!?」
どこか深い場所にいっていた思考が急速で引き上げられた。
足元に張った水の膜を蹴って、転びそうになりながら瀬田の元へと駆け寄る。
「瀬田! 大丈夫!? やっぱどっか具合悪かったんじゃ……」
佐伯は病的なほど白い瀬田の頬に手を伸ばした。その手首は、触れる寸前に瀬田の手に捕まえられる。
瀬田の青眼がゆっくりと瞬いて、佐伯を見た。
形の良い唇が、微かに動く。
昨日の記憶と重なる、一瞬。今度は距離のおかげか、ちゃんと声が聞こえた。
「魚になれたらいいのに」
それは、冗談なのか、本気の願いなのか――判断がつかない。
佐伯は聴覚を埋める雨音を聞きながら、スゥとひとつ深呼吸をした。
「魚だったら、こんな浅い水の中じゃ生きられないよ」
パタ、と。鮮やかな青が光る瞳が瞬く。
形の良い唇の端が、柔らかく微笑んだ。
それが、佐伯が初めて目にした、瀬田の笑顔だった。

