水たまりの魚

2.

 夕立が洗い流した空は、晴れやかな顔で鬱陶しい日差しを振りまている。
 エアコンの風を受けてひやりと冷たい机に頬をつけていた佐伯は、「転校生」として教壇の横に立った青年を見て反射的に飛び起きた。

「あ……っ」

 ガタン、と。静寂の教室を揺らす音。
 佐伯は苦笑いをして、教師に先を促す手を差し出しつつ、元の姿勢に戻る。

「瀬田《せた》鯨介《けいすけ》。一学期も終わりかけのこの時期だが、家庭の都合で編入することになったそうだ。皆、仲良くするように」

 お決まりの定型文を添えた教師の紹介。瀬田は唇を引き結んだままで頭を下げて、机の間を真っすぐに進んでくる。
 横を通り過ぎる一瞬、佐伯は瀬田の瞳を覗き込んだ。
 瞳の色は、ごく普通の黒にしか見えない。
 瀬田は、佐伯のひとつ後ろにあった空席に座った。

「なに、知り合いなん?」

 隣の席に座る幼馴染の相田真也が声も、落とさずに聞いてくる。
 佐伯は「しっ」と低く言ってから、小声で返した。

「知り合いじゃないよ。ただその、昨日の」
「ああ、例の”魚くん”か」
「しーっ!」

 結局教師から叱責を受けたのは相田ではなく佐伯だった。
 不満に頬を膨らませる佐伯に対して、相田は悪びれる様子もなく教科書で顔に風を送っている。

「元気そうじゃん。お前も、あいつも。あんなずぶ濡れになってよく風邪引かねえな」
「バカだって言いたいの?」
「お前はともかく、初対面のやつにバカとは言わんよ」
「俺にも言うなっつの」

 相田との会話を切って、佐伯は肩越しに後ろを振り返った。
 瀬田は、こちらを気にしていない。話も聞こえていない様子で、ぼんやり窓の外を見ている。
 空調の風が揺らす前髪。陽光を反射しても、色は変わらない。

(あの時はどうして、青く見えたんだろう)

 疑問を思いながら、正面を向いた。
 ずっと空席だった場所に人がいるせいか、背中がむず痒い気がする。
 その違和感がずっと付きまとったまま、授業と放課後を区切るチャイムを聞く。

――その衝撃は、タイミングを見計らったように、背中の中心を突いてきた。

「なあ」

 突き立てられた指が、背中にめり込む。
 想像よりも深くて甘い低音だった。佐伯はハンズアップしかけた手を止めて、肩越しに背後を振り返る。

「あんた、泳ぐ人?」
「……は?」

 限りなく低速で回る思考。
 周囲のザワついた気配が、ひとつ、またひとつと消えて行った。
 友人たちの呼ぶ声にも曖昧な返事を繰り返す内に、飽きられて先に行かれてしまったようで。
 いつしか教室の中は佐伯と瀬田の二人だけになっていた。

 答えに詰まったままの数分間。
 いくら考えても答えは「NO」なのだが、胸の奥で危険信号が点る。

「それは、えっと……水泳部かってこと?」

 質問に質問を重ねて返答を回避した――つもりだった。
 佐伯は思わず、ゴクリと息を呑む。
 瀬田の瞳が、青に染まっていた。

「水泳部、あるの?」

 あの時と同じ。豪雨の中でもはっきりと浮き立って見えた色彩。
 トプンと揺れる水面のように、生きた青だ。
 生まれた色彩が消えないように、守るのが得策だと思う。
 思う、けど。
 佐伯はそっと、息継ぎをする。数秒後の未来を予知しながらも、嘘はつけない。

「ごめん……ない、よ」

 スゥ、と。暗く沈んでいく瞳の色。当然、あの不思議な青も消える。

「ない、か」
「うん……昨日のプール見ただろ? 授業の時しか使わないから、いつもあんな感じ。もうすぐ掃除とかするんだろうけどさ、今がいちばん汚いかも」
「通りで。口の中じゃりじゃりした」
「ねえ、だからダメって言ったよね!? 腹壊してないの奇跡だよ!?」

 身を乗り出して突っ込むと、切れ長の瞳が驚いたように丸く見開いた。
 佐伯は「ごめん」と謝って、浮かせた腰を元に戻す。

「……なんで昨日、あんなとこで勝手に泳いだの?」

 パタタと瞬きする瞳。まるで質問の意味が分かってないとでも言いたげなリアクションだった。
 形の良い唇が、わずかに隙間を開く。何を言いかけて、閉じてしまう。
 黒い瞳の奥で、水面のように揺れる光がわずかに残ってる。
 不思議な変化を見つめて、佐伯は口を開いた。

「えっと……もしかして、泳ぎたい?」

 光が、揺れる。その奥であの青が見え隠れしている。
 スゥと息を吸い込んだ唇を結んで、瀬田は大きく頷いた。

「うん」

 瞳の色が、また青く染まった。
 心臓が、音を立てて跳ね上がる。
 この青を消したらいけない。

「泳ぐの、好きなの?」
「うん。泳いでないと、たぶん死ぬ」
「え、ヤバ」

 反射で返してしまった言葉を慌てて呑み込んだ。青がまた、沈んでしまう。
 言いたいことはそうじゃない。

「でも、なんか分かる。瀬田ってなんか、そんな感じする」

 青は、消えなかった。
 それどころか一段鮮やかさを増して、眩しそうに細められる。
 心臓がうるさい。目の錯覚かもしれない指標なのに、失くしたくないという思いばかりが勝手に募った。

「……作れる、かも」
「え?」

 その答えは、たぶん花丸大正解。
 とはいえ、面倒なことになる予感はしていた。
 それでも、差し出してしまったもの(希望)を引っ込めてしまうわけにもいかない。
 佐伯は無理に笑って、椅子から立ち上がった。

「先生に聞きに行こう。水泳部――作れるかもしれないから」
「うん!」

 誰にも懐かない野生の生き物が、自分だけに甘えた時の気持ちを想像してほしい。

(猫とかなら可愛いけど、こいつはやっぱり、魚だ)

 急に生き生きとしだした呼吸音。
 佐伯は苦笑して、スクールバッグを肩に掛けた。