水たまりの魚

12.

 電車を乗り継ぎ、最寄りの駅からはタクシーを使って、山を切り開いて作られた合宿所にたどり着く。

「はー……でっけー……」

 自身でデジャブを覚えるリアクションをつぶやいて、佐伯は受付で事情を話し、敷地内に足を踏み入れる。
 土と緑の匂い、機械の重低音と、嗅ぎなれた塩素の匂い。
 疎らに見える人影は誰もが関係者然としていて、制服姿で挙動不審な佐伯はどうしても浮いていた。
 不安を少しでも押し殺すために荷物を体の前で抱きかかえて、周りを窺いながら施設の周辺をうろつく。

「たぶん、今日の記録会で最後だろ、あいつ」
「ああ、瀬田?」

 施設から出てきた選手らしき人の会話が聞こえた。佐伯は身を屈めて隠れながら、彼らの声が聞こえる位置まで移動する。

「そもそもなんで呼ばれたのかわかんねえよな。高校も聞いたことない名前だし、実績だってないんだろ?」
「んでも、新人大会での泳ぎヤバかったんだってさ。準決まではぶっちぎり」
「結果は?」
「三位らしいけど」
「なんで決勝でコケてんだよ、ダメじゃん」
「決勝でコケてても呼ばれてんだからすげーだろ? しかも本人は辞退しようとしてたとか言うし」
「はー、それマジかよ?」
「一時の調子だけで呼ばれた自称天才くんなんじゃねーの? レベルについていけなくて怖気づいたんだろうよ」
「じゃあもう帰った方が幸せだろ。記録会何時だっけ?」
「ん? 一時とかじゃね?」

 彼らは「腹減った―」と叫びながら別の施設に移っていった。
 佐伯は自身の腕時計を覗き込む。時刻はもうすぐ十二時になろうとするところだった。

(あと、一時間か……)

 植込みの隙間に座り込んで、広い空を見上げた。
 高校のある街も田舎だとは思うけれども、ここよりかは空が狭い。
 そっと、息を吸ってみる。冷たくて、仄かに甘い、澄んだ空気。

 けれども、内側まで素直に染みてこない。
 瀬田と最後に会った日からずっと、つかえたように息が上手くできなかった。

(たぶん、瀬田はもっとだ)

 発作とか、ひどいことになっていなければいい。
 さすがにそうなっていたら学校に連絡がいくだろうし、萩原も青くなるぐらいじゃ済まないだろう。

 思考を巡らせるうちに、にわかに周囲の空気がザワつき始める。
 続々と施設に入っていく人群れ。
 植木から顔を覗かせ窺う中に、瀬田の姿を見つけた。
 最後に会った時よりもやつれて、肌の白さが際立っている。
 開いたままの唇から、浅い呼吸が漏れていた。

(瀬田……息出来てない)

 掌を強く握り締めて立ち上がり、建物の影に移動する。
 佐伯は、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
 受付で事情を話していた時に盗み見たWi-Fiのパスワードは入力済み。
 電波はある。
 合宿中は見られないだろうと思って、メッセージを送ることもしていなかった。
 けれども今なら、届く気がする。

――見に来た。

 たった四文字のメッセージを送信すると、瀬田がピタリと動きを止めた。施設の入口に立ち、自身のスマートフォンを見つめている。
 暗く沈んでいた瞳が、微かに光った。
 鮮やかな変化に、息を呑む。

――ソラのこと、すげー好きなんだろうなって

 不意に、相田の言葉が思い出される。そう思って見ると、耳底がむず痒くなった。

(もしも俺に、そんな力があるなら)
(助けたいよ、瀬田)

 人の出入りが落ち着いたところで、佐伯は施設の入口に向かった。
 自然光と、強い照明が照らす競技用のプール。真っすぐに伸びるレーンは八本。水底の鮮やかな青が、眩しいほどに光る。
 入口付近にごった返す人は、手に資料を持っていたり、カメラを持ち込んだりしている。
 佐伯はジャケットを脱いでネクタイを外し、できるだけ紛れ込める服装になってから、人の隙間に身体をねじ込んだ。

 名前を呼ばれた選手がそれぞれのレーンの前に立つ。
 最後に呼ばれた瀬田は、コーチらしき人からなにか言葉を掛けられていた。
 瀬田は、強い眼差しを返していた。

 羽織っていたジャージを脱いで、選手が飛び込み台の上に上がる。プールサイドにいるのは合宿に参加している生徒たちらしく、気楽に声をかけあったりしていた。
 佐伯は、喉に何度も唾を通した。
 深い場所まで、届くように。

 高い電子音が鳴る。
 静寂が包み込み、静止する水面が沈黙のまま、飛び込んでくる選手たちを待ち受ける。

 合図の音で一斉に指先を揃える選手たち。
 二回目の高い電子音で、風を切る音が同時に立った。

 着水の音、長い沈黙のあとで、次々と選手が水面に頭を出す。

 歓声が、沈黙を破った。

 声を揃えた応援。名前を呼ぶ声。雑多に飛び交うそれらを捕まえながら、佐伯は大きく息を吸い込んだ。
 一番端のレーン。何位なのか、順位は分からない。
 それでも、あの白い腕が力強く水を掻けるように。

「瀬田ぁぁぁぁぁ!! いっけぇぇぇぇぇ――!!」

 外光が注ぐガラスの天井を突き抜けるんじゃないかと思うほどに遠く、大きく。空気をビリビリと震わせ響く声。
 声を聞いた数人が何事かと振り返る。佐伯はサッとその場にしゃがんで、身を縮こまらせた。

「瀬田?」
「いま、瀬田って言ったよな……?」
「うぇ、瀬田、やっば……!」

 小さな呟きが、大きなどよめきに育っていく。
 人群れの中を抜け出した佐伯は最後まで見ることが叶わなかったけれども、声を聞けば結果は明らかだった。

「後半の伸び、なんだあれ……」
「どこにあんな力隠してたんだよ、あいつ」

 誇らしくて、笑っていた。
 声が漏れないように、両手で口を塞いで肩を震わせる。
 心臓が暴れている。首から上が熱くて、腹の底から叫ぶように、息を吐いた。

「――瀬田」

 押し込めた想いを込めて、つぶやいて。
 ひとり、ピースサインを掲げる。
 バッグにしまったジャケットのポケットで、スマートフォンが静かに震えていた。