水たまりの魚

11.

 決勝戦の直前以来、あの不思議な青を見ていない。
 校庭の隅にある、一時期息を吹き返したプールは、元の水たまりに戻りつつあった。
 夏休みが明けて、新学期が始まった。けれども、佐伯の後ろの席は空いたまま。
 本人がいないのに。
 それまで空気のように過ごしていた瀬田の名前だけが、日に日に存在感を増していた。

「すごいね、瀬田くん。日本代表候補だって」
「え、やば。プールにサインとか残ってないかな?」
「なにそれ」

 通り過ぎる声を聞くともなしに聞いて、佐伯はそっと息を吐いた。
 不意に、肩に重さが乗る。
 一瞬、包み込む腕の感触を連想にしそうになって、ブルッと頭を振った。

「おっふ、危ねえな」
「あ、ごめん……真也」

 謝罪の意味を込めて、絡みついてきた腕を握る。

「顔死んでんぞ?」
「ね。もしかしたら俺も、魚だったのかもしんない」
「……もし魚くんが本当に魚だったら、この活躍はズルだな」
「あはは、なるほどお」

 相田に押されて、体の軸が簡単にブレる。フラフラする足元を支えようとする間に、相田は体重を掛けるのをやめていた。

「で、何見てんだ?」

 何気ない問いのはずなのに、鼻の奥を突かれたみたいな痺れが走った。
 佐伯は大きく溜息を吐いて、目の前の壁に手を伸ばす。
 部活動の成績が貼り出される掲示ボード。その面積のほとんどを、瀬田の記事が埋めていた。
 中心に映っているものはほとんどなくて、どれも端っこに写っているものばかり。
 それでも無名の学校にとっては栄誉には違いない。

 佐伯の指が触れた先にあるのは、唯一瀬田が単独で写っている写真。
 次世代の注目選手として紹介された記事で、モノクロで目立たないせいか、他の記事が重ねて貼られている。
 佐伯は、黒く印刷された瀬田の瞳にそっと触れた。

「え、目つぶし?」
「なんでだよ。……違くてさ。瀬田の目、いま何色なのかなって」
「ああ……」

 相槌を打ったきり、相田はじっと黙り込む。佐伯も少しずつ息を吐いて、記事からそっと、指を離した。

「たしかに、お前といるときなんか、すげー綺麗な目してたかも」
「真也も見た? すごい綺麗な青」

 脳裡にあの青を思い浮かべて、ふっと微笑む。
 けれども、視線を向けた先の相田は真顔でいた。

「いや、んなわけねーだろ。あいつ日本人だろ?」
「んもう……じゃあどこが綺麗って思ったわけ?」
「色とかじゃねーよ。なんか、すごいキラキラしてるっていうか……ソラのこと、すげー好きなんだろうなって思ったけど」
「……俺じゃないでしょ」
「ふーん?」

 当然のように返した、つもりなのに。
 自分の中でどこか引っかかる。
 瀬田が好きなのは、水だ。泳げなきゃ死ぬって言ってたし、実際水の中にいる瀬田は何より楽しそうで。
 その視線の先には、いつも――

「ん? ……え、あれ?」
「なんだよ」
「え、俺じゃない……よね?」

 最後の鮮やかな青も、自分の求める場所で思いっきり泳げたからであって、佐伯の存在は関係ないはず。
 なのに、いくつもの言葉が頭を巡る。

――名前呼んで。佐伯の声聞こえると、すごく力が出るから
――佐伯のすごさ、見せてやりたい
――佐伯がいなきゃ、俺は息できない

「あれ……え……?」

 相田の視線が、無言のままで何かを言っている。
 佐伯はゴクンと喉を鳴らして、震える指で自身を指さした。

「俺か……!?」
「そうだって言ってんだろが、バカか?」
「嘘おおお……」

 両手を顔面に押し付けて、蹲る。
 心臓が狂ったように内側を叩いた。耳の輪郭まで真っ赤に染まっているのが分かるほど、燃えるように熱い。
 じゃあ、あの時も、青が消えたのは――

「魚くんさ、今すげー不調なんだって」
「え……?」

 瞬きをして、佐伯は相田を見上げた。
 相田は壁を埋める記事を眺めながら、短く息を吐く。

「この強化合宿もさ、スカウトがきたってのもあるけど、萩センが水泳部のためだっつって、瀬田に頼み込んで行かせたんだよ」
「は、え?」
「魚くん絶不調のまんまだから、萩セン、いま真っ青だぜ」
「は? なにそれ俺聞いてないけど!? 萩センなにやってんの!?」

 両手を解いて立ち上がった佐伯は、相田の肩に捕まって揺さぶる。
 得意げな笑みを浮かべた間は、額の横でピースサインを作る。

「萩セン締め上げて聞き出した俺、超優秀」
「本っ当にそれ! 真也すごい、えらい!」
「ははは、褒めろ褒めろ。しかも、結果出せなきゃ、参加費は学校から出せないんだとさ」
「はあ? 瀬田の自腹になるってこと!? 許せないんだが!?」

 相田は肩を揺する佐伯の手首を掴んで、下に降ろさせた。
 両方の手首を拘束したまま、相田は悪い笑みを浮かべた。

「さて、憐れなプリンセスは囚われの身なわけだ。助け出すには、結果を出すしかない。お前の助けがいるんじゃねーの? ――王子様」

 相田の例えで、ピンと来た。
 いつもとは違う形で、危険信号が点る。
 指先まで熱く熱が通う。
 やけに温度の高い息を吐いて、佐伯は口角を上げた。

「ナイト佐伯、行っちゃいますか!」
「見た目的には明らかにお前が姫だけどな」
「ちょっと、ねえ。ビシッと決めさせてよ、ここは!」