水たまりの魚

10.

 準決勝も、瀬田は一位で通過した。
 佐伯は、その試合を見ていなかった。

 瀬田と離れたところでスカウトマンから声をかけられて、対応に追われていたせいだった。
 萩原に連絡をとって窓口になってもらい、声をかけてきた人に連絡先を渡して。

 一息ついたところで、再び戻ってきた瀬田に捕まった。
 後ろから抱きしめてくる濡れた腕。一般通路にポタポタと落ちる水滴ばかりが気になる。

「声、聞こえなかった」

 耳の後ろに、吐息と一緒に声が触れる。いつもの、瀬田が甘えるときの声音。

「ごめん、ちょっと呼ばれてて。でも、ちゃんと決勝残ったでしょ?」
「もう一回、水の中で佐伯の声が聞きたい。そのためには、ここで負けたらダメだから」
「すげー下心じゃん。もー真面目にやってよ」
「佐伯」

 グリッ、とすり寄る鼻先。佐伯はそっと、息を詰めた。
 身体の前で結ばれた手を、柔く解く。

「佐伯?」

 俯いた頭頂部に、降ってくる声。
 佐伯はひとつ深呼吸して、顔を上げた。

「次は、ちゃんと見てるから」
「呼んでよ」
「んでも、もう目標は達成したんだし、楽しんできな」

 瀬田の青眼が揺れる。
 不意に、心臓が冷えた。握ったままの指先が硬くなるのが、伝わらなければいいと願う。
 願うのに、瀬田は指を強く握り込んできた。

「佐伯のすごさ、見せてやりたい」

 一瞬、思考が止まる。
 瀬田の言葉を脳内でなぞって、佐伯はフハッと噴き出していた。

「ちょ、おかしいからそれ。すごいのはどう考えても瀬田のほうだよ」
「佐伯がいなきゃ、俺は息できない」
「……大丈夫だよ」

 指先を握り返して、解いた。

「俺、飲み物買ってくんね! 肩冷やさないようにしときなっ」

 走って、瀬田の傍を離れる。円形の通路をぐるりと回って、瀬田の姿が見えない場所で息をついた。
 瀬田の瞳は、まだ鮮やかな青が揺れていた。さっきよりも強い光だった。
 決勝戦で勝てば、きっともっと強くなる。

「もう……俺がいなくても」

(むしろ、俺から離れた方が――)

 壁に背中をつけて、天井を仰いだ。
 ここは水の中じゃない。清潔な空気が満ちる、広い空間。
 視界の端を通り過ぎていく人も、談笑しあったり、リラックスしたり、みんな普通に呼吸している。

(なのに、なんだろう)

 喉が(つか)えて、上手く呼吸ができなかった。

(でも、別に。俺が息できないところで、なんの支障もないでしょ)

 湧いてきた自虐的な思考に、力のない笑いがこぼれた。
 佐伯は肩を落として苦しい息を吐き、自動販売機に向かった。



 決勝戦が始まる、と、アナウンスが響く。
 プールサイドに瀬田が姿を現して、名前を呼ばれて手を挙げた。
 瀬田を知るのは佐伯だけのはずなのに、拍手や、瀬田の名前を呼ぶ声が飛ぶ。

 佐伯は、予選の時と同じ位置に立っていた。
 銀色の柵を握り締めて、真っすぐに瀬田を見下ろす。

 ゴーグルの青いレンズの内側、切れ長の瞳と目が合った。
 ゴーグルに隠されていても、不思議な色の瞳は透けて見えるようだった。

 佐伯はスゥと、息を吸い込む。
 腹の中に溜めた空気は、弱々しく抜けて行った。

 瀬田が、そっと眉根を寄せるのが見える。
 もう一度動かしかけた唇の隙間を閉じて、佐伯は、瀬田から目を逸らした。

 スタンバイを告げる声。一瞬、会場がザワついた。
 何事かと思って、反射的に視線を戻す。一瞬、目が合った瀬田の瞳が――黒い。

「あ……」

 声をこぼす間に、瀬田が飛び込み台に指先を付けた。会場内に安堵の空気が伝わっていく。
 高い電子音が空気を震わせて、歓声が弾けた。
 会場全体が揺れるほどの声援を聞きながら、佐伯はただ茫然と、瀬田の泳ぎを見下ろしていた。
 これまでの勢いが消えた泳ぎを。

――それでも瀬田は三位入賞を果たして、大会を終えた。