水たまりの魚


 アスファルトにひとつ、落ちる黒い染み。疎らなドット模様は見る間に隙間を埋められて、一面同じ色になる。
 歪な地面にいくつも生まれる水たまり。打ち付ける雨粒は黒い水面の上を踊るように跳ねて、飛沫を散らした。

「雨、やっべーな」

 語彙力ゼロの感想を聞くともなしに聞き流して、佐伯(さえき)空太(そらた)は校庭の奥へと視線を投げた。
 そこには、ひと際大きな水溜まりがある。

(水溜まりではないけど――水溜まりって呼ぶ方が、合ってる)

 その水は、いつも重く濁っていた。

「ソラ、行かねえの?」
「んー……ちょっと」
「先行くぞー」
「うん――……ん?」

 窓ガラスに叩きつける雨水は、ほとんど滝のよう。
 歪んだ膜の向こうに、人影が見える。
 この豪雨の中で外にいるというのもおかしいが、問題はそこではない。
 人影は、重く濁った水たまりのすぐ側――プールサイドに立っている。

「んん? あ? え、えぇ……?」

 佐伯は頬がめり込むほど強く窓ガラスに貼り付いた。
 目を凝らして見つめる彼は、雨に濡れることなどなんとも思ってないようだった。

(なんだろう……なんだろう、あれ)

 心臓が、妙な音を立てて暴れ出す。血流が巡っているはずなのに、指先が固く冷えていく。
 得体の知れない何かが、いる。

 頭の端で危険信号が点る――止めなきゃ。

 佐伯は、ガラスに手をつき反動で身体を引き剥した。
 持っていた教科書を放り出し、湿気の乗った床を蹴って階段を駆け下りる。

 耳には不格好な足音と雨音のノイズ。自身の必死な息遣い。最後の階段を三段飛ばしで跳び下りて、膝を折り曲げ着地する。
 止めなきゃ、止めなきゃ、止めなきゃ。
 昔から、他人が発する危険信号を無視できない(たち)だった。

 大して丈夫でもデカくもない体型も、強くもない腕力も、速くもない脚も全部度外視して走ってしまう。
 プールの入口まできた佐伯は、当たり前に鍵がかかったドアを確認してからプールサイドの方へ回り込んだ。
 助走をつけて、なんとか錆びたフェンスの凹凸を掴む。

「ふ、ぐぅ……ぬぬっ」

 なけなしの筋力を総動員して引き上げる身体。なんとか足を引っ掻けて、フェンスをよじ登り体勢を安定させた。
 額からとめどなく流れる雫。制服のワイシャツは肌と区別をなくすほどピタリと貼りついて気持ちが悪い。
 呼吸のたびに口の中に雨が流れ込んでくる。構わずに何度も呑み込んだせいか、腹の内側が冷えていた。

 佐伯は瞬きを繰り返して、プールサイドに視線を巡らせる。その人はまだ――そこにいた。
 打ち付ける雨で冷えたのか、病的に白い横顔。肌に貼り付く黒髪は、角度によって青く見える不思議な色をしていた。

 暗い水面を見つめる瞳が、一瞬、青く光る。
 佐伯は、息を止めた。
 その瞬間。
 制服姿の青年が――跳んだ。

「――……っ」

 喉が塞がれたように、声が出ない。閉じるのを忘れた口の中に容赦なく雨が入り込む。けれども、それにさえも構っていられなかった。
 まるで、水に飲まれるように、青年の身体は水面に吸い込まれた。
 浮上するまでの時間は数秒。水面を割り、白い腕が水を掻く。
 水圧も、打ち付ける雨水も、何もかも無視して。
 彼はただ、水の中を進んでいた。
 あっという間に向こう岸までたどり着く。壁を蹴る二本足。尾ひれじゃないのが不思議だ、なんて、非現実的な思考に混乱した。
 あんなのは、だって――

「魚じゃん……」

 ポツリ、と。呟いた声は雨音に塗り潰されて消された。
 バシャン、と。水音がした。
 青年が水面に顔を出す。
 青い眼が、一瞬だけ佐伯を捉えた。

 白く長い指が、額に貼り付く黒青の髪をゆっくりと掻き上げる。白い肌の中で存在を主張する青い瞳。
 その中に、トプンと揺れる水面が見えた。
 雨音が、沈黙を埋める。泥水のような水面に立っていた波が、凪いでいく。
 青年の唇が微かに動いた。何を言ったようだけれども、当然のように聞こえない。
 佐伯は下唇を軽く噛んで、ゴクンと喉を鳴らした。

「なにしてんの! こんなとこで泳いだら腹壊すし、風邪引くからぁ!」

 こちらからの声は、届いたようだった。青年は初めて気づいた、とでもいうように不思議そうな顔で周囲を見回す。
 肩に、腐った落ち葉が貼り付いている。

「いま、そっち行くから! 待ってて……!」

 叫んで、腕を伸ばして、フェンスを掴んだ。気合で天辺まで昇りきり、飛び越えてすぐさま顔を上げる。

――けれども、プールには誰もいなかった。

 余韻のような揺れを残す黒い水面と、不自然に揺れる反対側のフェンス。

「え……逃げ、た?」

 間抜けなつぶやきを押し流して。
 雨音が、エンドロールのように耳底に溢れた。