名前を呼ばない放送室

「おはよう」
 待ち合わせ場所に来た柏木は、夏休みなので当然だけど、制服姿でも、部活の練習着じゃなかった。淡いベージュのシャツに、細身の黒いパンツを合わせている。靴も真っ白なスニーカーで、変に気合が入っているわけじゃないのに妙に決まっている。こういうのって似合う人間とそうじゃない人間がいるんだよなと思いながら、似合う方である柏木を見る。でも、変に背伸びした感じがしないのは前に本屋で会った時と同じだ。
 最初に寄ったのは本屋。借りた本の続きを探したいと言うと、柏木は作家の他の作品を一緒に見てくれた。逆にオススメを聞かれたので、作者買いしている作家をいくつか教えて、貸すことを約束した。
「あ、これ気になってるけどまだ文庫になってないんだよね。読んだら泣きそうだけど」
「俺図書室で読んで借りて読んだよ。面白かった」
「マジで? 俺も図書室行ってみようかな」
「新刊落ちしてたから、今なら借りやすいと思うよ」
「いいこと聞いた」
 本屋を出て、次に寄ったのは服屋だった。柏木は迷わず店の奥に向かっていく。俺はそろそろ新しいシャツが欲しいなとシャツの並びの前で足を止めた。
「……榎本ってこういう色着るんだ。もっと落ち着いた色選ぶかと思ってた」
 自分のを見終わったらしい柏木が好奇心たっぷりに俺の手元を見ている。少し恥ずかしい。
「放送部、暗色多いから私服くらい明るくしたいんだよ」
「俺はユニが真っ白だから逆かも」
「あれ逆に人選ぶよな」
「これとこれ、どっちがいいと思う?」と聞いてみたけど、柏木の反応を見るより先に俺は自分の好きな方を選んでいた。聞いてる意味あったかなと思いつつ、まあいいかと流す。
「スニーカーも見る?」
「いや、いいよ。俺28cm以上あるから、大体決まったとこで買うんだよね。気になってもサイズがないこと多くて、ぐぬぬってなる」
「28……以上かぁ。俺は27だ」
「27なら困んないんじゃない?」
「逆に同じサイズ帯多いからか、売り切れてることも多いよ」
「あ〜そういうのもあるかぁ」
 そんな他愛ないことを喋りながら回る買い物はとても楽しい。買い物って一人か家族で来るから、同世代の男と回るの、普通に楽しい。
 ……いや、柏木とだから楽しいんだろうな。
 失礼ながら、例えば他のバスケ部メンバーと買い物行っても、多分俺も向こうも楽しくない。
 柏木は本を見ても靴を見ても、適当に返事をするんじゃなくて、ちゃんと理由を付けて返してくれる。話題が途切れても気まずくならないし、沈黙も全く苦じゃない。
「……」
「榎本どうかした?」
「ううん、何でも。そろそろ飯食う?」
「そうだね。混むから早めに行こっか」
 昼は駅前のうどん屋に入った。流石運動部。俺が二玉と天ぷらを頼む隣で三玉に天ぷらといなりも取っている。
 ふたりとも席に着いて、麺を啜り始めたところで、俺はなんとなく聞いてみた。
「合宿とか練習試合どうだったの?」
「合宿は普通にしんどかった。三日間バスケ飯風呂寝るの繰り返しで、自由時間も結構みんなヘバッてたなぁ。やっぱスタミナが課題かも」
「練習試合は?」
「二勝一敗。勝った方は調子よかったけど、負けたやつは最後の方ディフェンスがガタガタで、キャプテンがめちゃ怒ってた」
 言いながら、麺をずるっと啜る。話している間も、表情の変化が大きくて分かりやすい。
「キャプテンって、E組のガタイのいい……」
「そう。いかにもなスポ根タイプ。だから俺がバランス取る感じで副キャプって顧問が」
「いい差配だ」
「榎本こそ、アナウンスで出てたっていうNコンってどういうの?」
「えー」
「あの時めっちゃ気になったのに、聴くタイミング逃したからさ」
 心なしか身を乗り出してきている。逃げる気はないけど、これは逃がさないぞという圧をまっすぐ向けられて、思わず一歩引きたくなった。
「アナウンス部門は、原稿のテーマが決まっててさ。『自分の学校とか地域の、最新のニュース』を、自分で取材して書くの」
「自分で取材って、記者みたいな?」
「そんな感じ。校内放送で流す前提の文章だから、コーナーでやってることと近いっちゃ近いんだけど、ニュースとして正確に伝える部分が強く求められる。だから感覚は結構違うかな」
「なるほど」
「読み方が評価対象だし、噛んだら減点、感情込めすぎても駄目、込めなさすぎても駄目でなかなか難しい。でも全国レベルはすごくて勉強になったよ」
「え、聴きたい。総文祭みたいに動画とかないの?」
「さすがに選考落ちだし映像とか何もないよ」
「そっか……」
 あからさまにテンションが下がったのが分かった。麺を咀嚼する速度まで落ちている。背は俺よりずっと高いのに、肩が落ちると変に小さく見えるのがおかしい。
「そんな分かりやすく落ち込まないでよ」
「落ち込んでない」
「なんかでかい犬がしゅんとしてる時みたいになってる」
「それどういう感想だよ」
 不満そうに返してきたけど、声がいつもより低くて、まだ拗ねているのが丸わかりだった。
「今日はありがと」
「こちらこそ。めっちゃ楽しかった! ……よかったらまた空いた時遊ばない?」
「もちろん」
「やった」
 駅前で別れて数歩歩いてから振り返ると、柏木も同じタイミングで振り返っていた。目が合うと、照れたように軽く手を振る。その仕草がおかしくて、思わず笑ってしまった。
 翌日、放送室に顔を出すと、立花がパソコンの前で作業していた。何となく前日のことを話したくなって、椅子に座りながら切り出す。
「柏木がNコンの映像見たいって言ってきかなくて。落選してるから何もないって言ったら、めちゃくちゃ分かりやすく落ち込んでた」
「へぇ、柏木君、紬の放送好きで聴いてるって言ってたって半信半疑だったけどマジだったんだね。ふーん……」
 立花はそう言ったきり、少しだけ考え込むように画面を見た。
「……あ、そうだ」
 立花は何か思いついたような顔で、パソコンの方に向き直る。マウスをクリックする音が続いて、画面の中で何かのフォルダを探しているようだった。それ以上は教えてくれないまま、「ちょっと用事あるから」と言って席を立ち、放送室を出て行った。
 何のことだか分からないまま、俺は原稿チェックに戻った。
 翌日部活の時間より早めに放送室に向かうと、もう既に誰かいるようだった。立花が誰かと話している。こそこそ覗くと立花の前に柏木が立っていて、画面を指差しながら何か言っている。何の話だろうと思って、
「……何してんの」
 立花がにっこり笑いながら端末を操作する音がして、気づけば画面にNコンの予選映像が表示されている。慌てて止めようとしたところに、柏木が画面を覗き込んでしまった。
「――うわ、何見せてんだ! ちょ、これそういうやつじゃないから!」
 止めるのが遅かった。柏木は画面の中の俺のアナウンスを、目を逸らさずじっと見ている。
「いいでしょ別に。奈々が撮ってくれてたやつだよ。提出用じゃないし、部内で見る用」
「小宮……! は悪くないな。お前が悪い」
「誰がお前だ」
「いった! 練習用だから恥ずかしいんだって」
「……すごい」
「何が」
「昼休みに聴いてる声なのに、全然違って聞こえる」
 柏木は画面から目を離さない。普段は穏やかな目が、何か面白いものを見つけた子どもみたいに少しだけ輝いて見えた。昼休みに放送を聴いている時も、こんな顔をしていたんだろうか。
 そんなに真面目に見なくてもいいのに。「マジでファンじゃん」と小さく零した立花は置いておいて、柏木は照れたように笑うだけで否定しなかった。
 否定しないんだ。それに気づくと途端に照れくさくなる。
「……俺だけズルいなぁ。柏木は俺の大会見たのに、俺は柏木の試合見たことない」
「あー……う、ごめん」
 誤魔化すようにそう責めれば、柏木は謝りながらもまた分かりやすく肩を落としていた。「またそれか」と思わず笑ってしまう。
「秋の大会、見に行ってもいい?」
「え?」
「応援っていうか、普通に見てみたいんだよな」
 言った瞬間、柏木の表情がふっと固まった。一瞬何か言葉を探しているような間があって、視線がわずかに逸れる。耳の辺りが少し赤くなっている気がしたけど、見間違いかもしれない。
「……あ、うん。別に、いつでも見に来てくれていいけど」
 さっきまでの分かりやすい落ち込み方とは違う、何だかぎこちない。柏木にしては珍しく、言葉の途中で詰まったような言い方だ。何だろう。さっきまでしゅんとしていた時とも違う、少しだけ落ち着かない様子だった。
 校門で別れたあと、俺はそのまま家へ帰ろうとして足を止めた。そういえば返してしまったんだった、と柏木に借りていた文庫本をもう一度読み返したくなって、帰り道の本屋へ寄った。平積みにはもうなかったけれど、棚には一冊だけ残っていた。
 夏休みの宿題、最後まで残っていたのが読書感想文だった。柏木に貸してもらった本のうちの一冊に決めて自分でも買った。もう一度読んでいる間、登場人物の汗の匂いや体育館の音が、柏木の練習風景と重なって浮かんできた。負けて泣く三年生、それでも切り替えていく後輩達。
 ただ、読み返しているうちに、主人公よりもその隣で支えるチームメイトの方が柏木らしく思いながら、ノートに向かってペンを動かした。
 いつもより苦戦することなく書けた感想文は、気付けば、本の感想より柏木を思い出している時間の方が長かった気がした。読み返すと、本について書いたはずなのに、どこか柏木のことを書いているような気がした。


 新学期初日、放送室の空気は休み前と変わらず、少しだけ埃と配線の匂いがした。マイクの前に座って、スタンバイのサインを待つ。
「みなさんは夏休みどうでしたか? 勉強や部活漬けだった人もいるだろうし、旅行に行った人もいるだろうし、ずっと家にいた人もいるかもしれません」
 夏休みに入る前、各部活の結果を一通り立花たちと確認していた。県大会で優勝した部、惜しくも敗退した部、それぞれにコメントを添えるのもこのコーナーの仕事のひとつだ。
「放送部は総文祭に行ってきました。放送部門で特別賞をもらえて、嬉しかったです。その他の部も、県予選や惜しいところで敗退でしたが、みなさん秋季大会に向けて頑張っているみたいです」
 夏休み明けなので具体的な募集はしていなかったけど、お便りはちらほら入っていた。お便りを見ていると誰の顔を思い浮かべて書いたんだろうと考える瞬間がある。普段なら何となく流れていくその想像も、今は少しだけ違う重みを持っていた。
「個人的には、色んな人におすすめの本を教えてもらったり、普段あまり話さない人と話す機会があったりして、思ってたより充実した夏休みでした」
 言いながら、ふと自分のことを思い出した。柏木の練習試合の話を聞いた時のことだ。知らない場所での誰かの頑張りを知るのは、思っていたよりずっと、近くにいる感覚に変わるものらしい。
「自分の知らない場所で、誰かが頑張っているのを知るのって、何だか不思議な気持ちになります」
 その時はまだ気づいていなかったけど、誰かと話して見える発見というのは、案外自分にも返ってくるものだったらしい。
「人と話してみると、『そんな趣味あったんだ』とか、『そういう考え方するんだ』とか、意外な発見って結構あるんですよね。その人のことを知るだけで、自分も頑張ろうって思うんですね。だからこの夏は色んな人と話してみてよかったなって思いました――まあ、夏休み明けでだるい人も多いと思いますけど、ちょっとずつ頑張りましょう」
 淡々と言葉を続けながら、頭の中では駅前で別れる時の柏木の照れた手の振り方を思い出していた。あの一瞬を、部員以外誰にも見せない場所で思い出すのは、ちょっと変な感覚だった。
「というわけで、新学期最初のお便りテーマは『この夏、一番印象に残ったこと』です。大きな出来事でも、小さな発見でも構いません。よかったら聞かせてください。」
 喋り終わったあと、ふと思った。今日も柏木は、弁当箱を洗いながらこれを聴いていたんだろうか。あの賑やかな教室の隅で、洗い物のついでにこのコーナーが流れているところを想像すると、やっぱり何だか面白い。
 それを知った上で喋るのと、知らずに喋っていたのとでは、同じ言葉でも少し違って聞こえたかもしれない。誰か一人の顔を思い浮かべながら話す昼休みなんて、自分は想像もしていなかったなと思いながら、マイクのスイッチを切った。