名前を呼ばない放送室

『毎日誰かの頑張りが見える季節になってきました。でも大会とかはパッと目立つだけで、みんな普段から一生懸命頑張ってるんですよ』
 俺は一年の頃から、昼の放送が好きだった。正確には、榎本紬という同級生のやっているリクエスト&お便りコーナーが好きだった。
 試合が近い日は体育館に行くことも多いが、放送がある火・木・金はできるだけ教室にいるようにしていた。理由は誰にも言っていない。微妙な反応をされるのが分かりきっているからだ。
 最初に榎本の放送を聴いたのは一年のときだった。昼休み、会話に疲れてぼんやりしていたら、スピーカーから流れてきた声が気になった。他の放送と違って、原稿を読んでいる感じがしない。すごいことを言ってるわけではないけど、その場で考えながら話している感じで、聴いているとそのシーンが浮かんでくるような話し方をする。
 その時は確か本屋の話をしていた。「本屋さんの平台ってなんか、その本屋さんの気持ちが出ますよね」という一言が、なんとなく耳に残った。
 その次は園芸部が育てている花から、繋げて保健室のお知らせ。落ち着いた声がいいのももちろんだけど、その優しい目線で紡ぐ言葉がとてもよくて、気づけば毎回楽しみにしている自分がいた。
「放送って誰がやってるんだろう?」
「さあ? 放送部の二年とかじゃねぇの? それよりさ――」
 でも、俺のグループはちょっと賑やかだ。普段は楽しいけど放送をちゃんと聴こうと思うとちょっと厳しい。一緒にいるみんなはリクエストで知ってる歌がかかった時くらいしか聞いてないし興味がない。放送を聞きたいからとも言い辛い俺は、苦肉の策として「母や姉が怒るから弁当を洗っておく」だった。そう言えば束の間の自由が手に入るので、俺はいつもお便りコーナーを聴きながら、ゆっくり弁当を洗っていた。
 榎本の名前を知ったのはもっと後で、運動会の実況の時だった。柏木君、と名指しでアナウンスしてくれた声が——いい走りですと言った声が——ああ、あのコーナーの人だ、と繋がった瞬間、世界が少し近くなった気がして、もしかしたらとプログラムを確認したら、名前が載っていた。
 二年では隣のクラスになった。隣とはいっても、理系選択の総合コースの俺と文系特進の榎本では接点なんてほとんどない。それでも自然と姿を見るようになった。榎本は目立つ方ではないけど遠目でも姿勢がいい。クラスが違うなりに時々見た感じ、いい意味でマイペースで、天然とかではなくしっかり自分を持っているタイプ。空気を読みがちな俺とは違う。
 将来の話をコーナーでしていた時、お便りに混じって自分の夢を少し言っていた。ラジオのパーソナリティ、それになれなくても、何かを伝える仕事に関わりたいから進路はもう決めてると言っていた。なれそうと思うと同時に、目標がちゃんとあるから余計大人なのかも、なんて思った。
 俺は優しいとか周りをよく見ているとか言われるけど、何のことはない。小さな頃から姉二人に睨まれないようにするための生存戦略で、それが染み付いてるだけ。流行りの顔でちょっと背が高い、バスケができるだけの人間なんだ。あまり強く言える性格じゃないから、キャプテンじゃなくて副キャプテンが性に合っている。
 だから接点なんてないまま、一方的に隠れファンでいるだけだと思っていたのに――
 昨日の件は、俺にとってあまりにも想定外だった。
 いつもは名前を絶対出さない昼の放送で、突然自分の名前が出た。
 
 あー、自然体なのにかっこいいよね、柏木くん。
 運動会のとき実況したじゃん、リレーのアンカー。あの走り方が本当に綺麗で
 笑い方が静かなんだよね。大声で笑わないの。それがなんか、好き——というか。
 
「え……何だよこれ」
 教室の空気が変わって視線が俺に集中する。
 榎本の声はよく知っている。でも、その声が俺の名前を呼ぶのは、運動会の実況以来で、あの時は別に何とも思わなかったけど、今日は違った。走り方が綺麗、笑い方が静か、好き——という か。教室の空気が変わっていくのを感じながら、俺はその言葉を何度も頭の中で繰り返していた。違和感というより、どこか胸の真ん中に引っかかって離れない。
「放送部じゃん、行こう」と宮野と山下が舌打ちして立ち上がる。上手く処理できないまま立ち上がって、頭が追いつかないまま、宮野の後ろをついて歩いていた。
 廊下を歩いていると、俺の話の後に何事もなかったかのように普通にコーナーが始まったので、あれは多分機械スイッチが入っていたのに気づかず喋っちゃってたとか、放送事故とかそういう感じのやつでは。だって榎本はコーナーで人のことを喋るとき、名前は絶対出さない。 
 放送室の扉を開けて立っていたのは、榎本だった。顔を間近で見たのは初めてだ。やっぱり姿勢がよくて、小綺麗な男子。俺の周りは興味はないが、結構コーナーにはファンがいる。クラスの女子曰く「よく見ると案外整ってるモブの俳優」なんて失礼な例えをしていたが、分かる気がするなんて、現実逃避のように思考が逸れてしまう。
「めちゃ細かく見てるじゃん、キモくない?」
「ガチのやつじゃん」 
 宮野達の責める声が聞こえてハッと我に返った。咄嗟に止める言葉が出なかった。その代わりに出てきたのが「そんなんじゃないと思うけど、ごめんね」
 言ってから、失敗したと思った。
 榎本は「違う」と静かに怒っていた。それでも声を荒げることはせず、まず謝って淡々と説明していく。
 扉が閉まった瞬間、宮野がすぐに「大丈夫か」と俺の肩を叩いた。山下も同じように叩いて心配しているのは分かるが、山下は心配半分、面白がっている半分だった。
「つーか好かれてんじゃん、普通に」
「違うって本人が言ってただろ」
「あの必死さがもう怪しいんだよな」
「多分ただの事故だからもういいって」
 好き勝手いうけど言い返すのも面倒で、俺は黙って教室に足を向けた。宮野はそれ以上追及しなかったが、ずっと何か言いたそうな顔をしていた。
 翌日から、クラスの人や友人が「榎本くんはどうするの?」とか言い始めた。それに対しては宮野達が怒ってくれたけど、それもまた的外れだ。
「榎本くんって告白とかしたの?」
「柏木はどうすんの」
 廊下でも教室でも、声をかけてくるのは概ねそういう方向で、そのたびに俺は「違うから」と繰り返した。繰り返すうちに、何が「違う」のか、段々自分でも分からなくなってきた。
 大体俺はコーナーのファンだったし、自分のことを言われたの自体はビックリしたけど嫌じゃなかった。何の気なしに素の言葉で言われて、榎本の優しい目線から見て俺ってああ見えるんだって、むしろ嬉しかった。
 廊下で、榎本が誰かと話して眉を寄せているのを見た。
 C組の何人かが、放送部のことを言っているのも、聞こえてきた。でも何と言うのが正解か分からない。宮野たちの前で「それは言い過ぎじゃないか」と言えなかったのは、言いにくかったからというより、自分の判断だった。言えなかったのと言わなかったのは違う。
「スイッチが入ったまま放送したのは俺の確認不足だった。それは謝る。恥ずかしい思いをさせたのは申し訳なかった。でも、部のことを悪く言うのは違うだろ」
 榎本は教室の窓からはっきりそう言った。本当にその通りだ。榎本はそのまま教室に入っていったけど、俺はやっぱり何も言えず、榎本が言ってくれたようなカッコよさなんて欠片もなかった。
「……あれ」
 次の昼の放送が始まったけど、声が違った。いつもはサブをしている女子の声で、お便りコーナーもなく、学校からのお知らせと、リクエストの音楽が流れた。
「今日はあいつの放送じゃなかったな」
「ミヤ、俺もう全然気にしてないから、放送部のこと言うのは止めようよ。俺、榎本くんの放送時々聞いてたけど、俺だけ特別に見てるってわけじゃなくて、いつもああいうスタイルだよ。だから……」
「じゃあ人をいつもそうやって見てるってことか? 余計ヤバいじゃん」
「放送部女子ばっかだし、そういう系のやつなんじゃね?」
「そうじゃなくて……」
 完全に宮野は榎本のこと変なカテゴライズしてるし、山下は面白がってるし、俺の語彙じゃ上手く言えないのが歯痒い。聴けるときはほぼ欠かさず聴いているから、語ろうと思えばいくらでも語れる。けど一気にオタクみたいに喋る感じになる自信しかない。ちょうどいい感じに話せる自信は全くないし、一体どうしたものかと悩んでいたら、「柏木くん、A組の子が呼んでる」と声を掛けられた。特進クラスの子が、一体俺に何の用だろうか。宮野も警戒してついてきている。
「放送部の立花です。柏木さんにお願いがあって」
 立花。この眼鏡の小さな子、放送部の機材担当の子だ。
「お願い?」
「放送事故の件、あれ私のミスだからつむ……榎本を悪く言うのを止めてもらえませんか。あれから部活も来てないし、後輩もバスケ部の子に色々言われたりしているみたいで」
 声はあまり大きくなくて、表情もそこまで変えていない。でも目が明らかにこちらを非難していた。
「悪いのはお前らだろ」
「あんた誰?」
 どう話そうかと迷った一瞬に、同じ事を感じ取ったらしい宮野が先に噛み付いてしまった。しかし立花さんは大人しそうな見た目に似合わず一切怯むことなく即座に言い返している。これは相当気が強い。うちの姉タイプだ。
「はあ? それが反省してる態度かよ」
「大体柏木さん自身は何も言ってないっぽいのに、騒ぎ立ててるのはあんたでしょ。今も金魚のフンみたいに。私の要件は別にあんたがいてもいいけど、告白でもこうやってついてきてるの?」
「な……」
「これは放送部と柏木さんの問題だって言ってんの」
「まあまあ、喧嘩は止めて。それに、ミヤ。立花さんの言う通り、これは俺の問題だし、一年まで言い出してんのは明らかにやり過ぎだよ。でも、心配してくれてありがとね」
 宮野は口を開きかけ、「……分かった」とだけ言って、視線を逸らして歩き出す。普段の宮野にしては大人しい引き下がり方だったけど、今は立花さんだ。
「立花さんもごめんね。一年がそういうことになってるのは知らなかったから、教えてくれて助かった。俺からちゃんと言っとく」
 そう言うと立花さんは一瞬目を丸くして「よろしくお願いします」と頭を下げ、振り返らずに歩いて行った。足音が小さくて速くて、曲がり角を過ぎたらすぐ見えなくなった。言いたいことだけ言い切って去っていく感じ、ちょっと榎本に似ていた。
 話が終わってからじわじわと、榎本が部活に来ていないという立花さんの言葉が頭をぐるぐるとして、その日の部活は調子が悪くて「フリースロー外しすぎだ」とキャプテンに怒られてしまった。
 次の回もスピーカーからは音楽だけが流れた。
 いつもの声じゃなかったのが残念で寂しいし、俺は自分でもビックリするくらいがっかりしていた。
 授業中教科書を見ても、目が文字の上を滑るだけだった。
 それは家に帰ってからも同じで、宿題をしているのにシャープペンを持ったまま、一文字も書けていない。
 今日の放送も女の子の簡単な紹介と音楽だけだった。榎本の声がなかった。そのことが思ったよりずっと静かに、ずっと重く、胸の中にも残っていた。
「……そうだ」
 しばらくそのままペンを持って止まっていて、ふと思った。コーナーへのお便りや放送部への手紙は誰でも出せる。
 それは知っていたけど、一度も出したことはなかったけど、今は伝えたいことがある。
「……姉ちゃん、あんま可愛くない便箋あったらちょうだい」
「何だそのあげる気なくす言い方は」
 姉は呆れながらも無地の便箋と封筒をくれたので、それを持って椅子に座り、便箋を正面に置いた。
 書きたいことは決まっているけど、それだけは書きづらい。ペンの先を紙に近づけたけど触れる直前で止まってしまう。
 俺は一度、大きく息を吐いた。
「……よし」
 今度こそとペンを押しつけると、小さなインクの染みが出来始める。それに押されるように、俺は次の文字を書き始めた。