孤高の獅子が愛を吐くのは俺にだけ

 体育祭はあっという間に終わりを告げた。
「じゃあ今から10分休憩ー! お前らしっかり水分取れよー!」
 部長の指示が届き、俺はもも上げのトレーニングを中断する。まだ基礎トレだけだけど、久しぶりにやるとけっこうきつい。
「——航! 半年ぶりの部活はどうだ?」
 練習着のシャツで汗を拭い、水筒のところまで向かうと、千代野が隣にやってきた。その後ろには、愛想の”あ”の字もなさそうな宇崎の姿も。
「どうせ休みの間は碌にトレーニングもしてなかったんじゃないか」
「あ、おい、せっかく航が戻ってきたのにそんな言い方はないだろ!」
「なんでだ? 弥坂は居るべき場所に戻っただけなんだから気を遣う必要もないだろう」
 悪びれない宇崎に対して、千代野が言い返そうと眉を釣り上げる。俺は「まあまあ」と二人の間に割り込んだ。
「確かに、思ったよりは疲れてるよ。一応何もしてなかったわけじゃないんだけどさ、やっぱ本腰いれると全然違うな」
 でもこの体の重さのおかげで実感する。俺はやっと今日、陸上部に戻ってこれたんだってことに。なんだかんだ体育祭が終わってから、一週間くらい経っちゃったけど。
 水筒を傾けると、冷たい麦茶が渇いた喉を潤した。夕焼けを反射する美術室の窓が、視界の端できらりと光って見える。
「まあ航が気にしてねえならいいんだけどさ……誠一はもっと素直になれよ。航が戻ってきて本当はすげー嬉しいくせに」
「……いや、俺はただ、せっかくの才能を無駄にするのが勿体無いと思ってるだけだ。別にこいつのファンでもなんでもないのに、勝手言ってるのはお前だからな」
「ええ~? 今日だって一日中そわそわしてたのに?」
「っそ、それは……!」
 なんか急に隣で言い合いが始まったけど、俺は美術室の方に目が向いて仕方なかった。獅子井が今も俺を見てるのかって想像したら、途端に会いたくなる。
(少しくらいなら行ってもいいよな?)
 俺は千代野たちを置いて、こっそりとグラウンドを抜け出した。
 外から中の様子は窺えないけど、人影は見えるような。でも向こうも俺に気づいたのか、すぐに窓がガラッと開いた。目の覚める金髪が風に揺れる。
「獅子井!」
 飛び込むように駆けつけた俺を、獅子井は黙って見つめた。静かに目を細め、こっちに手を差し出してくる。
「中入ってこい」
「え? いやでも俺、靴履いてるし」
 それにそんな時間もねえし。
「じゃあここでキスするけどいいか?」
「……うわっ!?」
 顎の下を持ち上げられ、いつもより高い位置にある獅子井の頭が近づく。冗談なんかじゃない鋭い眼差しに、俺は一瞬で顔が熱くなった。
「まっ、待て! 分かったから、そっち行けばいいんだろ!?」
 後ろにはグラウンドがあるのに、こんなところでおちおちキスなんかしてられるか!
 わっと俺が叫ぶと、獅子井は小さく口元を緩めた。俺の手を掴んで「早く」、と急かしてくる。
(くそ、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけだ!)
 誘われると弱い自分がいることを自覚しながら、窓の手すりに片足を乗せた。獅子井が引っ張り上げてくれるのに合わせて、勢いよく窓を乗り越える。床に着地した瞬間、カーテンがシャッと引かれ、二人丸ごと包み込まれた。
「ん……っ」
 爽やかな清涼剤の香りと、熱い唇。俺はまだ、獅子井のシャツを握って受けとめるだけで精一杯だ。
「しっ、獅子井! 俺……っ、あんま時間が……!」
「分かってる。少し充電させろ」
 チュッ、と響くリップ音に鼓動がますます加速する。俺が陸上部に戻ったことで、学校で唯一触れ合える放課後の時間が無くなってしまったから、獅子井は物足りなく感じてるのかもしれない。その埋め合わせじゃないけど、俺も獅子井とくっつきたくて背中に腕を回す。
「……弥坂、オレを止めたいのかもっとして欲しいのかどっちなんだ?」
「っん、え、ど、どういうこと?」
 獅子井が熱い息をこぼす。堪えるような表情がゾクリとするほど美しく、俺はそっと目の前の頬に手を伸ばしていた。撫でると白い肌に赤が差して、じわじわとそれが耳朶まで広がっていく。寄った眉間と一緒に恨みがましい視線を向けられた。
「……お前、触るのはいいけど後で覚えとけよ」
「あっ、ご、ごめん」
 しまった、調子に乗ってやりすぎた。でも俺にだけ見せてくれる獅子井の照れ顔が好きすぎて、つい。
 そのままぎゅっと抱き締められると、お互いの心臓の音が混ざり合って、逆上せるほど暑くなる。
 俺、運動してきたのに汗くさくねえかな。もぞもぞと動いて少し隙間を作ろうとしたけど、ただ力が強まるだけだった。
「弥坂、オレの絵も見てって」
 しばらくして、そう囁いた獅子井が俺から離れる。手を引かれながらキャンバスまで連れていかれると、そこには色鮮やかに描かれた俺の姿。
「これ……体育祭の時の俺?」
「ああ。やっと完成したから。……こんなに満足いく絵が描けたのは久しぶりだ」
 俺はまじまじと、目の前の「走る俺」を見つめた。今にも動き出しそうなほど、躍動感と力強さにあふれた絵。ただ一言で上手いって表現するには物足りないけど、ぴったりと当てはまる言葉を見つけるのも難しい。
 でも一つ言えることがあるとすれば――。
「獅子井もスランプ、抜け出せたんだな」
 最初に描いてもらったものとは全然違う。これには心を揺さぶるような迫力と熱がある。感情が伝わってくるんだ。
「良い絵だろ?」
 獅子井は俺の腰を引き寄せると、目元に軽くリップ音を立てた。
「今はもう、スランプだったのが嘘みてえにすらすら描ける。お前のおかげだよ」
 覗き込んできた獅子井の瞳が綺麗な弧を描いている。顔を赤くした俺を閉じ込めたまま、ゆっくり口元が近づいてくる。俺はもう何度目になるか分からないそれに、瞼を閉じようとしたその時。
 窓の外から甲高い笛の音が鳴った。
「――あっ、やべえ! 俺戻んねえと!!」
 あんなにちょっとだけって言い聞かせてたのに! 慌てて窓の縁に飛びつく俺に、獅子井のエールが届く。
「終わったら迎え行くから。無理せず頑張れよ」
 俺は聞きながら外に飛び降りると、振り返って拳を上げた。
「ああ! ありがとう! 獅子井も俺のこと、ずっと見てて!」
 不思議だけど、お前が見てくれてるって思ったら、いつもより力が湧いてくるんだ。多分これが恋の力ってやつなのかな。
 小さく微笑んだ獅子井も拳を出してくれる。俺はこぼれるように笑い返すと、グラウンドに走り出した。