孤高の獅子が愛を吐くのは俺にだけ

 応援合戦が終わり、一年の選抜リレーも終わって、いよいよ俺たちの番。
 リレーは獅子井から始まって、千代野、宇崎、俺、の順番で走るのが決まっていた。別にアンカーをやるつもりはなかったけど、最後は一番速い奴が走るべき、っていう宇崎の圧が強すぎて俺は押し負けたんだ。
 入場門を抜け、グラウンドに入ると、もわっとした熱気を感じる。獅子井が軽く俺の背中を叩いてスタート地点に向かっていった。
 俺も順番通りに並んで立つ。すると前にいた宇崎が振り返って、
「弥坂が変わったのは、あいつのおかげだよな?」とそんなことを言った。
「……急に何の話? あいつって獅子井のことか?」
「ああ……あれほど走るのを拒否していたお前が、突然やる気を見せ始めたかと思ったら、最近獅子井とよく話してるところを見る。もしかしてお前が心変わりしたのは、獅子井による影響なんじゃないのか」
 仏頂面がさらに険しくなっている。まるで気に入らないことでもあるみたいな表情だ。
「……たしかに、俺がまた走ろうと思えたのは獅子井のおかげだけど。でもそれがなんだ? お前になんか問題でもあるのか?」
 俺は正直に伝えると、宇崎が一瞬、「それは、」と言い淀む。
「……悔しいだろ」
「え?」
「ずっと『走れ』って言い続けてたのは俺なのに、急に現れた奴が軽々とお前の気を変えたら」
 宇崎が不貞腐れたように呟いた。それと同時に、”パンッ”とスタートの合図を告げる空砲が響いた。疾走感のある曲が流れ初め、6人が一斉に走り出す。声援がすごい。どこからでも目立つ金髪が集団の先頭で輝いている。
 俺は走る獅子井をじっと見つめながら、宇崎に言った。
「バカだな宇崎は」
「……は?」
「お前はさ、ずっと俺を諦めなかったすげえしつこい奴なんだよ。そんな奴が、少しも俺に影響を与えなかったと思うか?」
「……? どういう意味だ?」
 獅子井がすぐに一周して戻ってくる。スタートラインに立った千代野は一位で渡ってくるバトンを今か今かと待ち構えている。
「宇崎は知らないだろ。俺が体育倉庫の裏で、実は陸上部の様子をこっそり窺ってたの」
「……そ、そんなことしてたのか!?」
「お前が走れ走れうるせえから、俺はちっとも諦められなかったんだ。獅子井が俺を変えてくれた恩人だとするなら、お前は俺に未練を抱かせた奴なんだよ」
 バトンが千代野に渡った。真剣に走りきった獅子井は、女子が騒ぐのも頷けるほど、確かにカッコよかった。
 俺は放心している宇崎の腕を押すと、勝ち気に笑う。
「お前の誠意も無駄じゃなかった。俺が言いたいのはこれだけだ」
「っ!」
「だからほら、次お前の番だぞ。俺に生温い走り見せる気か?」
 宇崎の背筋がピンと伸びる。目に光が反射するほど潤んでて、本当に暑苦しい奴。俺もこんなことは言うつもりなかったのに、後でとんでもなく恥ずかしくなったらどうしてくれるんだ。
 盛大な声援の中、千代野が自分よりも大きい男たちを引き連れて戻ってくる。宇崎にバトンが渡る。もう次は俺の番。でも全然嫌な感じはしなくて、むしろすげえワクワクしてるんだ。
「——弥坂」
 走り終わった獅子井が俺の背中に触れて、そっと耳元で囁いた。
「ずっと見てるから。気張らずに頑張れ」
 微笑んだ獅子井に背を押され、俺は白線の上に立つ。
 盛り上がりは最高潮に。俺のやる気もうなぎ上りに。……今の俺なら、なんだってできそう。
「弥坂ッ!」
 叫ぶ宇崎の声に、地面を蹴る。一番に戻ってきたバトンを、後ろ手に掴み取る。腕を振って、足がバネのように軽く跳ねて、風と一体化できるこの瞬間が好きだ。全身を駆け巡るように血が滾って、腹の奥底が打ち震える。
 ――ああ、全力で走るのって最高に気持ちいい!
 どうして俺は、この昂りを忘れていられたんだろう。こうやって、ただがむしゃらに走ってるだけで十分だったのに。子供の頃みたいに、ただ速く走りたいって気持ちだけで充分だったのに。
 今、楽しくてしょうがない。息が苦しくても、顔はどんどんほころんでしまう。もっともっと、何度だって走りたい。
 ゴールテープを切ったのはあっという間だった。
「航っ!」「弥坂……!」
「お、わ……!?」
 千代野と宇崎が、走り終わった俺に突進してくる。
「すげー! すげー速かったよ航!!」
「ぜ、全盛期の弥坂を見てるみたいだった……っ。走るのが生きがいだって、純粋に笑ってる頃のお前を……っ」
 感極まった宇崎が涙ぐんでいる。でもせっかく気持ちよく走ってきたところなのに、けっこう台無しだぞ、これ。
「あははっ! 誠一はなんだかんだ言って航のファンだからなあ!」
「え、まじで?」
 それは俺、流石に知らないわ—―と、耳を疑ったその時。突然腹に回った腕が、俺を二人から引き離させた。
「悪いけど一番のファンはオレだから」
 そう言って俺の手を引っ張っていくのは、こっちに背を向けた獅子井。戸惑う千代野や宇崎を置いて、俺は颯爽と連れ去られる。
「ちょ、ちょっと獅子井!?」
 痛いくらいに握られた手は、絶対に離さないって言われてるみたいだ。じろじろと突き刺さる好奇の視線を掻い潜りながら、徐々にグラウンドから遠ざかっていく。喧騒も校舎を挟むと途端に静けさを増す。
 獅子井は校舎裏までやってくるとようやく足を止めた。
「……? 獅子——」
 手を強く引き寄せられ、地面の小石がジャリッと音を立てる。壁に背中を押し付けられた俺は、次の瞬間。
「ッ!?」
 唇に柔らかいものが当たっていた。ぐぐっと唇を塞がれて、息ができなくなる。衝動をぶつけてくるみたいに、深く、熱く。目の前の澄んだ瞳が緩く蕩けて、俺を閉じ込める。
 ゆっくりと離れた唇がそれを溢した。
「好きだ」
「……っ、へ、え?」
「もう抑えらんねえくらい、お前が好き」
 色白の頬に赤みが差している。絡んだ指先は壁に張り付けられ、逃げることも許されない。
「去年の体育祭で、オレは初めてお前を見た。走り終えたオレの目の前で、駆けてくお前を目にした時。多分あの時に全部奪われたんだよ。オレの創作欲も、才能も、心も。オレを形作るもん全部、お前にな」
 余裕のない声色。熱を孕んだ視線が、ゆっくりと俺をなぞる。
「弥坂を描きたいし、弥坂に触りたい。近づけば近づくほど、欲が大きくなる。お前のこと、今はもう独り占めしたくてしょうがねえから――大人しくオレのもんになって」
 そう言うと、獅子井は祈るような口づけを、また俺の唇に贈った。爆発しそうな心臓は、きっとこの瞬間にぶっ飛んだ。
「……弥坂?」
「ご、ごめん。腰抜けた……」
 震えた膝が曲がって、ずるずると腰を落とす。獅子井がかろうじて支えてくれたけど、さっきよりもくっついてるせいでこっちの鼓動の音まで伝わりそう。頭が、顔が、触れるところ全部が、熱を持ったように熱い。獅子井の背中をぎゅっと掴む。
(俺のこと、好きって……、獅子井が、本当に?)
 走る時の高揚感とはまた違う、むずむずと上擦るようなこの気持ち。男を好きになるなんて今まで一回も考えたことなかったから、この胸の高鳴りが「別の意味」を持つことも、当然想像すらしていなかった。
「……弥坂。あんまそういう顔されると、どうにかしたくなんだけど」
 獅子井の赤らんだ頬が俺の肩に乗る。
「オレが暴走する前に、早く返事、聞かせて」
「ッあ、」
 どうしよう、俺。今、好きって言葉以外、出てこない。何も考えられないくらい頭ん中は燃えてるのに、浮かび上がったその感情は、最初からそこにあったみたいに、ぴったりとフィットする。
 俺は震える息を吐き出した。つまり——、これはもう、そういうことでいいんじゃないかって。自覚して、認めてしまえば、湯水のように湧いて出てきて止まらない。
「俺も、好き。獅子井のことが、好きだ……っ」
 言った瞬間、捕食されるかと思うほどの勢いで唇に噛みつかれた。激しく、掻き立てるような息苦しさと熱さだった。獰猛な本能を奥に潜ませた獅子井の瞳が、綺麗な三日月を描いている。
 ゾクッとするようなこの目に見つめられていたい——。捕らわれて、囲われたことに気づいても、もう遅かった。俺はきっと、この檻からは抜け出せない。ズブズブと、沼にはまってくみたいに落ちていくしかなかった。