孤高の獅子が愛を吐くのは俺にだけ

「——はあっ!? 江川が怪我したって!?」
 月曜日。俺が教室に入ると、千代野の盛大な叫び声が一番に聞こえてきた。
 朝っぱらから騒がしいな、とまだ眠気の取れない目を向けてみる。教室の中央にいるのは千代野と宇崎と、松葉杖をついた江川。どうやら週末にあったサッカーの練習試合で、江川が足を負傷したらしい。
「じゃあリレーどうすんだよ。もう体育祭まで一ヶ月もねえけど、それまでに治るのか?」
「いや~、ちょっとそれが無理そうなんだよなあ」
 俺はリュックを自分の机に置きながら、その話を盗み聞いていた。さっきまでのんびりと血液を送り出していた心臓が、今から起こす俺の行動を予測するかのように、いつの間にか素早い動きに変わっている。
「江川が出れなくなった以上、他の奴に頼むしかないだろう」
「うわー、マッジでごめん! 俺から出てえっつったのに迷惑かけて……!」
「いや、こればっかりはしょうがねえよ。それに誰か一人くらいなら、代わりに出てもいいって言ってくれる奴はいるだろうし——」
 千代野の言葉に合わせて、俺は三人のもとに近づいた。ズボンの裾を握りしめながら、ごくりと唾を飲み込む。
「お、俺が出ようか?」
「……えっ、航?」
 千代野が目を大きくする。宇崎は驚いて声も出せない様子で、何も知らない江川だけが白い歯を覗かせて笑った。
「弥坂が出てくれんの!? だったらすげー助かるんだけど!」
「あっ、ああ……。俺でよければ、全然——」
 俺がそう告げた瞬間、千代野が「航ッ!」と叫びながら飛びついてきた。
「うわっ……!」
「お前まじか!? まじでリレー出てくれんのかよ!?」
 千代野の声が弾んでいる。よっぽど嬉しかったのか、丸い瞳がキラキラと輝くほど。
「おい弥坂、その言葉冗談じゃないだろうな?」
 宇崎は訝し気に眉をひそめて呟いた。
「俺が誘った時は頷く素振りも見せなかったのに、一体どういう風の吹き回しでお前は——」
「ちょっ、待て待て、落ち着け誠一!」
 詰め寄ってくる宇崎の肩を、千代野が慌てて押さえた。でも俺は、そんな千代野の背中をポンと叩くと、「大丈夫だ」と言って笑った。宇崎の見張った黒い目を見つめ返す。
「今までごめん、宇崎。お前は何回も俺を戻そうと声かけてくれたのに、つれない態度を取って」
「……っ!」
「正直、陸上部にはまだ戻れねえよ。いろいろ迷惑かけてきたし、まだ気持ちの整理も追いついてないから。……でも、俺はやっぱり走るのが好きだって気づいたんだ。できるならもう一度グラウンドに立って、思いっきり走ってみたいと思ってる」
 獅子井に話をしてから数日間。俺はこれまで抱えてたモヤモヤっとしたものが嘘みたいに晴れて、ただ楽しかった頃の自分を思い出せるようになった。
 今あるのは、また走りたいって気持ちだけ。だから江川がリレーに出れないって聞いた時、これはチャンスだと思った。俺がもう一度陸上に戻るための、絶好の機会(チャンス)だって。
「……やるからには本気で参加してもらうぞ」
「ああ。ブランク感じさせないくらい練習するよ」
 強気で俺が言い返すと、宇崎はようやく肩の力を抜いた。安心したように息をついて、くしゃりと髪を掻く。千代野が横で歓声を上げた。
「うおお! やったな誠一! これでまた航と走れるぞ!!」
「……ちょっと黙ってろ千代野。俺は今感動してる最中なんだ」
「えっ……、泣いてる? もしかして泣いてんのか!?」
「うるさい、黙れって言ってるだろ!」
 わちゃわちゃと騒ぎ出す二人に、自然と笑みがこぼれる。こんな感じで部活の時も過ごしてたのが懐かしい。
(これも全部獅子井のおかげだ。俺がまた走りたいって思うようになったのも、今こうして一歩踏み出せるようになったのも)
 ふいに窓際の席に視線を流すと、こっちを見ている獅子井と目が合った。心臓が不規則に揺れ始める。俺はむずむずとくすぐったい気分を堪えながら、獅子井の席に近づいた。
「お、おはよう獅子井」
 教室で話すのは初めてだったけど、獅子井も短く「はよ」、と返してくれる。
「あの、さ……、聞こえてたか? 俺がリレー、出ることになったの」
「ああ」
 切れ長の瞳が優しく細まる。柔らかい視線が、俺のことよくやったなって褒めてくれてるみたいだ。
「……俺、もう一回頑張ってみるよ。獅子井に言われた通り、まずは『楽しい』って気持ちを大事にしながら」
 俺がそう言うと、獅子井は頬杖をついていた腕をこっちに伸ばしてきた。ズボンを握りしめる俺の手をそっとほどいて、軽く包み込んでくる。
「オレもリレーは出るから。なんか困ったことがあれば言えよ」
「あ……っ、わ、分かった」
 俺はこくこくと頷いた。そのままさりげなく手を引き抜くと、「じゃあ」と言って自分の席に戻る。周りからやけに見られているような感じがしたけど、気にする余裕はなかった。頭の中がずっとドコドコと鳴り響いてうるさかったからだ。
 この前は涙にキスされて、今は手を握られて、獅子井はさぞかし恋愛経験が豊富に違いない。男の俺でもドキドキするくらいだ。女の子なんて引く手あまただろうし、今のも獅子井からしたらなんてことないんだろうな。
(……ん? なんで今、胸がズキってしたんだ?)
 よく分からない痛みに胸元を擦る。そのあとチャイムが鳴ってすぐにホームルームが始まったけど、謎の痛みはしばらく俺を襲い続けたまま収まらなかった。
***
 選抜リレーに出るのは俺を含めて四人。俺と獅子井と、それから千代野と宇崎。放課後はみんな部活があるから、練習できるのは体育の時間だけ。
 千代野がまず、「軽く一周ずつ走ってバトンの受け渡しをしてみようぜ」と提案してきたので、俺はトラックの上に立った。真剣に走るのは約半年ぶりだ。走り終わって宇崎にバトンを渡した獅子井が、俺をチラッと確認してくる。
「弥坂——」
「あ、次俺の番だよな」
 俺は獅子井の言葉を遮った。多分心配してくれてるんだろうけど、平気だってことをアピールしたかった。
 宇崎がコーナーを曲がって戻ってくる。俺は息を吸いこんで軽くジャンプし、助走を始めると、バトンが右手に渡ったのが分かった。
 今日は練習だから、追い抜く人も追い越してくる人もいない。それなのに、俺は走り始めた途端、視界の端でチラチラと人の頭が見えるような気がしてならなかった。また抜かれるんじゃないかって不安が手の振りを遅くさせて、たいして走ってもないのに息が荒くなる。足に激痛が走った瞬間を思い出す。
 あ、ヤバい——と思った時には、俺の視界は傾いていた。
「弥坂……!」
 切羽詰まった声がした。崩れ落ちそうになった俺を、力強い腕が引っ張り上げてくれた。顔を上げると、珍しく焦った表情をした獅子井がいる。
「おい、大丈夫か?」
「……っ、あ」
 トラウマを克服するのは、思ったより簡単なことではなかったらしい。
 すぐに千代野と宇崎も駆け寄ってきて俺を気遣ってくれたけど、俺は上手く答えられなかった。不甲斐ない自分が情けなくて、悔しかったんだ。
「お前ら、他にも出る競技あるだろ」
 獅子井が俺を支えながら、千代野と宇崎に言う。
「弥坂のことはオレが見とくから。二人は一旦そっち行ってこいよ」
「え? 獅子井が?」「は? なんでお前が一人で——」
 戸惑う二人に、今度は別のところから声がかかる。
「千代野ー! 宇崎ー! そっち終わったんならこっちにも来てほしいんだけどー!」
 獅子井の言う通り、リレーの練習だけに付き合ってはいられないみたいだった。千代野が「あー」と呟いて宇崎を見る。
「誠一、とりあえず航は獅子井に任せて、オレらはあっち行くぞ」
「……いや待て。弥坂は本当に走れるんだよな?」
 顔を強張らせた宇崎は、俺が想像以上に深刻な問題を抱えてると思ったのかもしれない。俺はしっかり立って、気にするなと首を横に振った。
「足はちゃんと治ってる。今はちょっと体が追いついてないだけで、時間さえあれば走れるようになるから」
「……本当か? また無理なんかして、怪我でもされたらたまったものじゃ——」
「そんなこともうしねえし。俺の限界は俺が一番分かってる。あんなアホな真似、二度としねえよ」
 宇崎は俺の返答に満足したみたいだった。溜飲を下げ、手を振る千代野と一緒に去っていくと、生温い風が俺の首筋を通り抜ける。腰を支えてくれていた獅子井が急に顔を覗きこんできた。
「仲いいな、アイツと」
「えっ? そ、そうか? 別に、普通だと思うけど——」
 そのまま力を込めて近づいて来ようとするので、俺は必死に仰け反る。
(な、なんか……不機嫌?)
 仲が良いのは、千代野のほうなのに。何が獅子井の反感を買ったんだろう。でも心臓に悪いから、これ以上近づくのは勘弁してほしかった。
「あーっと……助けてくれて、ありがとう。俺もう一人で立てるから、手離してくれて大丈夫……」
「なんでさっきは倒れそうになった?」
 密着したまま、獅子井が尋ねてくる。
「……え、い、いや。思い出しただけだ。大会で負けた時のこととか、足怪我したときのこととか」
「まだ楽しむ気分になれない?」
「う、ん。その、やっぱすぐには難しいみたいで……」
 獅子井は話しながら、俺の目元を指で擦っていた。俺は離れたいのに、腰をずっと持たれてるせいで何もできなかった。ただ獅子井の体操服を引っ張って、視線を左右にうろつかせるだけ。
(な、なんなんだ? 俺たちずっとこんなことしてたら、変な目で見られるだけなのに)
 それこそこの間、俺が教室で獅子井に話しかけた時も、ホームルームが終わってから女子たちに「二人は友達なの?」ってすげえがん詰めされたんだから。
「じゃあオレが隣で並走するのは? それなら多少気が紛れるだろ?」
「……あ、たしかに。最初はそうしてくれるとありがたいかも」
 俺が頷くと、獅子井はようやく解放してくれた。吹き込んだ風が冷たく感じるのは、今ので大量に汗をかいたからだった。

 そんなこんなで俺は獅子井にサポートされながら、ちょっとずつ走る感覚を取り戻していくようになると、時間はあっという間に5月の終わりに。
 日が長くなって長袖で過ごすのも暑くなってきた頃。体育祭の開幕を告げる、生徒会長の宣誓がグラウンドに響き渡った。