俺は深く息を吐いた。ここまで熱烈に言われたら、誤魔化すことはもうできなかった。
震えそうな手を握りしめる。獅子井が一瞬身じろぎをしたのが端に映ったけど、そのまま口を開いた。
わざわざ思い出そうとしなくても、あの頃の情景が今もまだ鮮明に、脳裏にしっかりと染み付いている。
「——俺は確かに走るのが好きだったよ。試合に負けても、また次勝ってやるって向上心にすぐ繋がるくらい……。強い選手を見るのも好きだったし、どうやったらもっと早く走れんだろうって研究するのも好きで、後ろ向きなことなんて今まで一切考えたこともなかった」
ぽつぽつと語り出す俺の話を、隣で獅子井が黙って聞いている。
「……でも、去年出たインハイ予選。そこで俺は、トップ層とのどうやっても埋まらない差に、初めて絶望を覚えたんだ」
種目は100メートル走。コンマ数秒が勝敗を分ける世界で、目前のゴールに向かってただまっしぐらに走るシンプルな競技。
「俺はあの日、コンディションが最高によかった。誰よりも速く走れる自信があったし、タイムも実際、自己ベストを達成することができた。これ以上ないってほど最高の走りだったんだ。絶対勝てるって思ったのに……、思ったのに俺は、あと一歩が届かなかった」
目を瞑ればありありとその光景が浮かび上がってくる。視界の端から人の頭が見えて、追い越されるあの瞬間。どれだけ手足を振っても追いつけないあの恐怖。血の気が引くって感覚を、俺はあの時初めて知った。ゴールをしても、水の中に沈んだみたいに息苦しくて、『楽しい』って思えないのは初めてだった。
「完璧な状態で、持てる全力を出し切ったからこそ、勝てなかったことに対する”怖れ”みたいなものが染みついて取れなかったんだよな。……それから俺は、もっと練習しねえとって強迫観念に取り憑かれるようになって、体をどんどん酷使するようになった」
机の上のスケッチブックをパラパラと捲る。途中から白紙に変わっている三冊目——その中に、表情をごっそりそぎ落とした俺がいる。
「獅子井も、俺の変化に気づいてた?」
「……ああ。描く分には困らなかったが、お前は周りとよく揉めるようになってたな」
「あー……そう。皆にはちゃんと休めって叱られてたんだけどさ。俺は全然聞く耳持たなくて」
軽く苦笑いを浮かべながら、絵の中の自分をそっとなぞる。
「10月入ってすぐぐらいだったかな。疲労が祟って、俺の右足は案の定故障した。糸が切れたみたいにすげえ痛みが走って、俺は強制的に休まざるを得なくなった」
ちょうど近所の公園でトレーニングしてるタイミングで、もし父さんが近くにいなかったら、俺は一人でずっと蹲ることになってたかもしれない。
「一応医者からは、リハビリすれば元通り走れるようになるって言われた。だから致命的な怪我ではなかったんだけど——」
あの頃の心情を思い返すと、今でも少し気分が悪くなる。世界に一人だけ取り残されたかのような、心細さと焦燥感に襲われて。足元が崩れ落ちてくみたいに自分を支えてくれてたものが無くなって、周りが何も見えなくなった。胸が、空っぽになった。
俺がリハビリしてる間にも、周りはどんどん強くなっていくのに。ちゃんと走れるようになっても、また勝てなかったらどうする? 無理して、体壊して、また無理して……って、こんなことをずっと繰り返していくようになったら?
「——俺は、走るのが怖くなった。怖くなって、気づいたらもう、全部放り出すみたいに逃げ出してたんだ」
陸上をやめた理由。それはただ、俺の心が弱かったから。
見透かしてくるような獅子井の視線も怖かった。俺の弱さを暴いて、非難してくるみたいで、恐ろしかった。
「俺が走らなくなったのは、こんなどうしようもない卑屈さからきてるんだよ。……どうだ? 失望しただろ?」
寝る間も惜しんで夢中になるほど、『弥坂航』は大した奴じゃないんだって。俺は獅子井にこれだけ描いてもらえて、光栄だったけど。なんだかんだこの放課後の時間も楽しかったし、もう来なくていいって言われたら寂しく思うくらいには、俺も——。
「今は?」
「えっ?」
「今も足は負傷したままなのか?」
爪を立てて握る俺の手のひらを、獅子井の指先がそっと解いていた。
「……い、いや、リハビリはしてるから、もう走れる状態ではある……けど」
そのまま爪の跡を確かめるように獅子井が撫でてくるので、俺は素早く手を引っ込める。でも、急になんだって声を上げることはできなかった。
「お前のそれは弱さから来てるんじゃねえ。ただの臆病な怖がりなんだよ」
そう言いながら顎を掴まれて、引き寄せられる。
「逃げに走って全部放り出したいと思ってるような奴は、そもそも体育倉庫なんかに毎日行かねえだろ。お前がこっから陸上部を直視できねえのは、もう一回そこに立ちたいと思ってる自分に怯えてるだけだ」
どこまでもまっすぐな透き通った瞳に、俺だけが映っている。捕らえられるような視線から、目を逸らせない。
「勝手に負ける自分を想像すんな。勝ち負けにこだわるより、お前にはもっと大事にしてたことがあるだろ」
「……だいじに、してた?」
「ああ。弥坂はなんで走るのが好きだった? 逃げたいと思っても、リハビリを続けてたのはどうしてなんだ?」
——……それ、は。
「楽しかった、から。走るのが楽しくて、諦めたく、なかったから」
獅子井は柔らかく微笑んだ。笑うことなんてないだろうって勝手に決め付けてた俺の前で、初めて見せてくれた笑顔だった。
胸の奥にぽわっと熱が灯る。飛ぶように高鳴るそれは、止めることを知らない目覚まし時計みたいにうるさい。顔がどんどん熱くなってきて、視界が潤み出す。
頬を垂れる雫に気づいたのは、獅子井が優しく指で拭ってくれた時だった。
「っ、あ、ご、ごめ――」
咄嗟に離れようとしたけど、いつの間にか腰に回っていた手がそれを許さなかった。獅子井の綺麗な顔が近づいてきて、俺の涙にキスをする。
「なッ、なにして……!!」
「——泣くなよ。お前が泣いてるところはあんま見たくねえ」
そう言ってまた唇を寄せてこようとするので、俺は慌てて身を捻った。
「わ、分かった! 分かったからそれやめろ!!」
触れられたところが熱い。心臓が破裂しそうだ。いくら涙を止めたいからって、こんな方法はプレイボーイすぎるだろ。
獅子井は俺の必死さに気づいたのか、最後に指で拭うと体を離してくれた。清涼剤のような爽やかな香りが宙に溶けていく。
(……ああもう、どんな顔したらいいんだ。絶対いま顔赤いし、獅子井の前で泣いたのも恥ずかしすぎる)
俺はそろそろと体を小さくした。できればこのまま俯いてるか、どこかに隠れたい気分だったけど、どうしても伝えたいことがあって、頑張って顔を上げる。
「あの、ありがとう」
俺の話を真剣に、最後まで聞いてくれて。
「実は俺、誰にも本当の気持ちを打ち明けられなくて、ずっと独りよがりになってたんだ。友達にも家族にも、本当のこと話して同情されたくなかったっていうか。身近な人間だからこそ、本音を言えなかった。……獅子井には話して、がっかりされるかもってちょっと構えてたんだけど、俺の”逃げ”を弱いからじゃないって言ってくれたのすげえ嬉しかった。一番大事な『楽しい』って気持ちを忘れてたことも。……獅子井のおかげで思い出せた」
そう言うと俺は、息を吸いこんで見つめ返す。
「だから、ありがとう。俺、今日獅子井に話せてよかったよ」
獅子井がさっき微笑んでくれたみたいに、俺も唇を緩めて笑った。この前は「笑ってみろ」って言われて不格好な変顔しかできなかったけど、今日は心からの笑顔だった。
獅子井の眉毛がピクリと揺れる。いつも俺から逸らすことが多いのに、獅子井は何故かその瞬間、そっぽを向いていた。手を口元に当てながら、険しい顔つきでじっと黙っている。
「獅子井?」
金髪の隙間から覗く耳朶が赤い。もしかして俺が笑いかけたから、それで照れてるのか?
(え、いや、でも流石にそれはないか。だって可愛い子ならまだしも、俺だぞ?)
ありえないありえないと首を横に振る。つられて俺まで落ち着かない気持ちになってきたけど、なんとか言い聞かせた。油断すれば緩みそうになる唇を、必死に堪えて抑えながら。
震えそうな手を握りしめる。獅子井が一瞬身じろぎをしたのが端に映ったけど、そのまま口を開いた。
わざわざ思い出そうとしなくても、あの頃の情景が今もまだ鮮明に、脳裏にしっかりと染み付いている。
「——俺は確かに走るのが好きだったよ。試合に負けても、また次勝ってやるって向上心にすぐ繋がるくらい……。強い選手を見るのも好きだったし、どうやったらもっと早く走れんだろうって研究するのも好きで、後ろ向きなことなんて今まで一切考えたこともなかった」
ぽつぽつと語り出す俺の話を、隣で獅子井が黙って聞いている。
「……でも、去年出たインハイ予選。そこで俺は、トップ層とのどうやっても埋まらない差に、初めて絶望を覚えたんだ」
種目は100メートル走。コンマ数秒が勝敗を分ける世界で、目前のゴールに向かってただまっしぐらに走るシンプルな競技。
「俺はあの日、コンディションが最高によかった。誰よりも速く走れる自信があったし、タイムも実際、自己ベストを達成することができた。これ以上ないってほど最高の走りだったんだ。絶対勝てるって思ったのに……、思ったのに俺は、あと一歩が届かなかった」
目を瞑ればありありとその光景が浮かび上がってくる。視界の端から人の頭が見えて、追い越されるあの瞬間。どれだけ手足を振っても追いつけないあの恐怖。血の気が引くって感覚を、俺はあの時初めて知った。ゴールをしても、水の中に沈んだみたいに息苦しくて、『楽しい』って思えないのは初めてだった。
「完璧な状態で、持てる全力を出し切ったからこそ、勝てなかったことに対する”怖れ”みたいなものが染みついて取れなかったんだよな。……それから俺は、もっと練習しねえとって強迫観念に取り憑かれるようになって、体をどんどん酷使するようになった」
机の上のスケッチブックをパラパラと捲る。途中から白紙に変わっている三冊目——その中に、表情をごっそりそぎ落とした俺がいる。
「獅子井も、俺の変化に気づいてた?」
「……ああ。描く分には困らなかったが、お前は周りとよく揉めるようになってたな」
「あー……そう。皆にはちゃんと休めって叱られてたんだけどさ。俺は全然聞く耳持たなくて」
軽く苦笑いを浮かべながら、絵の中の自分をそっとなぞる。
「10月入ってすぐぐらいだったかな。疲労が祟って、俺の右足は案の定故障した。糸が切れたみたいにすげえ痛みが走って、俺は強制的に休まざるを得なくなった」
ちょうど近所の公園でトレーニングしてるタイミングで、もし父さんが近くにいなかったら、俺は一人でずっと蹲ることになってたかもしれない。
「一応医者からは、リハビリすれば元通り走れるようになるって言われた。だから致命的な怪我ではなかったんだけど——」
あの頃の心情を思い返すと、今でも少し気分が悪くなる。世界に一人だけ取り残されたかのような、心細さと焦燥感に襲われて。足元が崩れ落ちてくみたいに自分を支えてくれてたものが無くなって、周りが何も見えなくなった。胸が、空っぽになった。
俺がリハビリしてる間にも、周りはどんどん強くなっていくのに。ちゃんと走れるようになっても、また勝てなかったらどうする? 無理して、体壊して、また無理して……って、こんなことをずっと繰り返していくようになったら?
「——俺は、走るのが怖くなった。怖くなって、気づいたらもう、全部放り出すみたいに逃げ出してたんだ」
陸上をやめた理由。それはただ、俺の心が弱かったから。
見透かしてくるような獅子井の視線も怖かった。俺の弱さを暴いて、非難してくるみたいで、恐ろしかった。
「俺が走らなくなったのは、こんなどうしようもない卑屈さからきてるんだよ。……どうだ? 失望しただろ?」
寝る間も惜しんで夢中になるほど、『弥坂航』は大した奴じゃないんだって。俺は獅子井にこれだけ描いてもらえて、光栄だったけど。なんだかんだこの放課後の時間も楽しかったし、もう来なくていいって言われたら寂しく思うくらいには、俺も——。
「今は?」
「えっ?」
「今も足は負傷したままなのか?」
爪を立てて握る俺の手のひらを、獅子井の指先がそっと解いていた。
「……い、いや、リハビリはしてるから、もう走れる状態ではある……けど」
そのまま爪の跡を確かめるように獅子井が撫でてくるので、俺は素早く手を引っ込める。でも、急になんだって声を上げることはできなかった。
「お前のそれは弱さから来てるんじゃねえ。ただの臆病な怖がりなんだよ」
そう言いながら顎を掴まれて、引き寄せられる。
「逃げに走って全部放り出したいと思ってるような奴は、そもそも体育倉庫なんかに毎日行かねえだろ。お前がこっから陸上部を直視できねえのは、もう一回そこに立ちたいと思ってる自分に怯えてるだけだ」
どこまでもまっすぐな透き通った瞳に、俺だけが映っている。捕らえられるような視線から、目を逸らせない。
「勝手に負ける自分を想像すんな。勝ち負けにこだわるより、お前にはもっと大事にしてたことがあるだろ」
「……だいじに、してた?」
「ああ。弥坂はなんで走るのが好きだった? 逃げたいと思っても、リハビリを続けてたのはどうしてなんだ?」
——……それ、は。
「楽しかった、から。走るのが楽しくて、諦めたく、なかったから」
獅子井は柔らかく微笑んだ。笑うことなんてないだろうって勝手に決め付けてた俺の前で、初めて見せてくれた笑顔だった。
胸の奥にぽわっと熱が灯る。飛ぶように高鳴るそれは、止めることを知らない目覚まし時計みたいにうるさい。顔がどんどん熱くなってきて、視界が潤み出す。
頬を垂れる雫に気づいたのは、獅子井が優しく指で拭ってくれた時だった。
「っ、あ、ご、ごめ――」
咄嗟に離れようとしたけど、いつの間にか腰に回っていた手がそれを許さなかった。獅子井の綺麗な顔が近づいてきて、俺の涙にキスをする。
「なッ、なにして……!!」
「——泣くなよ。お前が泣いてるところはあんま見たくねえ」
そう言ってまた唇を寄せてこようとするので、俺は慌てて身を捻った。
「わ、分かった! 分かったからそれやめろ!!」
触れられたところが熱い。心臓が破裂しそうだ。いくら涙を止めたいからって、こんな方法はプレイボーイすぎるだろ。
獅子井は俺の必死さに気づいたのか、最後に指で拭うと体を離してくれた。清涼剤のような爽やかな香りが宙に溶けていく。
(……ああもう、どんな顔したらいいんだ。絶対いま顔赤いし、獅子井の前で泣いたのも恥ずかしすぎる)
俺はそろそろと体を小さくした。できればこのまま俯いてるか、どこかに隠れたい気分だったけど、どうしても伝えたいことがあって、頑張って顔を上げる。
「あの、ありがとう」
俺の話を真剣に、最後まで聞いてくれて。
「実は俺、誰にも本当の気持ちを打ち明けられなくて、ずっと独りよがりになってたんだ。友達にも家族にも、本当のこと話して同情されたくなかったっていうか。身近な人間だからこそ、本音を言えなかった。……獅子井には話して、がっかりされるかもってちょっと構えてたんだけど、俺の”逃げ”を弱いからじゃないって言ってくれたのすげえ嬉しかった。一番大事な『楽しい』って気持ちを忘れてたことも。……獅子井のおかげで思い出せた」
そう言うと俺は、息を吸いこんで見つめ返す。
「だから、ありがとう。俺、今日獅子井に話せてよかったよ」
獅子井がさっき微笑んでくれたみたいに、俺も唇を緩めて笑った。この前は「笑ってみろ」って言われて不格好な変顔しかできなかったけど、今日は心からの笑顔だった。
獅子井の眉毛がピクリと揺れる。いつも俺から逸らすことが多いのに、獅子井は何故かその瞬間、そっぽを向いていた。手を口元に当てながら、険しい顔つきでじっと黙っている。
「獅子井?」
金髪の隙間から覗く耳朶が赤い。もしかして俺が笑いかけたから、それで照れてるのか?
(え、いや、でも流石にそれはないか。だって可愛い子ならまだしも、俺だぞ?)
ありえないありえないと首を横に振る。つられて俺まで落ち着かない気持ちになってきたけど、なんとか言い聞かせた。油断すれば緩みそうになる唇を、必死に堪えて抑えながら。


