孤高の獅子が愛を吐くのは俺にだけ

 帰りのホームルームが終わり、千代野が「また来週ー!」と言って出ていくのを確認した後、俺はすっかり日課になった美術室へと足を運んだ。獅子井とは教室で一度も喋ったことがないから、行くときはいつもバラバラだ。大体獅子井のほうが先にいて、俺が入る時にはもう絵を描く準備が整えられてる。
 だから今日も眩しい金髪が一番に見えるんだろうな、とそんなことを頭に思い浮かべながら美術室の引き戸を開けた。
「あれ?」
 でもそこに獅子井の姿はなかった。代わりに見慣れない男の後ろ姿が目に飛び込んでくる。
「……ん?」
 その人も扉の開いた音に気付いたみたいで、ゆっくりと俺のほうに振り返ってきた。
「獅子井くん久しぶ——あれ?」
「っあ、す、すみません」
 俺は咄嗟に謝った。まさか他の人がいるとは思わなくて、慌ててこの場から離れようと後ずさる。
「あ、待って待って! もしかして君、陸上部の子じゃない!?」
「……えっ?」
 けど予想外の一言に足が止まる。
「やっぱりそうだ! 陸上部の弥坂航くん! 君の顔は何回も見せてもらったから覚えてるよ~!」
「……? な、何の話……ってか、なんで俺のこと——」
 駆け寄ってきた目の前の男は、優しそうな垂れ目を細めて、ニコニコと笑っていた。話はよく分からなかったけど、毒気のないその表情はこちらの気も緩んでしまうくらい、穏やかで温厚そうだった。
「あ、ごめんごめん! 急に馴れ馴れしくしちゃってビックリしたよね」
「い、いえ」
「僕は一方的に君のことを知ってたから、つい嬉しくなってはしゃいじゃったよ」
 そう言って恥ずかしそうに頬を掻くその人は、自分の胸に手を当てると、そっと微笑んだ。
「僕、美術部三年の三橋って言います。と言っても今はもうほとんど引退してて、今日は残してあった画材を取りに来ただけなんだけどね」
 俺は「はあ」と呟いた。名前を聞いても、この人についてピンとくるものが何もなくて、しいて言えば獅子井から聞いた、美術部には三人しかいないって話を思い出すくらいだった。
 たしか三年が一人と、幽霊部員が一人。三橋先輩? はそのうちの、三年の人に該当するんだろうな。
「弥坂くんはいつからここに来てるの?」
「あ……一週間前くらいから、です」
 先輩の質問に、俺は戸惑いながらも答える。
「そっかそっか。獅子井くん、やっと君に声を掛けられたんだね~」
 ……やっと? どういう意味だろう。
 俺が首をかしげると、三橋先輩は朗らかに笑ったまま言う。
「実は僕ね、君に会ったら見せたいものがあったんだよ」
「見せたいもの、ですか?」
「うん。たぶん獅子井くんは今女の子に呼び出されて遅れてると思うから、この隙に持ってきちゃおうかな。ちょっと待っててね」
 そう言うと三橋先輩は、何も分からないままの俺を置いて、足早に美術室の奥の扉の方へと歩いて行った。隣の準備室に繋がってるのか、ガチャッとノブを回して開けると、そのまま中に入って姿を消してしまう。
(……え? 待っててって……ここで?)
 まだ入り口で立ち尽くしていた俺は、とりあえず美術室の戸を閉めることしかできなかった。そのまま棒立ちしているのもアレなので、そろっと一番近くの椅子に座って三橋先輩を待つことにする。獅子井がまだ来ないのは、女子に呼び出されてるからだったのか、とそんなことを頭の中で反芻させながら。
「——お待たせ~!」
 三橋先輩はその後、数分もしない内に戻ってきた。手には大きなスケッチブックを三冊くらい抱えており、その内の一冊を俺に手渡してくる。
「はい、これ。弥坂くん見てみて」
「……あ、はい」
 碌な説明もなかったけど、とりあえず受け取って開いてみる。
「な、なんだこれ……?」
 けど、そこに描かれていたのは、平凡な見覚えしかない俺の顔。しかもどこを捲ってみても俺しかいなくて、これが写真ならストーカーか? って言いたくなるくらいの量。
 描いた本人は部活中の俺を観察してたのか、ほとんどが走ってる時の俺の姿だった。それが一ページに大きく描かれてるものもあれば、俺の顔だけズラッと並んでるのもあって、見ただけで異様な入れ込みと熱気を感じる。でも、不思議と怖いとは思わなかった。どの絵も真剣に描かれてることが分かったからかもしれない。
「それね、全部獅子井くんが描いたんだよ」
「……え、し、獅子井が!?」
「うん。たしか去年の夏頃からだったかな。獅子井くん、普段は人物画なんて描かないのに、突然狂ったようにおんなじ人ばっかり描き出してね。しかもここからよく外を見てるから、何かあるのかなって僕もこっそり覗いて見てみたら、絵の中の君がそっくりそのままグラウンドに居たんだよ」
 俺は三橋先輩の言葉を聞きながら、しばらく放心した。今日はまだカーテンが開いていて、窓の向こうには陸上部の練習風景が見えた。
 小柄な体でハードルを飛び越えているのは千代野かもしれない。宇崎の野太い声が聞こえてくるみたいだった。去年の今ごろは俺もあそこにいて、一緒に夢を追いかけていたことを思い出す。
(……なんで。なんで獅子井は、あの時の俺を——)
 グッと胸が苦しくなる。息が詰まって、まともに外を直視できない。俺は気を紛らわせるように、別のスケッチブックに手を伸ばした。
 二冊目も最初から最後まで俺しかいなかったけど、三冊目。表情がだんだん険しいものに変わってきて、見るからに笑顔が少なくなった俺の絵は、途中でパタリと描かれなくなっていた。
「……終わった?」
「それは弥坂くんがグラウンドからいなくなっちゃったからだね」
 三橋先輩が寂しそうに呟いた。心当たりしかない俺は、唇を噛んで俯いた。
「……先輩はなんでこれを……俺に見せてくれたんですか」
 部活に行かなくなった俺への当てつけ? それとも走ることを辞めた俺に対する、遠回しの圧?
「獅子井くんはね、君を描いてる時、本当に楽しそうにしていたんだ」
「……っ、え」
「僕はそれまで彼と話したこともなかったんだけど、どうしてもこの絵が気になって話しかけてみたら、少しずつ君のことを教えてくれるようになってね。物凄く夢中なんだなあって思ったよ。僕と会話してる時、獅子井くんは一度も君を描く手を止めなかったから」
 三橋先輩はその時のことを思い返すように、獅子井がいつも座ってる窓際の椅子に視線を移した。
「でも彼のことだから、きっと君にはこの話をしないでしょ。……僕はそれはもったいないなあと思ったんだ。君のことをずっと見てた人がいるって、僕のわがままなんだけど、君には知っておいてほしかったんだよ」
 微笑む先輩の瞳が、あたたかい色で満ちている。一瞬でも責められるかも、って勘違いした俺が恥ずかしくなるほど、優しくて穏やかな眼差しをしていた。
「初めて、知りました。獅子井が俺のこと……描いてくれてたの。でも、分かりません。どうして獅子井は、そんなに俺のこと——」
 続く俺の言葉は、突然開いた扉の音によってかき消された。
「後は弥坂くんの口から、獅子井くんに聞いてみてね」
 三橋先輩がそう言うと、扉のほうを見て声を上げる。
「獅子井くん久しぶり~!」
(えっ! 獅子井が来たのか!?)
 俺もバッと振り返ると、ちょうどこっちに向かって歩いてくる獅子井の鋭い視線とぶつかった。思わず心臓が跳ねて、口から飛んでいきそうになる。慌てて口を閉じたけど、あんな話をきいてしまった手前、どういう顔をしたらいいのか分からず、うろうろと机の木目を見つめた。隣で獅子井が足を止めたのが分かる。
「……何してた?」
「なにって、獅子井くんの大作を弥坂くんに披露してたんだよ~」
 ……ええッ!? 待って、これって獅子井には内緒じゃねえの!?
 俺は堂々とスケッチブックを見せびらかす三橋先輩に目を剥いた。てっきり俺たちだけの秘密にするものだと思ってたから、完全に不意打ちでラリアットでもくらった気分だった。
「じゃあ、僕は画材取りに来ただけだからもう行くね!」
 しかも帰るの早!?
「獅子井くんの元気そうな顔も見れたし、弥坂くんともおしゃべりできて楽しかったよ。また遊びに来た時は、二人とも僕のこと邪険にしないでね~」
 それじゃあまた、と手を上げた三橋先輩は、そのまま画材を抱えると、美術室を本当に出て行ってしまった。俺の無言の訴えは届かなかった。
 隣の椅子がガタッと音を立てる。右の肩が強張ったように動かないのは、そこに獅子井が座ったからだ。残されたスケッチブックもそのままで、爆弾だけを置いて去ってしまった三橋先輩は、ただの優しい先輩ってだけじゃないのかもしれなかった。
「え、えーっと」
 俺は渇いた口をなんとか開いて呟く。
「お、遅かったな獅子井。三橋先輩から聞いたけど、女子に呼び出されてたって本当か? やっぱモテる男は違うな……!」
 俺なんて、告白とか一回もされたことないから、羨ましいよ——。
 静かな空間に、哀れな俺の独り言が響く。もちろん顔は合わせられず、目はひたすら机の模様を追ったまま。隣の獅子井が足を組む、衣擦れの音がした。
「——たいして知りもしねえ奴から好きだって言われて、そこに何の意味がある?」
「えっ?」
「お前のことも待たせたし、時間も無駄になっただけだろ」
 吐き捨てた獅子井の顔を、思わず見上げた。相変わらず読めない表情をしてたけど、その言葉は俺との時間のほうが大事だって言ってるみたいで、胸がそわりと膨らんだ。
「……あの、さ。獅子井はなんで……俺のこと、こんなに描いてくれたんだ?」
 だから気になってた疑問が、つい口からぽろっとこぼれ落ちる。
「全然そんな素振りなかったのに、本当はここからずっと、俺のこと見てたのか?」
 獅子井は微かに目を細めた。思い出すように窓の外に視線を向けて、薄い唇を開く。
「お前の走る姿が、頭ん中にこびりついたまま離れなかったから」
「……っえ、走る、姿?」
「あんなに心臓が熱くなったのは初めてで、描きてえって欲が、描いても描いても収まらなくなった。……オレはお前の走りに、魅せられたんだよ」
 ——しなやかに動く筋肉も、バネのように伸びる手足も、『楽しい』って感情をあふれさせながら太陽みたいに輝く目も。
「時間も忘れるくらい、夢中になった。お前を見れねえ時は脳に焼き付いた姿で補完して、ひたすら描き殴った。朝起きてから、力尽きて眠りにつくまで、お前のことを考えない日はなかった」
 獅子井の淡々とした低音が、徐々に俺の心臓を落ち着かなくさせる。
「けど、それも一時的なもんだと思ってオレは楽しんでた。こんな機会滅多にねえから、飽きるまでとことんハマってやろうって。……まさかお前が走るのをやめて、オレが何一つ満足に描けなくなるとは思いもせずにな」
 ギロッとナイフのような視線が俺を刺した。憎々し気なその目つきは、少し前までの獅子井の姿とリンクする、俺の中で見覚えがあるものだった。
「も、もしかして……、俺と目が合うたび睨んできてたのってそのせいか?」
「……馬鹿みてえだろ、たった一人のせいで好きな絵も描けなくなるとか。お前がいねえと成り立たない絵描きになんか、何の価値もねえ。認めたくなくて、こっちも必死だったんだよ」
 獅子井が眉間の皺を揉むように押さえ、ため息を吐く。
「けど、お前が何度も体育倉庫の裏手に向かうのを見てたら、オレもほとんど衝動的に足が動いてた。もうなんでもいいから、あの時の熱を思い出したくて、弥坂を描いてみたくてしょうがなかった」
 美術室の窓からは、グラウンドとその隅に設置された体育倉庫が見える。なんで獅子井が俺のいるところに来れたのか分からなかったけど、毎日未練たらしく音だけ聞きに行く俺のことを、ここから見てたんだ。
(俺が部活に行かなくなったのは一年の秋。そこからこっそり体育倉庫に向かいだしたのは一年の冬。初めて話しかけられたのはつい数日前で……、獅子井はその間、ずっと描けないことに葛藤してたんだ)
 永遠だと信じてたものが、ある日突然壊されるあの感覚。それに勝る恐怖を、俺はまだ知らない。
「……弥坂。オレはもう認めた。お前なしじゃ、オレの絵描きとしての才は発揮できねえって。――だから聞かせろ」
 切れ長の透き通った瞳が、俺をじっと見つめる。
「なんで、お前は走るのをやめた?」