孤高の獅子が愛を吐くのは俺にだけ

 獅子井は何も尋ねてはこなかった。俺が美術室に顔を出すと、初めて呼ばれた時と同じように、ただひたすら絵に向き合っているだけだった。きっと興味なんてなかったからだと思うけど、そのおかげで俺も変に身構えず過ごすことができた。
 やっぱ言いたくないことを探られるのって疲れるから。最初は恐ろしく感じた視線も、毎日通っていけば自然と慣れて、ぽつぽつと会話も交わすようになった。
 俺の要望でカーテンと窓を閉め切った美術室は、教室で練習している吹奏楽部の音色が届くほど静かだ。軽快に走る鉛筆の音と混ざり合って、ついあくびが漏れそうになる。
「……そういえば」
 俺はトランペットの明るいメロディに耳を傾けながら、呟いた。
「美術部って、他に部員はいないのか?」
 ここへ通うようになってから、もう既に一週間。4月もあと少しで終わるけど、俺はいまだに獅子井以外の生徒を美術室で見かけたことがなかった。時々廊下を通る人の気配を感じるくらいで、一年生が見学に来る様子もなく、俺たちはずっと二人きりだった。
 まさか一人ってことはないよな? そう思いじっと返事を待っていると、獅子井が鉛筆から手を離さないまま口を開く。
「三年が一人と、名前だけの幽霊部員が一人」
「え、じゃあ獅子井も合わせて三人だけってこと?」
「ああ」
 それ以上の説明はない。だからなんだと言わんばかりに、鋭い眼光が向けられる。
「いや、あの……もし誰か来たら、こんなとこで課題してる俺のこと、邪魔に思うんじゃねえかなって気になってさ……」
 そう話す俺の前には、広げた英語の教科書とノート。そして、あの日から毎日用意されてるバナナミルク。獅子井は対面の椅子に座って絵を描いてるけど、傍から見たら、俺だけ完全に図書室と勘違いしてる人だ。頼まれて絵のモデルをしてる人とは誰も思わないだろうな。
「別にオレが何しててもいいって言ったんだからいいだろ」
 獅子井がぶっきらぼうに告げる。
「どうせ誰も来ねえし、堂々としてろよ。今のお前はオレにしか見られてねえんだから」
「……あ、た、たしかに」
「それとも誰かに文句でも言われたか?」
「えっ?」
 感情の読めない瞳が俺を刺した。
「この前お前に詰め寄ってたアイツとか――」
「あっ、違う違う! 全然そんなんじゃねえから!」
 宇崎のことだと、気づくのは早かった。まさか獅子井の口から出てくるとは思わなかったけど、流石に濡れ衣を着せるわけにはいかず、俺は慌てて首を横に振る。
「ほんと、ちょっと気になっただけだ! 部員でもねえのに、俺すげえくつろぎすぎちゃってるからさ! このまんまで、本当にいいのかなって……っ」
 それこそつい、あくびも出るくらい。獅子井の役に立ってるのかも分からないまま、ただ座ってるだけで、もらったバナナミルクを飲みながら課題をする。他の人が来たら、絶対こいつ何やってんだ? ってなる。――俺の一番の気がかりはそこだった。
(俺、本当に獅子井の助けになれてる? 毎日律儀にジュースくれるけど、その分の働きにちゃんと見合ってるのか?)
 俺は口をつぐむ。獅子井の眉間がピクッと深くなって、動いていた鉛筆の音が止まった。
「余計な心配すんな。オレの欠陥解消できんのは、お前しかいねえんだから」
 ……え? 欠陥を解消?
「でもそんなに気になるんだったら、笑顔の一つくらい見せてみろ。なんなら怒ってる顔でも、泣いてる顔でもいい。……無気力にぼうっとしてる顔以外だったらなんでも」
 静かに、だけどはっきりとした口調だった。俺は一瞬、何を頼まれたのか理解ができなくて、睫毛を何度か上下に揺らした。
「えっと……お、怒るのと泣くのは難しいけど、笑うくらいなら?」
 それくらいならできるだろうと、無理やり口角を釣り上げてみる。けど頬が痙攣したように引き攣る。獅子井はげんなりした表情で、目を薄く細めた。
「弥坂、それ本気でやってんのか?」
「……っ、は!?」
 俺は顔が一瞬で熱くなった。
「な、なんだよ! 言っとくけど面白くもねえのに笑うのって難しいんだからな!?」
 燃え移ってくみたいに、じわじわと熱が広がる。俺は握りしめたシャーペンと一緒に、今すぐどこかに隠れたくてしょうがなくなった。
(クソっ! 俺だって慣れねえことしたのに!)
 恥ずかしい。求めてんのはこういうことじゃねえのかよ! せっかくだから俺も獅子井の役に立ちたかったのに、まさかこんな辱しめを受けるなんて。
 俺は半ば逆ギレっぽく叫ぼうとして、ふと、肌に痛いくらいの視線を感じた。
「……いい」
「え?」
「いいな、それ」
 仰ぎ見た獅子井の瞳が、光を持ったように輝いている。まさに水を得た魚って感じの、俺を焼き尽くそうとするほど強烈な熱視線で。体を貫通して、背筋がゾクリと震える。
「し、獅子井?」
 俺の呼びかけに返ってくる言葉はない。獅子井が何かを描き殴る勢いで、スケッチブックに鉛筆を走らせ始めたからだ。
(うわ、すげえ気迫……)
 声を掛けるのも憚られ、俺は大人しく口を閉じる。完全に集中してる時は何も聞こえなくなるようで、俺にも覚えがあるその感覚は、なんだか懐かしくて、少し羨ましい。
 一体何が獅子井の琴線に触れたのかは分からない。けど、これが少しでもスランプを抜け出せるきっかけになってくれれば良いと思った。
***
 五月に入れば、周りは次々と体育祭モードに切り替わる。それは俺も例外じゃなく、クラスでは今から体育祭の種目決めが始まるところだった。
「じゃあ皆、やりたいやつに名前書きに来てくれ」
 クラス委員長の宇崎が教室の前に立って、10個くらいの種目と人数が書かれた黒板を指差す。
「ちなみに選抜リレーは俺のほうから声掛けるけどいいよな? この前やった体力テストで、速かった奴から順に」
「異論なーし」「全然いいよ~」「適当に足速い奴頼むわー!」
 椅子をガタガタと引きながら、皆口々にそう言い返す。きっと宇崎が陸上部だと知った上で、リレーは得意な奴に任せようって魂胆だ。俺も体力テストは力を抜いて走ったから、他に誰かが選ばれるだろうと思って何も言わなかった。
「——(わたる)はなにやんの?」
 席を立って人だかりの後ろから黒板を眺めていると、後ろから名前を呼ばれる。振り返れば俺の友達——千代野(ちよの)(しゅん)がいた。
「なにって、空いてるやつやろうと思ってるけど」
「ふーん。ちなみにオレはリレーと騎馬戦」
「ああ、上に乗せるには適任だもんな」
「なんだとこら」
 片手で小突いてくる千代野の背丈は、残念だけどクラスの男子の中では一番小さい。しかも顔も童顔で可愛いから、よく女子に間違えられる。俺はこいつと遊びに行って、何度勘違いナンパ野郎が返り討ちに遭うシーンを見たか分からない。
「じゃあまだ決まってないなら航も一緒に騎馬戦やろうぜ」
「……騎馬戦? 俺激しいのあんま好きじゃねえんだけど」
 だって上に乗るならまだしも、下で支える方はもみくちゃになって潰されるだろ。
「えーそしたら玉入れとか? あ、ムカデ競争も面白そうだぞ」
 てか人空いてんならオレやっちゃおうかな、なんて呟いてる千代野は、華奢な見た目に合わずゴリゴリのスポーツ大好き少年だ。誰が何種目まで、みたいな制限はないけど、下手したら全部やりたいって言いだしそうな雰囲気さえある。
「その前に一旦騎馬戦のとこ名前書いてきたらどうだ?」
「お、それはたしかに」
 じゃあちょっと行ってくるわ、と大人しく頷いた千代野が黒板に向かっていった。俺はその後ろ姿を見守りながら、チラッと背後に視線をやった。
 窓際の日に当たる席で、うつ伏せに寝ていた獅子井が宇崎に話しかけられている。急に顔を上げたからか、すぼめた目が眩しそうだ。
「——獅子井君、今年も走ってくれるのかな」
「ね、去年超カッコよかったから、また見たいよね」
 隣でこそこそと話す女子の会話が耳に入る。俺は気になって、つい「何の話?」と聞き返していた。
「え、弥坂覚えてないの? 去年の選抜リレーで獅子井君走ってたじゃん」
「……獅子井が?」
「そうそう。ああいうタイプって、怠いから走んない~とか言いそうだけど、獅子井君意外と真剣に走ってくれてさ。それがもう恰好よすぎて、女子みんな盛り上がってたんだから」
「けっこう黒い噂もあったのに、あれで一気にイメージ変わってガチ恋増えたもんね」
「んね! 髪縛ってるのも何気ヤバかったし……! わたし、あのご尊顔に手合わせて拝みそうになったもん」
「っえ、待って分かる! マジであれは神だった……っ!」
 だんだんテンションが上がってきた二人を横目に、俺も記憶を掘り起こしてみる。そういえばアンカーで一位を取った俺に対して、よくやったと駆け寄ってきたのは男連中だけで、女子の視線は別のものに吸い寄せられていた——ような。そんな記憶が浮かんでくる。
(俺は集中してたから周りのこと全然気にしてなかったけど、そっか。獅子井って足も速いのか)
 もう一度、獅子井のほうを覗き見てみる。すると何故か、切れ長の綺麗な瞳とバチッと目が合って、俺はすぐに顔を逸らした。心臓がビックリするほど跳ねて、咄嗟に押さえるようにシャツの胸元を握った。
「——弥坂」
「うわッ!?」
 まさか獅子井が来たのか!? と思って横を向くと、そこには勇ましい顔つきをした宇崎。
「なんだ……宇崎かよ」
「……お前は俺が話しかけるたびにそうやって顔をしかめるな」
 だって口を開けば「部に戻れ戻れ」うるさいし。当然だろ。
「弥坂」
「……なんだよ」
「選抜リレー、弥坂は出る気ないか」
「は?」
 俺は思わず口をパカッと開けた。これまで散々嫌がってる態度を出してきたのに、部活以外でも誘ってくる奴がいるか! と信じられない気持ちでいっぱいだった。
「で、出るわけねえだろ。てか体力テストのタイムで決めるんだったら、俺より速い奴なんていくらでも——」
「お前が本気で走ってなかったのは知ってる。本気を出せばこの中の誰よりも速いのに、あんなものタイムとは言えないだろう」
 まっすぐすぎる宇崎の視線が痛い。冗談なんかで言ってるんじゃないと分かるからこそ、力を抜いて走った俺を責めているようでもあり、見えない心の内側がジクジクと膿んでくみたいに重くなる。
「おい誠一。また航に絡んでんのか」
 戻ってきた千代野が宇崎の肩を掴んだ。
「俺は無理強いはしてない」
「そうかよ。だったらさっさと航の代わりでも探して来たらどうだ? あ、サッカー部の江川とか、さっきすげえリレー出たそうにしてたぜ」
 宇崎が険しい表情のまま顔を上げる。その目先の先には、チラチラとこちらを気にする様子の江川がいる。
「……はあ、あいつか」
 宇崎はそう言うと、俺を一目見てから仕方なさそうに、江川のほうへと歩いて行った。俺は無意識に止めていた息を吐き出した。
「悪い。千代野」
「おいおい、こんなことで謝んなって。オレはただお前よりも適したヤツがいると思って推薦しただけだから」
 千代野が俺の背中を優しく叩く。小柄な身長に対して誰よりも男前な千代野は、俺が部活に顔を出さなくなっても詳しく聞いて来ようとはしなかった。中学の時から一緒に陸上を続けてきた友達だけど、そっとしておいてくれるのをありがたく思うのと同時に、俺は自分自身が情けなくて、上手く目を合わせられなかった。
(……いつまで俺はこんなことを続けてるつもりなんだ)
 やめたいならさっさと諦めればいいのに。それすらもできない自分に腹が立つ。
「ねえ獅子井君こっち見てない?」という女子の声は、きれいさっぱり俺の耳を通り抜けていった。