孤高の獅子が愛を吐くのは俺にだけ

 俺はコンクリートの壁に背を預け、空を見上げていた。茜色に染まり始めた雲は、グラウンドに引かれた白線のように細長い。膝を伸ばすと、つま先が鉄のフェンスに当たってカシャンと揺らす。
 そのまま背中をずるずると下げた俺は、瞼を閉じ、耳を澄ませた。
 甲高く鳴るホイッスル。地面を蹴る力強い足音。
「11秒29! 11秒58!」野太い声で、高らかに読み上げられる数字。――砂利を踏みしめる、誰かの靴音が傍で聞こえたような気がした。
(……え? なんだ?)
 こんな雑草しかない体育倉庫の裏に、誰か来たのか?
 俺は咄嗟に目を開け、崩していた体勢を起こした。逃げ場はなく、唾を飲んで、近づいてくる気配に声を押し殺す。
 角から現れたのは、目の覚めるような金髪を肩で流した男。どうしてここに、と呟く俺の疑問は、風と一緒に宙へ溶けた。
「――お前」
 切れ長の、鋭利な瞳と視線がかち合う。
「暇ならオレのモデルになれよ」
 指示口調で、堂々と俺に告げてきたその男は、『孤高』と呼ぶにふさわしい校内の有名人。
 ――獅子井(ししい)恭介(きょうすけ)その人だった。

 二年に進級してから約二週間とちょっと。率直に言うと、俺は獅子井のことが少し怖かった。同じクラスになってからというものの、教室で目が合うたび、何故か睨まれることが多かったからだ。
 元々目つきが鋭いから、最初はそれがデフォルトなのかと思ったけど、多分違う。やけに合う視線はいつも俺を突き刺すようで、親の仇を見るようでもあった。
 もちろん、理由も心当たりも全くない。ただ嫌われてるんだろうな、という漠然とした予想があるだけ。でも、それならそれで関わらないようにしたらいいだけだと俺は考えていた。
 触らぬ神に祟りなしってよく言うし。俺から話しかけなければ、一匹狼の獅子井が接触してくることもないと、そう高を括って。だけど、それがまさかこんなことになるとは。
 
 前を歩いていた獅子井が、「美術室」と書かれたネームプレートの下で足を止める。そのまま戸を引いて入っていくので、俺も恐る恐る後を追う。
 結局獅子井の誘い? を断れなかった俺は、のこのこと後ろをついていくことしかできなかった。
 しかも美術室に入るのも初めてなので、物珍しさから周りをキョロキョロと見回す。六人掛けくらいの机が6つくらいと、壁に飾られた何枚かの絵。奥の窓際近くには、キャンバスを置く台みたいな物がある。獅子井はそこまで歩いていくと、ようやくこっちを振り返った。
「弥坂」と呼ばれ、何かを放り投げられる。弧を描くように飛んできたそれを、俺は慌ててキャッチする。手のひらがじんわりと冷え、角ばった形をしたそれは――。
「……ジュース?」
「それでも飲んでそこ座ってろ」
 獅子井は顎で席を指し示した。渡してきたのは、紙パックのバナナミルクだった。自分から誘った手前、一応これが「報酬」って意味なのか。俺はそんな気遣いをする奴だとは思ってもみなかったので、正直面食らった。
「あ、ありがとう……」
 戸惑いつつもお礼を言って、指定された椅子に座る。
 獅子井も俺の正面にある台座の前に腰を下ろすと、自分の髪を一つに縛った。顔周りがすっきりして、人目を引く美貌がさらにはっきりと現れる。男の俺でも視線が吸い寄せられるほど、圧倒的「強者」の顔つき。教室で思わず見てしまうのも、そのせいだった。
「……し、獅子井。俺、なんかポーズとか取った方がいいのか?」
「いや、お前はそこに居てくれるだけでいい」
 ……え、居るだけ? モデルって言われたからちょっと身構えてたのに、けっこう簡単な仕事なんだな。
 俺はそんなんでいいのか不思議だったけど、獅子井は関係なく鉛筆を走らせ始めた。芯を軽快に滑らせながら、時折貫くような視線を向けられる。全てを見透かして、心の内側を無理やり暴こうとしてくるような、底力のある眼光だ。心臓がそわりと浮足立ち、俺を落ち着かない気分にさせる。
(簡単だと思ったけど、これにずっと見られんのは、なんか……ちょっと)
 俺は怖気づいたのを誤魔化すように、握りしめた紙パックからストローを抜き出した。穴に刺し込んで、そのまま中身を一気に吸い上げる。なめらかな甘さが口いっぱいに広がる。
(あ、これけっこううまい……)
 バナナは一時期「毎日」食べてたけど、ジュースは初めてかもしれない。まろやかさが加わった豊潤な甘みに、肩のこわばりが解ける。また今度自分で買って飲もう、とそんなことを考えるくらいには気に入った俺は、ふと、頬を撫でる風の肌寒さに気がついた。
 窓が開いている。その向こうにはグラウンドが広がっている。部活中の生徒が走って、跳んで、また走っている風景。
 俺は目を逸らした。聞こえてくる喧騒に蓋をするように、適当に口を開く。
「そういや獅子井って――」
 でも最後まで言えなかった。いつの間にか手を止めていた獅子井が、静かに、じっと何かを訴えかけるような瞳でこっちを見ていたからだ。
「……お前、」
「えッ、なに?」
 ビビッて声を上擦らせる俺に、
「……いや、やっぱいい」と獅子井は顔を伏せ、また鉛筆を動かし始めた。描きながら、「お前は何言いかけた?」と尋ねてくる。
「っあ、俺はただ……獅子井が美術部だったってことを思い出して……」
 別に直接聞いたわけじゃなく、女子が「ギャップヤバい!!」って騒いでいるのを耳にしたことがあったから、俺も知ってただけだけど。
「……意外って顔だな」
「え? あ、まあ……それは、そうだろ」
 美術部って言えば、やっぱどこか大人しいイメージがある。それこそおさげの女の子とか、物静かで真面目そうな男とか。
 でも目の前の獅子井は、どこからどう見てもいかついヤンキーにしか見えなかった。実はヤのつく家の人って聞いても、ああそうなんだって俺が納得するくらい。実際そういう噂が出回ってた時もあったし。
「オレは指先だけで表現できる絵が好きなんだよ」
 獅子井がぽつりと呟いた。
「言葉にできねえ衝動も感情も、ここに線を走らせるだけで吐き出せる。……燻った熱も、行き場のない昂りも、全部な」
 獅子井はもしかしたら、いま物凄く高尚なことを言ってるのかもしれない。でも俺には芸術の心なんてものが微塵もないので、言葉以上の意図を汲み取ることはできなかった。
「そうなんだ」、と返すと、また静かな空間が訪れる。俺は手持ち無沙汰にバナナミルクをズズッと吸う。相変わらず外の活気に胸はざわつくし、獅子井に観察されるのも落ち着かない。後悔とまではいかないけど、俺は本当にここに来るのが正解だったのか――それすらも思いあぐねてしまう。
(獅子井が何考えてんのかも、全然分かんねえし)
 ピクリともしない表情は、笑顔さえも想像できない。笑うことなんてないんじゃないかって、俺は失礼なことを考える。
 でも嫌われてるかもしれないって予想だけは、段々と払拭されつつあった。こうやって真剣に絵に取り組んでる姿は真面目な美術部員そのものだし、俺を睨んできたりもしない。じゃああれはなんだったんだって聞くにはまだ勇気が足りないけど、少なくとも今の獅子井に対して、恐怖が薄れかけてきているのは事実だった。
「――チッ、全然ダメだ」
 そんなことを考えていると、獅子井が鉛筆を置いた。ゴムを解き、髪をかき上げ、まっすぐ俺を見つめる。
「お前、明日からもここに来い」
「……えっ」
 俺は数秒、思考が停止した。
「な、なんで? 今日だけじゃねえの?」
「どうせ暇なんだからいいだろ」
 きっぱり言い切る獅子井に適当な言い訳を並べようとしたけど、何も出てこない。
「……それに、」
 獅子井が一つ息を置く。
「オレは誰かさんのせいで、今絶賛スランプ中なんだよ」
 歯ぎしりが聞こえてきそうなほど、悔しげな表情に変わった。認めたくないけど、認めざるを得ないって感じの、プライドと現実の狭間に押しつぶされそうな声色だった。
(……あ。獅子井も、そんな風に悩むんだ)
 俺は思い出す。どれだけ足掻いてもツタに絡まったように引きずり降ろされる、あの感覚を。息もままならなくて、喉の奥が詰まって、暗い海の底へ溺れるように沈んでいく絶望のことを。
「あ、あのさ、獅子井が今描いたやつ……俺も見てみたいんだけどいい?」
 俺は胸に響く強い拍動を感じながら、背筋を伸ばした。眉をピクリと揺らした獅子井が台座を向けてくれるのに合わせて、それを覗き込む。
「え、すげえ上手いじゃん」
 当然だけど、そこに描かれていたのは俺の人物画。短い黒髪に、のっぺりした顔を乗せた男が、窓の外に視線を送っている。特徴という特徴もないのに、一目で俺だって分かる。これでスランプだって言ってるのが全然信じられない。
「俺からしたら十分だけど……」
 むしろ鉛筆だけでここまで表現できるって、普通にすごくねえか?
「いや、こんなのは誰にでも描ける、ただの『お上手』な絵だ」
 獅子井は声を尖らせた。
「オレはな、もっと滾るような絵が描きてえんだよ。もうそれしか目に入らねえってくらい強烈で、鮮やかで、心臓が沸き立って、飢えと渇きを覚えるほど、頭ん中がいっぱいの熱で支配される――そんな衝動と魂がかかった絵を描きてえんだ」
 凄んだ視線が頬の皮膚をピッと震わせる。
 獅子井はもしかすると、生粋の芸術家なのかもしれない。俺はふと、そんなことを頭に浮かべた。
「前はそんな絵が描けてたのか?」
「ああ。去年の秋ごろまではな」
 去年の秋……。俺がちょうどどん底に落ちた時期と似ている。
「……一つ聞きたいんだけど、なんで俺なんだ? 手伝ってくれる奴なら、きっと他にも――」
「ちょうどいい暇人がそこにいたから」
 頑なな返事だった。一切逸らそうとしない獅子井の眼差しに、俺はまた怯みそうになったけど、踏ん張った。夢に向かって突き進む姿は素直にカッコいいし、先の見えない暗闇を駆けずり回る気持ちは、俺にも痛いほど理解ができたから。
「分かった」
 俺は覚悟を決めて頷く。獅子井の目をまっすぐ見つめ返した。
「お前の力になれるかは分かんねえけど……、俺でよかったら手伝わせてくれ」

 その後、獅子井は片付けてから帰るというので、俺は一足先に美術室を後にした。外はもう日が落ちかけていて、藍色混じりの幻想的な夕焼け色が空を覆いつくしていた。
「――おい弥坂!」
 空がいつもより清々しく映るのは、気分が良いからなのか。心持ち足取り軽く、俺は薄暗い廊下を歩く。
「おい弥坂(わたる)!  聞こえてるだろう!!」
 ……ああもううるせえな。いちいちフルネームで呼ぶなよ。
「ッ、おい!!」
 俺は背後から近づいてくる騒音に、ため息を吐きながら振り向いた。小走りで駆けてきたのは、涼し気なスポーツウェアを着た男、宇崎(うざき)誠一(せいいち)だった。
「なんだよ」
「なんだよ、だと? それはこっちのセリフだ。なんで弥坂がこんなところにいる?」
 宇崎の太眉が釣り上がる。俺は面倒な奴に引っかかったと、浮いた気分を下げずにはいられなかった。
「別にお前には関係ないだろ。宇崎こそこんな時間に校内にいるのはおかしいんじゃねえか」
「……俺は職員室に行ってた」
「職員室?」
 なんでまたそんなところに。
「顧問に呼ばれてな。……次の部長を、俺に任せたいと相談を受けたんだ」
 俺は、宇崎の黒すぎる黒目を見つめ返した。三年は今年の夏で引退だから、前もって話をされたんだろう。こいつは責任感もあるし、皆をまとめる力もあるから、そうなるんじゃないかと俺は薄々思っていた。多分、他の奴らも聞いたら賛成するだろうな。……まあ、今の俺には何の関係もねえんだけど。
「そっか。頑張れよ」
 そう言ってさっさと離れようとする俺の肩を、宇崎が力強く掴んだ。
「おい……っ」
「まだ戻ってこないつもりか?」
 硬い声が廊下のタイルに落ちる。
「弥坂はそれでちゃんと納得してるのか? あんなに走るのが楽しくて、生きがいだと笑っていたお前は、本当にそれでいいと――」
「ッ、うるせえな……!!」
 俺は宇崎の腕を振り払った。一瞬で詰まった息が、頭の奥で小爆発を起こして、カッと頬を熱くさせた。
「もうほっといてくれよ! もうお前には関係ねえんだから……ッ!」
「――なにやってんだ?」
 張り詰めた空気に、落ち着いた低音が挟まる。
「しっ、獅子井」
 いつの間にか美術室から出てきてたらしい。感情の見えない瞳がこっちに標準を合わせてくるのに対して、俺は一歩後ずさった。宇崎が気を取られてる隙に、そのまま昇降口に向かって駆け出す。
「おい弥坂っ!」
 叫ぶ宇崎の声は無視した。背中に突き刺さる視線の中に、なんとなく獅子井のものが混ざっているような気がしたけど、振り向けなかった。やりたいことにまっすぐなあいつに、俺は自分の弱い部分を知られるのが怖かったんだ。