歌舞伎町の喧騒から少し離れた、築年数の古いマンションの一室。
ユウキの部屋は、レンの言う通り“ただの寝床”だった。
「……マジで狭ぇな。お前、これ人間が住む広さかよ」
レンは金髪をかき上げ、唯一の椅子へ座ったまま悪態をつく。
「ほとんどBARにいるし、ここは寝る以外に使わないからな。文句あるなら帰ればいい」
ユウキは銀縁メガネを押し上げ、淡々と言い返した。
百八十センチの長身が狭いキッチンへ立つだけで、部屋の圧迫感が増す。
MIUはベッドの端へ小さく座り、落ち着かなそうに周囲を見回していた。
さっきまでBARで話していた内容が、この部屋の空気を重くしている。
MIUには帰る家がないこと。
今はレンのワンルームへ居候していること。
それを聞いたユウキが、「俺の部屋も使っていい」と言い出した。
急遽、この“内見”みたいな相談会が始まったのだ。
「MIU、俺の部屋でもいいが……見ての通り、男一人が寝るためだけの場所だ」
ユウキが差し出したマグカップを、MIUは両手で包み込むように受け取る。
「ううん、十分だよ……。でも、私、居場所ない時はゲームセンターとかにいるから、そんなに気にしないで……」
弱々しく笑った瞬間。
男二人の声が重なった。
「それはダメだ」
「ゲーセンなんて危なすぎるだろ」
レンが身を乗り出す。
「ナンパか補導の格好の標的だぞ」
ユウキも、静かだが威圧感のある声で続けた。
「夜の街を彷徨わせるわけにはいかない。君がどれだけ危ういか、自覚した方がいい」
レンは唇を噛む。
本音を言えば、MIUを自分の部屋から離したくない。
けれど、いつ警察が来るかも、ヤバい客が乗り込んでくるかもわからない部屋へ、パニック発作を抱えたMIUを置いておくのは危険すぎた。
だからといって。
ユウキと二人きりで住まわせるのも、もっと耐えがたい。
ユウキがMIUを見る視線には、自分と同じ“熱”がある。
それが痛いほどわかっていた。
二人の時間が増えれば、MIUの心は自分から離れてしまうかもしれない。
そんな独占欲と嫉妬が、胸を焼く。
沈黙が落ちる。
不安そうに見上げるMIUの、折れそうな肩を見た瞬間、レンは一つの結論へ辿り着いた。
誰か一人が抱えるには、この女は脆すぎる。
そして、愛おしすぎた。
レンは椅子から跳ねるように立ち上がる。
「……よし。シェアハウスだな」
「シェアハウス?」
ユウキが怪訝そうに眉を寄せた。
「ああ。三人で住むんだよ。広めの部屋借りてさ。それならMIUを一人にさせなくて済むだろ」
レンは不敵に笑う。
これなら、MIUを危険から遠ざけられる。
ユウキへ独り占めされることもない。
「……なるほど。合理的ではあるな」
ユウキが、メガネの奥で静かに瞳を細めた。
重苦しかった空気が、少しずつ“計画”へ変わっていく。
レンはスマホを取り出し、MIUの隣へどかっと腰を下ろした。
「ほら、MIU。しけた顔してねーで見ろよ」
画面を差し出す。
「シェアハウス。俺も初めてだから詳しくねーけど、こういうとこなら寂しくねぇだろ?」
そこには、広いリビングや、清潔感のあるキッチンが映っていた。
MIUは驚いたみたいに目を丸くし、そのまま吸い寄せられるように画面を覗き込む。
「……ほんとに、みんなで住むの……?」
「ああ。ユウキの店にも近くて、セキュリティちゃんとしてるとこ探す。お前が一人で震えてなくていい場所だ」
その言葉へ、MIUの瞳がぱっと明るくなる。
彼女にとって“家”は、暴力や悲しみの場所でしかなかった。
けれど、画面へ並ぶ明るい家具は、今まで見たことのない“おもちゃ箱”みたいに見えた。
「ねぇ、レンくん、ユウキくん! 私、これ座ってみたい……!」
震える指先が示したのは、大きなビーズクッションだった。
「これね、SNSで見たの。“人をダメにするソファ”っていうんだって」
MIUが小さく笑う。
「私、これに沈んで、溶けちゃいたいな。一日中、何もしないで、ふわふわしてたい……」
「はは、いいじゃねーか。ダメ人間決定だな。一番でかいやつ買ってやるよ」
レンが笑うと、MIUの頬へ久しぶりの赤みが差した。
彼女は夢中で画面をスクロールする。
まるで宝探しをする子供みたいに。
「あとね……ベッドは、ラブホテルみたいにすっごく大きいのがいいな」
「……三人で?」
ユウキが少し困惑したように眉を上げる。
MIUは無邪気に頷いた。
「うん。起きた時に、右にも左にも二人の体温があるの。それってたぶん……世界で一番安心すると思うから」
その夢は、二人の間へ流れていた嫉妬や緊張を、一瞬で無力化するくらい純粋だった。
MIUが、生きようとしている。
その事実だけで、今は十分だった。
「わかったよ。キングサイズでも特注でも、MIUが溺れるくらい大きいやつを用意しよう」
ユウキが穏やかに頭を撫でる。
MIUは二人の顔を交互に見て、花がほどけるみたいに笑った。
「楽しみ……。こんなに素敵なこと、あってもいいんだね」
レンは、その眩しさへ目を細める。
「……私、生きてていいんだよね?」
その言葉は、あまりにも切実だった。
「あたりまえだろ。思う存分、のびのび生きてやろうぜ」
レンはスマホを置き、真剣な顔でMIUを見る。
「なあ、MIU。……お前、時々すげぇ苦しくなるだろ?
息できなくなったり、泣き止めなくなったりさ」
パニック状態になる時の、虚ろな目。
レンは、それを知っていた。
「病院とか、行ってんのか?
落ち着く薬とか、持ってねぇの?」
その瞬間。
MIUの笑顔が凍りついた。
さっきまで未来へ向いていた瞳が、一瞬で暗く沈む。
「病院は……行ってない。お薬も、ないよ」
声は蚊みたいに小さかった。
自分の腕を抱き込むようにして、震え始める。
「……怖いの。病院……」
白い壁。
無機質な部屋。
鍵の音。
「前に行った時、私が泣きながら話してたら、『落ち着くまでここにいなさい』って、冷たい個室に閉じ込められたの」
助けを求めて行った場所で、“異常者”として扱われた。
「必死で……逃げたの。あそこ、私を助けてくれる場所じゃない」
涙が頬を伝う。
その震えを止めるみたいに、レンは肩を強く抱き寄せた。
「……そうか。怖かったな」
低い声が、ゆっくりパニックを鎮めていく。
「でも次は、俺が一緒に行ってやる」
レンは言い聞かせるみたいに続けた。
「いいか、MIU。もう一人じゃねぇんだよ。医者がお前に変なことしようとしたら、俺がぶちのめしてやる」
「レンくん……」
「なんか良くなる方法があるなら、それでいいだろ。薬必要なら、俺がちゃんと管理してやる。お前を一人で暗い部屋なんか閉じ込めさせねぇ」
額と額をそっと合わせる。
「安心しろ。一緒なら守ってやれる。もう、何も怖くねぇ」
MIUはレンのシャツをぎゅっと掴み、何度も頷いた。
ユウキはその様子を静かに見守りながら、MIUを支える“責任”の重さを改めて噛み締めていた。
歌舞伎町の夜は相変わらず冷たい。
それでも、この狭い部屋の中だけは。
三人の体温が混ざり合い、確かな盾になろうとしていた。
ユウキの部屋は、レンの言う通り“ただの寝床”だった。
「……マジで狭ぇな。お前、これ人間が住む広さかよ」
レンは金髪をかき上げ、唯一の椅子へ座ったまま悪態をつく。
「ほとんどBARにいるし、ここは寝る以外に使わないからな。文句あるなら帰ればいい」
ユウキは銀縁メガネを押し上げ、淡々と言い返した。
百八十センチの長身が狭いキッチンへ立つだけで、部屋の圧迫感が増す。
MIUはベッドの端へ小さく座り、落ち着かなそうに周囲を見回していた。
さっきまでBARで話していた内容が、この部屋の空気を重くしている。
MIUには帰る家がないこと。
今はレンのワンルームへ居候していること。
それを聞いたユウキが、「俺の部屋も使っていい」と言い出した。
急遽、この“内見”みたいな相談会が始まったのだ。
「MIU、俺の部屋でもいいが……見ての通り、男一人が寝るためだけの場所だ」
ユウキが差し出したマグカップを、MIUは両手で包み込むように受け取る。
「ううん、十分だよ……。でも、私、居場所ない時はゲームセンターとかにいるから、そんなに気にしないで……」
弱々しく笑った瞬間。
男二人の声が重なった。
「それはダメだ」
「ゲーセンなんて危なすぎるだろ」
レンが身を乗り出す。
「ナンパか補導の格好の標的だぞ」
ユウキも、静かだが威圧感のある声で続けた。
「夜の街を彷徨わせるわけにはいかない。君がどれだけ危ういか、自覚した方がいい」
レンは唇を噛む。
本音を言えば、MIUを自分の部屋から離したくない。
けれど、いつ警察が来るかも、ヤバい客が乗り込んでくるかもわからない部屋へ、パニック発作を抱えたMIUを置いておくのは危険すぎた。
だからといって。
ユウキと二人きりで住まわせるのも、もっと耐えがたい。
ユウキがMIUを見る視線には、自分と同じ“熱”がある。
それが痛いほどわかっていた。
二人の時間が増えれば、MIUの心は自分から離れてしまうかもしれない。
そんな独占欲と嫉妬が、胸を焼く。
沈黙が落ちる。
不安そうに見上げるMIUの、折れそうな肩を見た瞬間、レンは一つの結論へ辿り着いた。
誰か一人が抱えるには、この女は脆すぎる。
そして、愛おしすぎた。
レンは椅子から跳ねるように立ち上がる。
「……よし。シェアハウスだな」
「シェアハウス?」
ユウキが怪訝そうに眉を寄せた。
「ああ。三人で住むんだよ。広めの部屋借りてさ。それならMIUを一人にさせなくて済むだろ」
レンは不敵に笑う。
これなら、MIUを危険から遠ざけられる。
ユウキへ独り占めされることもない。
「……なるほど。合理的ではあるな」
ユウキが、メガネの奥で静かに瞳を細めた。
重苦しかった空気が、少しずつ“計画”へ変わっていく。
レンはスマホを取り出し、MIUの隣へどかっと腰を下ろした。
「ほら、MIU。しけた顔してねーで見ろよ」
画面を差し出す。
「シェアハウス。俺も初めてだから詳しくねーけど、こういうとこなら寂しくねぇだろ?」
そこには、広いリビングや、清潔感のあるキッチンが映っていた。
MIUは驚いたみたいに目を丸くし、そのまま吸い寄せられるように画面を覗き込む。
「……ほんとに、みんなで住むの……?」
「ああ。ユウキの店にも近くて、セキュリティちゃんとしてるとこ探す。お前が一人で震えてなくていい場所だ」
その言葉へ、MIUの瞳がぱっと明るくなる。
彼女にとって“家”は、暴力や悲しみの場所でしかなかった。
けれど、画面へ並ぶ明るい家具は、今まで見たことのない“おもちゃ箱”みたいに見えた。
「ねぇ、レンくん、ユウキくん! 私、これ座ってみたい……!」
震える指先が示したのは、大きなビーズクッションだった。
「これね、SNSで見たの。“人をダメにするソファ”っていうんだって」
MIUが小さく笑う。
「私、これに沈んで、溶けちゃいたいな。一日中、何もしないで、ふわふわしてたい……」
「はは、いいじゃねーか。ダメ人間決定だな。一番でかいやつ買ってやるよ」
レンが笑うと、MIUの頬へ久しぶりの赤みが差した。
彼女は夢中で画面をスクロールする。
まるで宝探しをする子供みたいに。
「あとね……ベッドは、ラブホテルみたいにすっごく大きいのがいいな」
「……三人で?」
ユウキが少し困惑したように眉を上げる。
MIUは無邪気に頷いた。
「うん。起きた時に、右にも左にも二人の体温があるの。それってたぶん……世界で一番安心すると思うから」
その夢は、二人の間へ流れていた嫉妬や緊張を、一瞬で無力化するくらい純粋だった。
MIUが、生きようとしている。
その事実だけで、今は十分だった。
「わかったよ。キングサイズでも特注でも、MIUが溺れるくらい大きいやつを用意しよう」
ユウキが穏やかに頭を撫でる。
MIUは二人の顔を交互に見て、花がほどけるみたいに笑った。
「楽しみ……。こんなに素敵なこと、あってもいいんだね」
レンは、その眩しさへ目を細める。
「……私、生きてていいんだよね?」
その言葉は、あまりにも切実だった。
「あたりまえだろ。思う存分、のびのび生きてやろうぜ」
レンはスマホを置き、真剣な顔でMIUを見る。
「なあ、MIU。……お前、時々すげぇ苦しくなるだろ?
息できなくなったり、泣き止めなくなったりさ」
パニック状態になる時の、虚ろな目。
レンは、それを知っていた。
「病院とか、行ってんのか?
落ち着く薬とか、持ってねぇの?」
その瞬間。
MIUの笑顔が凍りついた。
さっきまで未来へ向いていた瞳が、一瞬で暗く沈む。
「病院は……行ってない。お薬も、ないよ」
声は蚊みたいに小さかった。
自分の腕を抱き込むようにして、震え始める。
「……怖いの。病院……」
白い壁。
無機質な部屋。
鍵の音。
「前に行った時、私が泣きながら話してたら、『落ち着くまでここにいなさい』って、冷たい個室に閉じ込められたの」
助けを求めて行った場所で、“異常者”として扱われた。
「必死で……逃げたの。あそこ、私を助けてくれる場所じゃない」
涙が頬を伝う。
その震えを止めるみたいに、レンは肩を強く抱き寄せた。
「……そうか。怖かったな」
低い声が、ゆっくりパニックを鎮めていく。
「でも次は、俺が一緒に行ってやる」
レンは言い聞かせるみたいに続けた。
「いいか、MIU。もう一人じゃねぇんだよ。医者がお前に変なことしようとしたら、俺がぶちのめしてやる」
「レンくん……」
「なんか良くなる方法があるなら、それでいいだろ。薬必要なら、俺がちゃんと管理してやる。お前を一人で暗い部屋なんか閉じ込めさせねぇ」
額と額をそっと合わせる。
「安心しろ。一緒なら守ってやれる。もう、何も怖くねぇ」
MIUはレンのシャツをぎゅっと掴み、何度も頷いた。
ユウキはその様子を静かに見守りながら、MIUを支える“責任”の重さを改めて噛み締めていた。
歌舞伎町の夜は相変わらず冷たい。
それでも、この狭い部屋の中だけは。
三人の体温が混ざり合い、確かな盾になろうとしていた。

