──数日後。
雨は止んでいた。
けれど、空はまだ重たい灰色をしている。
レンはBARの扉を押した。
カウンターでグラスを磨いていたユウキが、わずかに硬直する。
「……レン」
レンはカウンターへ肘をつき、にぃっと笑った。
いつもの明るい笑顔。
でも、その目だけが妙に真剣で、少し狂っていた。
ユウキは何も言わず、ライムとミントのカクテルを差し出す。
レンが来るときの、いつものメニューだった。
「MIUのこと、好きなんだろ?」
ユウキは静かに頷く。
「……ああ。諦められなかった」
レンはグラスを傾け、一気に飲み干した。
それから、ゆっくり口を開く。
「MIUのトラウマ、聞いたことあるか?」
ユウキは静かに頷いた。
「……話してくれたことはある」
レンの声が低くなる。
「助けてやりてぇって思う?」
メガネの奥の黒い瞳は揺らがなかった。
「全部まとめて愛すつもりだ」
レンは小さく息を吐く。
「ほんとか? 昼も夜も寝てられねぇぞ? MIUのパニック発作、見たことあんのか?」
ユウキは一瞬だけ視線を落とした。
「……一度だけだが」
手元のバースプーンへ、銀色の光が揺れる。
その光の中へ、あの夜の光景が浮かび上がった。
まだ店に客が数人残っていた深夜。
カウンターの端で飲んでいたMIUが、突然ガタガタと音を立ててグラスを落とした。
真っ青な顔で胸を押さえ、呼吸を忘れた魚みたいに口をぱくぱく動かしている。
ユウキは咄嗟に、カウンターの奥にある従業員用の小さなソファへ彼女を運び込んだ。
店内へ流れるジャズが、そのときだけは酷い不協和音みたいに聞こえた。
『はぁっ、はぁ……っ、ごめんなさい……』
MIUはユウキの腕の中で、自分自身を抱きしめるみたいに丸まり、ぶるぶる震えていた。
焦点の合わない瞳から、涙だけが止めどなく溢れていく。
『生きてて、ごめんなさい……ごめんなさい……』
何度も。
何度も。
呪文みたいに繰り返される謝罪。
誰へ向けたものかもわからない、絶望的な孤独。
いつもは奔放に笑い、男たちを翻弄する彼女の皮を剥いだ先にあったのは、ただ許しを請うだけの、幼い子供みたいな魂だった。
ユウキは何も言わず、冷え切った手を握り続けていた。
一時的な過呼吸だった。
けれど、その背中をさすり続けた手のひらには、彼女が抱えている闇の冷たさが、今も残っている気がした。
ユウキは意識を現実へ戻す。
メガネを指先で押し上げ、レンを見た。
「その発作で、男の体を求めてしまうことも知ってる」
レンの目が細くなる。
それから、ゆっくり笑った。
「やるじゃん。……ひとつ提案があるんだけど」
レンはカウンター越しに身を乗り出し、低く囁く。
「俺はあいつの壊れてるとこ、治す気はねぇ」
声は静かだった。
「お前がやれるってんなら、やってみろよ」
ユウキは眉を寄せる。
「……どういう意味だ」
「MIUが言ったんだよ。自分で決められないけど、二人がいない世界は怖いってさ」
「ふざけてるのか?」
「……独りじゃ無理だろ、あいつ」
ユウキは喉の奥で小さく呟いた。
──狂ってる……。
けれど。
独りで彼女を抱える限界も、どこかで予感していた。
あの発作は、時と場所を選ばない。
安心できる場所を、常に探しているみたいだった。
観察すればするほど、彼女には“普通の恋愛”なんて無理なんだと思っていた。
ユウキはゆっくり息を吐き、静かに頷く。
「……MIUが笑えるなら」
レンの手が、ユウキのメガネへ触れた。
そっと外す。
黒い瞳がむき出しになる。
「三人で、狂おうぜ」
レンの声は、甘く低かった。
「MIUを、俺たちで守って、壊して、愛してやろうよ」
ユウキは、ぼやけた視界のままレンを見据えていた。
目の前の金髪の男は、自分と同じ地獄を見ている。
……いや。
自分よりもっと深く、その泥の中へ足を突っ込んでいる。
──俺も、一緒に狂えるだろうか。
レンが差し出したのは、救いなんかじゃない。
共に沈むための、呪いみたいな招待状だった。
それでも。
あの日、ソファで震えていた彼女の冷たさを思い出すと、拒絶の言葉は喉の奥へ沈んでいく。
「……ああ。三人で、いこう」
自分の声が、歌舞伎町の喧騒へ溶けていった。
それは、静かな崩壊の始まりだった。
雨は止んでいた。
けれど、空はまだ重たい灰色をしている。
レンはBARの扉を押した。
カウンターでグラスを磨いていたユウキが、わずかに硬直する。
「……レン」
レンはカウンターへ肘をつき、にぃっと笑った。
いつもの明るい笑顔。
でも、その目だけが妙に真剣で、少し狂っていた。
ユウキは何も言わず、ライムとミントのカクテルを差し出す。
レンが来るときの、いつものメニューだった。
「MIUのこと、好きなんだろ?」
ユウキは静かに頷く。
「……ああ。諦められなかった」
レンはグラスを傾け、一気に飲み干した。
それから、ゆっくり口を開く。
「MIUのトラウマ、聞いたことあるか?」
ユウキは静かに頷いた。
「……話してくれたことはある」
レンの声が低くなる。
「助けてやりてぇって思う?」
メガネの奥の黒い瞳は揺らがなかった。
「全部まとめて愛すつもりだ」
レンは小さく息を吐く。
「ほんとか? 昼も夜も寝てられねぇぞ? MIUのパニック発作、見たことあんのか?」
ユウキは一瞬だけ視線を落とした。
「……一度だけだが」
手元のバースプーンへ、銀色の光が揺れる。
その光の中へ、あの夜の光景が浮かび上がった。
まだ店に客が数人残っていた深夜。
カウンターの端で飲んでいたMIUが、突然ガタガタと音を立ててグラスを落とした。
真っ青な顔で胸を押さえ、呼吸を忘れた魚みたいに口をぱくぱく動かしている。
ユウキは咄嗟に、カウンターの奥にある従業員用の小さなソファへ彼女を運び込んだ。
店内へ流れるジャズが、そのときだけは酷い不協和音みたいに聞こえた。
『はぁっ、はぁ……っ、ごめんなさい……』
MIUはユウキの腕の中で、自分自身を抱きしめるみたいに丸まり、ぶるぶる震えていた。
焦点の合わない瞳から、涙だけが止めどなく溢れていく。
『生きてて、ごめんなさい……ごめんなさい……』
何度も。
何度も。
呪文みたいに繰り返される謝罪。
誰へ向けたものかもわからない、絶望的な孤独。
いつもは奔放に笑い、男たちを翻弄する彼女の皮を剥いだ先にあったのは、ただ許しを請うだけの、幼い子供みたいな魂だった。
ユウキは何も言わず、冷え切った手を握り続けていた。
一時的な過呼吸だった。
けれど、その背中をさすり続けた手のひらには、彼女が抱えている闇の冷たさが、今も残っている気がした。
ユウキは意識を現実へ戻す。
メガネを指先で押し上げ、レンを見た。
「その発作で、男の体を求めてしまうことも知ってる」
レンの目が細くなる。
それから、ゆっくり笑った。
「やるじゃん。……ひとつ提案があるんだけど」
レンはカウンター越しに身を乗り出し、低く囁く。
「俺はあいつの壊れてるとこ、治す気はねぇ」
声は静かだった。
「お前がやれるってんなら、やってみろよ」
ユウキは眉を寄せる。
「……どういう意味だ」
「MIUが言ったんだよ。自分で決められないけど、二人がいない世界は怖いってさ」
「ふざけてるのか?」
「……独りじゃ無理だろ、あいつ」
ユウキは喉の奥で小さく呟いた。
──狂ってる……。
けれど。
独りで彼女を抱える限界も、どこかで予感していた。
あの発作は、時と場所を選ばない。
安心できる場所を、常に探しているみたいだった。
観察すればするほど、彼女には“普通の恋愛”なんて無理なんだと思っていた。
ユウキはゆっくり息を吐き、静かに頷く。
「……MIUが笑えるなら」
レンの手が、ユウキのメガネへ触れた。
そっと外す。
黒い瞳がむき出しになる。
「三人で、狂おうぜ」
レンの声は、甘く低かった。
「MIUを、俺たちで守って、壊して、愛してやろうよ」
ユウキは、ぼやけた視界のままレンを見据えていた。
目の前の金髪の男は、自分と同じ地獄を見ている。
……いや。
自分よりもっと深く、その泥の中へ足を突っ込んでいる。
──俺も、一緒に狂えるだろうか。
レンが差し出したのは、救いなんかじゃない。
共に沈むための、呪いみたいな招待状だった。
それでも。
あの日、ソファで震えていた彼女の冷たさを思い出すと、拒絶の言葉は喉の奥へ沈んでいく。
「……ああ。三人で、いこう」
自分の声が、歌舞伎町の喧騒へ溶けていった。
それは、静かな崩壊の始まりだった。

