歌舞伎町青宵ポリ

 歌舞伎町の路地は、昼間でもネオンが薄く滲んでいた。


 MIUは、いつもの黒いレースのミニワンピを雨に濡らし、網タイツを太ももまで上げ直すのも諦めるくらい、びしょ濡れだった。


 そのままBARの扉を押す。


 カウンターの向こうで、ユウキがグラスを磨く手を止めた。

 前髪のかかるメガネの奥。

 静かな炎みたいな視線が、MIUを捉える。


「今日はまた一段とびしょびしょだな」


 MIUは小さく笑い、濡れた髪を指で梳いた。

 水滴がぽたりとカウンターへ落ちる。

 その音だけが、やけに大きく響いた。


「……今日は、一人?」

「レンくん、今日は遅くなるって……だから、雨宿りさせて」


 ユウキの喉が、わずかに鳴る。


 あの日も、雨だった。

 MIUと出会った日の歌舞伎町。


 アスファルトへ溜まった水が、青いネオンをじっとり反射していた。

 ユウキはカウンターの奥、いつもの場所へ立っていた。

 黒髪を無造作に流し、銀縁メガネのレンズへ青い光が揺れている。


 百八十センチの長身を少し前屈みにしながら、グラスを磨く手だけが淡々と動いていた。

 ここでは、誰もが仮面をつける。

 ユウキ自身も、世界を静かに俯瞰する癖がついていた。


 軒下の影へ、小さな人影が立っていた。

 黒髪のロングヘアが雨に濡れ、頬や肩へ張り付いている。


 百六十センチくらいだろうか。

 肩が小さく震えていた。

 足元へ置かれたバッグは、旅行にしては多いような、少ないような、不思議な量だった。


 ユウキは静かに近づく。


「濡れてますね……入ってきていいですよ」


 彼女が顔を上げた。


「え……いいんですか? ありがとうございます」


 少し怪訝そうにしていたが、

 相手がバーテンダーだと気づくと、すぐに人懐っこい笑顔を浮かべた。

 ユウキは扉を開け、中へ誘い入れる。

 彼女はタオルを受け取りながら軽く頭を下げ、店内へ入ってきた。


 カウンターへ座ると、タオルをぎゅっと握りしめる。

 寒さのせいか、指先が小刻みに震えていた。


 店内には、スーツ姿の男が一人。

 静かにグラスを傾けている。


 彼女は警戒するみたいに店内を見回したが、二人だけだとわかると、荷物を足元へ置いてスツールへ腰掛けた。


 ユウキがホットミルクを差し出す。


「わあ、温かい……ありがとうございます」


 彼女は小さく微笑んだ。


「あの、でもお金なくて……」


 すると、スーツの男がすぐ反応する。


「俺がおごってあげるよ。雨、大変だったね」

「急に降ってきて……行くとこなくて」

「そうだったの。旅行中とか?」

「そんな感じです」

「へぇ、これも縁だしさぁ、ちょっと飲もうよ」

「あ、でも……」

「奢る奢る、心配しないで」

「そんな……」


 男の目が、少しずつ変わっていくのをユウキは見ていた。

 狩りを始めた獣みたいな光。

 ユウキは黙ったままグラスを磨き続ける。


「よかったら、俺が近くのホテルとか取ってあげるよ。困ってるんでしょ?」


 彼女は震える手でホットミルクのカップを包み込み、また曖昧に笑った。


「ふふ、ありがとうございます。でも、これいただいてるから」


 自由奔放そうな笑顔の奥で、何かがちらちら揺れている。

 人を見る仕事で鍛えられた感覚が、初めてその揺らぎを捉えようとしていた。


 ユウキは、BARでカップルが生まれるのを歓迎していた。

 ここが縁で付き合った客たちは、何度も店へ来てくれる。

 客を増やすチャンスでもあった。


 けれど、MIUの受け答えは違う。

 拒絶しているわけじゃない。

 でも、甘えるつもりもない。


 ──今回は、カップル成立ならずだな。


 男は、MIUが嫌がっていないと勘違いしたまま、さらに距離を詰める。


「濡れてるし、お風呂入ったほうがよくない? 風邪引くし」


 カウンターの下で、男の手がMIUへ寄っていく。


 その瞬間だった。

 彼女が初めて、小さく身体を引く。

 他人には気づかれないくらい、一瞬だけ。

 笑顔の端が、ほんの少し歪む。


 ユウキは咄嗟に声をかけた。


「お客様、彼女びっくりしちゃってますから」


 口から出たのは、いつもの“冷静なバーテンダー”の声だった。


 男がお手洗いへ立った隙に、ユウキは再びMIUを見る。

 自分が、今日初めて会っただけの相手へ、なぜこんなに構ってしまうのかわからなかった。

 誰にでも愛想を振りまく、雨に濡れた子猫みたいな女。

 深く関われば、きっと面倒になる。

 理性はそう警鐘を鳴らしていた。

 なのに、銀縁メガネの奥の視線は、彼女の震える指先を追うのをやめられない。


「今日はここにいていいですよ」


 ユウキは静かに言った。


「なにか困ってる感じですし、今日は何時まででも大丈夫です」


「あ、えっと、お金が……」


「とりあえず今日は、なにも心配しないでください」


 湿った黒髪が肩へ落ちる。


 震えていた手が、少しだけ止まった。


「……本当に? ありがとうございます……」


 人懐っこい笑顔のまま、声の端だけがほんの少し掠れていた。


 ユウキはただ頷く。

 言葉は重ねない。

 ただ、そこにいる。


 雨に濡れた小さな拾い物へ、初めて「ここにいていい」と言った夜だった。


 ──ユウキは我に返る。

 走馬灯みたいな記憶に、一瞬だけ身じろぎした。


 今、店は準備中で、まだ客は一人もいない。

 MIUがこのBARへ通うようになってから、何度も二人きりになった。


 初めて雨宿りした日。

 誰かから逃げるみたいに隠れ場所を探してきた日。

 ナンパから助けて、かくまった日。


 何度も、言葉にならない熱を交わしかけた。

 でも、MIUの唇から「レン」という名前が出るたび、ユウキは静かに引いていた。


 ──でも、今日は違う。


 雨が窓を叩く音が、心臓の鼓動みたいにうるさい。

 ユウキは導かれるみたいにカウンターを回り、MIUへ近づいていく。


 濡れた肩へ触れた瞬間、手が震えた。

 冷たい。

 なのに、その下では熱が脈打っている。

 ユウキは思考を振り切るみたいに踵を返し、タオルを手渡した。


 けれど、MIUは受け取らない。

 そのまま、そっとユウキへ近づく。


「ユウキくん、寒いよ……」


「……だめだよ、MIU」


 声が低く掠れる。

 ユウキはタオルを肩へかけた。


 MIUの瞳が揺れる。

 大きな黒い瞳へ、雨粒みたいな涙が滲んだ。


「……わかってる。でも、ユウキくんの指、あったかくて……ほしくなっちゃった……」


 その一言で、糸が切れた。


 ──いや。


 切れたというより、ほどけるのを待っていたのかもしれない。


 MIUには、自分が善良なバーテンダーなんかじゃないことを、気づかせたほうがいい。


 ユウキは細い腰を強く引き寄せた。

 唇が重なる。

 MIUの吐息が甘く湿って、口の中へ流れ込んできた。

 雨の匂いと、甘い唾液が混ざる。

 頭がくらくらした。


「あッ……ユウキくん、だめ、こんな……」


 抵抗するみたいな声。

 なのに、指はユウキの背中へ回り、爪を立てている。

 長く絡み合うキスの中、少しずつ追い詰められていたMIUの背中が、バーカウンターへぶつかった。


 今度こそ、逃げ場がない。

 ユウキの手が太ももを這い上がり、丸い尻を撫でる。


「……やめたほうがいいのは、わかってる」


 焦らすみたいに、ゆっくり指先を滑らせる。

 ユウキは、MIUの瞳を真っ直ぐ見ていた。

 MIUはもう、虚ろな目で腰を震わせている。


「……でも、無理だな」


 首筋へ歯を立て、赤い痕をいくつも刻んでいく。


 やがて唇が離れ、ユウキは自分でつけた痕を見下ろした。


「……これ、消えないよ。ちゃんとやめてって言わないから」


 手を滑り込ませ、内側の熱を撫でる。

 その瞬間、MIUの身体がびくんと跳ねた。

 もう熱を帯びている。

 雨のせいじゃない。


「……だめ……ッ……ユウキくん、ほしいよぉ……」


 その声が、助けを求めているのか、欲しがっているのか。

 もう区別がつかなかった。

 ユウキはほんの一瞬だけ、寂しそうに目を揺らす。


 けれど、それを見なかったことにするみたいに、すぐ細めた。

 ここで手を離せば終わる。

 ユウキは、それを知っていた。


 動きを止める。


 けれど、触れたまま離れなかった。


 ──離すための間だったはずなのに、逆に深く沈んでいく。


 二人の呼吸は、もう止められない熱を持っていた。


 昼間の準備中のBARへ、湿った吐息だけが静かに混ざっていく。