歌舞伎町青宵ポリ

 真っ白な天井と、消毒液の匂い。


 規則的に刻まれるバイタルモニターの電子音。

 その清潔で安全なはずの檻の中で、MIUの時間は死んだように止まっていた。


 入院から七日が経とうとしていた。


 薬の毒性は点滴によって洗い流され、体温も血圧も正常値に戻ったはずだった。


 けれど、肉体の回復と反比例するように、

 MIUの精神は泥のようなクラッシュの底へと沈み込んでいく。


 一番会いたい男だけが、ここには来ない。


 警察の影がちらつくこの場所に、レンは、一歩も近づくことができなかった。


 その「大人の事情」を、今のMIUの脳は理解することを拒んでいた。


 代わりに、頭の中の声が囁く。

 レンは、汚くなった自分を見たくないんだ、と。


 あの日、助けてくれた時に、

 自分の身体を目の当たりにして、きっと気持ち悪く思ったんだろう、と。


 一度芽生えた自己嫌悪の種は、離脱症状による鬱状態の中で毒々しく根を張り、

 MIUから表情と食欲を奪い去った。


 あんなに愛おしく自分を抱いた彼の手が、今は自分を拒絶しているような気がしてならない。


「MIUちゃーん! 見て、今日は新作のグミ全種類買ってきたよ!」


 病室のドアが勢いよく開き、カイがコンビニ袋をガサガサと鳴らしながら入ってきた。

 その後ろから、ユウキがいつものように静かな足取りで続く。

 MIUは視線さえ向けず、ただシーツの皺を見つめていた。


「ほら、これ。MIUちゃんが前に『可愛い』って言ってた期間限定のやつ。一個食べる?

 俺が袋開けてあげようか?」


 カイはベッドサイドに腰掛け、覗き込むように笑いかける。

 その明るさは、静まり返った病室では、あまりに痛々しいほど努められたものだった。


 MIUは小さく首を横に振る。


「……ごめんなさい。食べられなそう」


「そっか……。じゃあ、ここに置いとくね。夜中にお腹空いたら食べて?」


 カイの顔から、一瞬だけ寂しさが零れた。

 けれど、すぐにまた無理な笑顔で塗りつぶす。


 そんな彼を横目に、ユウキが最新のファッション雑誌をテーブルへ置いた。


「MIU、これ。今月号、君が好きそうなブランドの特集だった」


 そして、少し間を置いてから続ける。


「……それと」


 ユウキは眼鏡のブリッジを押し上げ、静かな声で言った。


「レンのやつ、とうとう風呂をキャンセルして……匂うTシャツをずっと着てる。

 MIUが帰ってこないと、風呂に入る意味もないんだと」


 レンという名前が出た瞬間、MIUの指先が微かに震えた。

 けれど、彼女が顔を上げることはなかった。


「……嘘。レンくん、私のことなんて、もう忘れてるよ」


「そんなわけないじゃん!」


 カイが堪えきれず声を荒らげ、すぐにハッとして声を落とした。


「……レンくん、毎日荒れてるんだよ? MIUちゃんがいないから、

 家の中めちゃくちゃなんだから。俺とユウキくんで止めるの、大変なんだよ」


 カイは震える声のまま続けた。


「だからさ、早く帰ってきてよ。四人で、またバカ笑いしようよ」


 カイの必死な訴えも、ユウキが運んできたレンの生活の断片も、今のMIUには自分を追い詰める刃にしか感じられなかった。


 みんなの優しさが怖かった。

 MIUは、自分の肩を爪を立てるように強く掴む。


「……ごめん。二人とも、もう帰って。一人で……寝たいの」


 MIUの声は、消え入りそうなほど細かった。


「……分かった。また明日も来るから」


 ユウキはそれ以上追及せず、カイの肩を軽く叩いて促した。


 重い足取りで病室を出た後、廊下に出たカイが、堪えきれずに呟く。


「……ユウキくん。MIUちゃん、どんどん透き通っていっちゃうみたいだ……。

 隣にいるのに、どこにもいないみたいで……怖いよ」


 ユウキは答えず、ただ無機質な壁に背を預けた。


「先生、もう限界です。ここにいたら、彼女の心が死んでしまう」


 八日目の朝。


 ユウキは医師の前に立ち、静かだが断固とした口調で告げた。

 本来なら、経過観察と精神科的なアプローチのため、あと一週間は入院が必要なケースだった。


 けれど、ユウキとカイは食い下がった。


「僕たちが責任を持って、二十四時間体制で見守ります」


 ユウキが低く言う。


「彼女には、あの家と……アイツが必要なんです」


 カイも、いつになく真剣な眼差しで医師を見つめた。

 医学や法律では救えない領域が、自分たちの部屋にはあるのだと信じて。


 二人の必死な、そして論理的な説得に、医師もようやく折れた。


 ──あくまで自己責任での退院。


 その条件付きで、MIUは予定より大幅に早く、病院という檻を解き放たれることになった。

 退院の手続きを終え、ユウキが呼んだタクシーに乗り込む際も、MIUは操り人形のように力なく揺れていた。


「MIUちゃん、もうすぐお家だよ」


 隣でカイが、励ますように手を握る。


「レンくん、リビングのソファでずっと待ってるからね」


 けれどMIUは、ただ窓の外を流れる歌舞伎町の濁った景色を、虚ろな目で見つめ返していた。


 再会の瞬間への恐怖。

 それでも彼に触れたいという渇望。

 MIUの手は、カイに握られたまま小さく震えていた。