玄関のドアが開く。
漂ってきたのは、生活の乱れを象徴するような、重く澱んだ空気だった。
リビングのソファに、レンがいた。
まともに風呂にも入っていないのだろう。
金髪は脂ぎって束になり、無精髭が顎を覆っている。
着古したスウェットからは、タバコのヤニと、男特有の汗の匂い。
そして、「絶望」を煮詰めたような饐えた空気が滲んでいた。
「……ッ、MIU」
レンの声は掠れ、地を這うように低かった。
MIUはその声を聞いた瞬間、足が止まった。
会いたくて堪らなかったはずなのに、いざ目の前にすると、自分が「見捨てられたはずの存在」であるという思いが全身を縛り付ける。
MIUが顔を伏せ、震える肩を抱いて後ずさろうとした、その時だった。
「どこ見てんだよ。こっち見ろ」
レンがMIUの細い手首を掴んで引き寄せた。
そのまま、逃がさないように力任せに抱きしめる。
鼻腔を突くのは、清潔な病院では決して嗅ぐことのなかった、不規則で、不衛生で、けれどどうしようもなく愛おしい「レンの匂い」だった。
「……あ、……っ。レンくん……ごめんなさい、私……汚い……」
「バカか。汚ねぇのは俺の方だ」
レンはMIUの首筋に顔を埋め、深く息を吸い込む。
「……一歩も動く気がしなかった。お前がいねぇから、風呂の入り方も忘れたわ」
そして、掠れた声で呟いた。
「……生きてる。……お前、まだ生きてんな」
その体温と、服に染み付いた体臭が、MIUの凍りついていた感覚を少しずつ溶かしていく。
レンもまた、自分と同じように泥の底まで落ちて、自分を待っていた。
その事実が、どんな慰めの言葉よりもMIUを救った。
「……ココア、飲むか」
不意に背後から、ユウキが静かな声をかけた。
「カイ。お前はレンを風呂に放り込んでこい。そのままじゃMIUに匂いが移る」
「了解! よーしレンくん、MIUちゃんも帰ってきたことだし、強制洗浄タイムだよ!」
カイがいつも通りの調子でレンの背中を叩く。
「っせーな……」
レンは悪態をつきながらも、掴んでいたMIUの手を名残惜しそうに離した。
「……MIU。お前も来い。男のガチの汚ねぇの見せてやるから」
「そんなのMIUちゃんに見せちゃダメ!」
「MIUも風呂入ってねぇだろうが」
「女と男じゃ違うでしょ。一緒に入ったら後悔するのはレンくんの方だと思うよ」
レンの不器用な、けれどいつもの雰囲気。
いつもの声。
聞き慣れた言葉遣い。
それらに触れて、MIUの頬に数日ぶりの赤みが差した。
結局、湯気が立ち込める狭いバスルームには、不釣り合いな三人の影がひしめいていた。
「ほらレンくん、じっとして! 泡が目に入るよ」
「っせーな……子供扱いすんじゃねぇよ。……いっ、てぇ! 今のわざと泡入れたろ!」
「犬洗ってるんじゃないんだからさ、そんなに動かないでよ」
カイは美容師らしく手際よくレンの金髪を泡立てている。
一週間放置され、脂とヤニで固まっていた髪が、カイの指先で少しずつ解かれていく。
レンは風呂椅子に窮屈そうに座り、悪態をつきながらも、自分の身体を洗っていた。
MIUは久しぶりの湯船に浸かりながら、その光景をぼんやり眺めていた。
シャンプーの甘い香りが、鼻腔に残っていた死の匂いや消毒液の記憶を上書きしていく。
「……MIUちゃん、顔色ちょっと良くなった? 病み上がりなんだから無理はダメだよ」
カイが、泡だらけの手でレンの頭を押さえつけたまま笑いかける。
「……うん。レンくんが、犬みたいで……ちょっと面白い」
「誰が犬だ。……あー、クソ。耳に水入った」
レンが顔をしかめて頭を振ると、泡がMIUの顔に飛んだ。
MIUは笑いながら、その泡を指で掬い取る。
「……レンくん、本当にずっとお風呂入ってなかったんだね」
「当たり前だろ。……お前がいない家で、身綺麗にして何になるんだよ」
シャワーの音にかき消されそうな、低い呟き。
けれど、その言葉にはどんな愛の告白よりも重い執着がこもっていた。
キッチンのユウキは、マグカップへ注ぐお湯の音を聞いていた。
バスルームのドア越しに漏れ聞こえる、カイの明るい声とレンの毒づく声。
そして、それに混じるMIUの小さな笑い声。
(……ようやく、この部屋の空気が入れ替わったな)
ユウキは眼鏡を外し、少しだけ目元を緩めた。
一人でいた一週間のレンは、言葉通り「死に損ない」みたいだった。
それが今、喧騒の中でようやく息を吹き返している。
「よし、レンくん終了! 次、MIUちゃんおいで。極上のヘッドスパしてあげるから」
カイの合図で、レンが立ち上がる。
お湯を浴びて本来の鋭さを取り戻した金髪が、濡れて額に張り付いていた。
レンはMIUの横を通り過ぎる際、彼女のまだ乾いた髪を乱暴にかき回した。
「……おう。しっかり洗ってもらえ。病院の匂い、一ミリも残さねぇように。
……ユウキ、タバコ」
濡れたままの身体でリビングへ出ていくレン。
入れ替わりにMIUがお風呂場の椅子へ座ると、カイの温かい手のひらが、そっと彼女の頭を包み込んだ。
「MIUちゃん、お疲れ様。病院で、ずっと一人で怖かったよね」
「……うん。でも、もう大丈夫」
MIUは小さく目を閉じる。
「……ここの匂いが、一番落ち着くってわかった」
カイがシャワーの温度を確かめる。
ユウキの淹れた、ほろ苦いココアの香りが、少しずつお風呂場まで届き始めていた。
すっかり綺麗になって風呂から上がったMIUは、タオルを頭に巻き、カイのTシャツをワンピース代わりに着て、お気に入りのピンクのビーズクッションへ身体を沈めた。
病院の硬いベッドとは違う、自分の形に合わせてどこまでも沈み込んでいく柔らかさ。
それだけで、張り詰めていた心の糸がぷつりと切れた。
「はい、お待たせ。仕上げの時間だよ」
カイがドライヤーを手に背後へ回り、手慣れた様子でスイッチを入れる。
ヴォーという規則的な音と共に、温かい風がMIUの首筋を撫でた。
カイの指先が優しく髪の間を通るたびに、身体の中にこびりついていた冷たい檻の記憶が、少しずつ剥がれ落ちていく。
ふと、目の前の丸テーブルに、湯気を立てたマグカップが置かれた。
「飲みな。火傷しないように、少しぬるめにしてある」
ユウキが、眼鏡の奥の瞳を和らげて言った。
MIUは両手でカップを包み込む。
カルーアを隠し味に忍ばせた、ユウキ特製の濃厚なココア。
その甘い香りが、鼻先をくすぐる。
ソファの方では、すっかり汚れを落としてさっぱりしたレンが、深く腰掛けて煙草を燻らせていた。
レンは黙ってMIUの様子を見ていたが、不意に視線が合うと、照れ隠しのようにふいっと顔を背けた。
温かいココアを一口含んだ瞬間、MIUの視界が急激に滲んだ。
ボタボタと、止めどなく大きな涙がこぼれ落ち、ココアの表面に波紋を作る。
(……ああ、私、本当に帰ってきたんだ)
自分はもう、誰からも愛されないと思っていた。
愛されてはいけないと思った。
家を飛び出して、自暴自棄になってしまったあの夜。
暗い病室で絶望の底に沈んでいた七日間。
そんな自分を、この人たちは当たり前みたいに「日常」へ引き戻し、こんなにも愛おしい時間をまたくれる。
「わっ、MIUちゃん!? ごめん、引っ張った? 痛かった?」
慌ててドライヤーを止めるカイに、MIUは首を振って声を震わせた。
「……ちがうの。……あったかくて……」
「……泣くな。せっかく綺麗にした顔が台無しだろ」
レンがソファから手を伸ばし、MIUの頭を乱暴に、けれど壊れ物を扱うみたいな優しさで撫でる。
ユウキは静かにキッチンへ戻り、残りの二人にも飲み物を用意し始めた。
ドライヤーの音。
煙草の匂い。
甘いココアの湯気。
歌舞伎町の喧騒さえも遠くに感じるこの部屋で、MIUは三人の体温に守られながら、
自分が再び「生きていていい存在」になれるかもしれないと思えた。
この歪で完璧な四人の共同生活。
それが彼女にとっての、唯一にして最強の処方箋だった。
漂ってきたのは、生活の乱れを象徴するような、重く澱んだ空気だった。
リビングのソファに、レンがいた。
まともに風呂にも入っていないのだろう。
金髪は脂ぎって束になり、無精髭が顎を覆っている。
着古したスウェットからは、タバコのヤニと、男特有の汗の匂い。
そして、「絶望」を煮詰めたような饐えた空気が滲んでいた。
「……ッ、MIU」
レンの声は掠れ、地を這うように低かった。
MIUはその声を聞いた瞬間、足が止まった。
会いたくて堪らなかったはずなのに、いざ目の前にすると、自分が「見捨てられたはずの存在」であるという思いが全身を縛り付ける。
MIUが顔を伏せ、震える肩を抱いて後ずさろうとした、その時だった。
「どこ見てんだよ。こっち見ろ」
レンがMIUの細い手首を掴んで引き寄せた。
そのまま、逃がさないように力任せに抱きしめる。
鼻腔を突くのは、清潔な病院では決して嗅ぐことのなかった、不規則で、不衛生で、けれどどうしようもなく愛おしい「レンの匂い」だった。
「……あ、……っ。レンくん……ごめんなさい、私……汚い……」
「バカか。汚ねぇのは俺の方だ」
レンはMIUの首筋に顔を埋め、深く息を吸い込む。
「……一歩も動く気がしなかった。お前がいねぇから、風呂の入り方も忘れたわ」
そして、掠れた声で呟いた。
「……生きてる。……お前、まだ生きてんな」
その体温と、服に染み付いた体臭が、MIUの凍りついていた感覚を少しずつ溶かしていく。
レンもまた、自分と同じように泥の底まで落ちて、自分を待っていた。
その事実が、どんな慰めの言葉よりもMIUを救った。
「……ココア、飲むか」
不意に背後から、ユウキが静かな声をかけた。
「カイ。お前はレンを風呂に放り込んでこい。そのままじゃMIUに匂いが移る」
「了解! よーしレンくん、MIUちゃんも帰ってきたことだし、強制洗浄タイムだよ!」
カイがいつも通りの調子でレンの背中を叩く。
「っせーな……」
レンは悪態をつきながらも、掴んでいたMIUの手を名残惜しそうに離した。
「……MIU。お前も来い。男のガチの汚ねぇの見せてやるから」
「そんなのMIUちゃんに見せちゃダメ!」
「MIUも風呂入ってねぇだろうが」
「女と男じゃ違うでしょ。一緒に入ったら後悔するのはレンくんの方だと思うよ」
レンの不器用な、けれどいつもの雰囲気。
いつもの声。
聞き慣れた言葉遣い。
それらに触れて、MIUの頬に数日ぶりの赤みが差した。
結局、湯気が立ち込める狭いバスルームには、不釣り合いな三人の影がひしめいていた。
「ほらレンくん、じっとして! 泡が目に入るよ」
「っせーな……子供扱いすんじゃねぇよ。……いっ、てぇ! 今のわざと泡入れたろ!」
「犬洗ってるんじゃないんだからさ、そんなに動かないでよ」
カイは美容師らしく手際よくレンの金髪を泡立てている。
一週間放置され、脂とヤニで固まっていた髪が、カイの指先で少しずつ解かれていく。
レンは風呂椅子に窮屈そうに座り、悪態をつきながらも、自分の身体を洗っていた。
MIUは久しぶりの湯船に浸かりながら、その光景をぼんやり眺めていた。
シャンプーの甘い香りが、鼻腔に残っていた死の匂いや消毒液の記憶を上書きしていく。
「……MIUちゃん、顔色ちょっと良くなった? 病み上がりなんだから無理はダメだよ」
カイが、泡だらけの手でレンの頭を押さえつけたまま笑いかける。
「……うん。レンくんが、犬みたいで……ちょっと面白い」
「誰が犬だ。……あー、クソ。耳に水入った」
レンが顔をしかめて頭を振ると、泡がMIUの顔に飛んだ。
MIUは笑いながら、その泡を指で掬い取る。
「……レンくん、本当にずっとお風呂入ってなかったんだね」
「当たり前だろ。……お前がいない家で、身綺麗にして何になるんだよ」
シャワーの音にかき消されそうな、低い呟き。
けれど、その言葉にはどんな愛の告白よりも重い執着がこもっていた。
キッチンのユウキは、マグカップへ注ぐお湯の音を聞いていた。
バスルームのドア越しに漏れ聞こえる、カイの明るい声とレンの毒づく声。
そして、それに混じるMIUの小さな笑い声。
(……ようやく、この部屋の空気が入れ替わったな)
ユウキは眼鏡を外し、少しだけ目元を緩めた。
一人でいた一週間のレンは、言葉通り「死に損ない」みたいだった。
それが今、喧騒の中でようやく息を吹き返している。
「よし、レンくん終了! 次、MIUちゃんおいで。極上のヘッドスパしてあげるから」
カイの合図で、レンが立ち上がる。
お湯を浴びて本来の鋭さを取り戻した金髪が、濡れて額に張り付いていた。
レンはMIUの横を通り過ぎる際、彼女のまだ乾いた髪を乱暴にかき回した。
「……おう。しっかり洗ってもらえ。病院の匂い、一ミリも残さねぇように。
……ユウキ、タバコ」
濡れたままの身体でリビングへ出ていくレン。
入れ替わりにMIUがお風呂場の椅子へ座ると、カイの温かい手のひらが、そっと彼女の頭を包み込んだ。
「MIUちゃん、お疲れ様。病院で、ずっと一人で怖かったよね」
「……うん。でも、もう大丈夫」
MIUは小さく目を閉じる。
「……ここの匂いが、一番落ち着くってわかった」
カイがシャワーの温度を確かめる。
ユウキの淹れた、ほろ苦いココアの香りが、少しずつお風呂場まで届き始めていた。
すっかり綺麗になって風呂から上がったMIUは、タオルを頭に巻き、カイのTシャツをワンピース代わりに着て、お気に入りのピンクのビーズクッションへ身体を沈めた。
病院の硬いベッドとは違う、自分の形に合わせてどこまでも沈み込んでいく柔らかさ。
それだけで、張り詰めていた心の糸がぷつりと切れた。
「はい、お待たせ。仕上げの時間だよ」
カイがドライヤーを手に背後へ回り、手慣れた様子でスイッチを入れる。
ヴォーという規則的な音と共に、温かい風がMIUの首筋を撫でた。
カイの指先が優しく髪の間を通るたびに、身体の中にこびりついていた冷たい檻の記憶が、少しずつ剥がれ落ちていく。
ふと、目の前の丸テーブルに、湯気を立てたマグカップが置かれた。
「飲みな。火傷しないように、少しぬるめにしてある」
ユウキが、眼鏡の奥の瞳を和らげて言った。
MIUは両手でカップを包み込む。
カルーアを隠し味に忍ばせた、ユウキ特製の濃厚なココア。
その甘い香りが、鼻先をくすぐる。
ソファの方では、すっかり汚れを落としてさっぱりしたレンが、深く腰掛けて煙草を燻らせていた。
レンは黙ってMIUの様子を見ていたが、不意に視線が合うと、照れ隠しのようにふいっと顔を背けた。
温かいココアを一口含んだ瞬間、MIUの視界が急激に滲んだ。
ボタボタと、止めどなく大きな涙がこぼれ落ち、ココアの表面に波紋を作る。
(……ああ、私、本当に帰ってきたんだ)
自分はもう、誰からも愛されないと思っていた。
愛されてはいけないと思った。
家を飛び出して、自暴自棄になってしまったあの夜。
暗い病室で絶望の底に沈んでいた七日間。
そんな自分を、この人たちは当たり前みたいに「日常」へ引き戻し、こんなにも愛おしい時間をまたくれる。
「わっ、MIUちゃん!? ごめん、引っ張った? 痛かった?」
慌ててドライヤーを止めるカイに、MIUは首を振って声を震わせた。
「……ちがうの。……あったかくて……」
「……泣くな。せっかく綺麗にした顔が台無しだろ」
レンがソファから手を伸ばし、MIUの頭を乱暴に、けれど壊れ物を扱うみたいな優しさで撫でる。
ユウキは静かにキッチンへ戻り、残りの二人にも飲み物を用意し始めた。
ドライヤーの音。
煙草の匂い。
甘いココアの湯気。
歌舞伎町の喧騒さえも遠くに感じるこの部屋で、MIUは三人の体温に守られながら、
自分が再び「生きていていい存在」になれるかもしれないと思えた。
この歪で完璧な四人の共同生活。
それが彼女にとっての、唯一にして最強の処方箋だった。

