シェアハウスの空気は、かつてないほど穏やかだった。
ベッドではカイが新しいヘアアイロンを試し、
ユウキはキッチンで新調したカクテルグラスを磨いている。
レンはソファに横になったまま、ウォールシェルフに飾られた景品たちを不機嫌そうに、けれどどこか満足げに眺めていた。
「MIUちゃん、最近よく笑うようになったよね」
カイが鏡越しにそう言い、ユウキも「少しは安心できてるのかもな」と微かに目を細める。
彼らにとって、この部屋は四人の幸福を閉じ込めた聖域だった。
けれど、その中心にいるはずのMIUだけが、色のない世界にいた。
MIUは、ピンクのビーズクッションに沈んだまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
止まったミラーボール。
レースカーテン越しのネオン。
重なり合う笑い声。
全部が、遠い。
カイも、自分の本当の居場所を捨ててここにいる。
ユウキの優しさも、レンの執着も、自分には重すぎる。
そして、レンのあのマンション。
あそこがレンの本当の居場所で、
この部屋は、壊れかけた自分を閉じ込めるための仮初めの檻なのではないか。
MIUはゆっくり立ち上がった。
ワードローブの下段。
そこに隠していた、以前処方された強い睡眠薬と、市販薬の箱を取り出す。
いなくなれば、みんな自由になれる。
MIUは静かに風呂場へ向かった。
皆が生活する隙間を抜けて、いつも通りの顔で。
誰も止めない。
誰も気づかない。
お風呂場の扉を閉める。
曇りガラスの扉は、ほんのりとピンクのネオンを透かしている。
うがい用のコップに薬を溢れるほど出し、水を注ぐ。
白い錠剤が、ゆっくり濁って沈んでいく。
MIUは震える手で、それを飲み込んだ。
一度。
また一度。
喉が焼ける。
胃の奥が熱い。
視界が揺れ、膝から崩れ落ちた。
けれど、数分もしないうちに声が響いた。
「おい、MIU?」
風呂場の扉が開く。
レンだった。
床に散らばる薬のシート。
倒れ込むMIU。
一瞬で、レンの顔から血の気が引いた。
「MIU!? おい、しっかりしろ!」
レンの怒鳴り声で、部屋の空気が凍りつく。
ユウキが駆け込み、無理やり吐かせようとする。
カイは震える手でスマホを握りしめた。
「……やだ……放して……っ」
混濁する意識の中で、MIUは必死に抵抗した。
愛されている。
その事実が、今は何より怖かった。
死ねなくなる前に、逃げなきゃいけない。
ユウキが一瞬目を離した隙に、MIUは玄関を飛び出した。
「MIU!!」
レンの叫びを背に、彼女は夜の歌舞伎町へと転がり込む。
視界は歪み、足元は何度ももつれた。
それでも身体は、知っている場所を辿ってしまう。
ゲームセンター。
ホテル。
クラブ。
カラオケ。
四人で笑った場所ばかりだった。
涙が止まらない。
どこへ行っても、レンの煙草の匂いがする気がした。
やがて限界を迎え、MIUは冷たいコンクリートへ倒れ込む。
視界の端に、革靴が止まった。
「……大丈夫?」
知らない男だった。
霞む視界の中、男の手が差し出される。
「助けてあげようか」
MIUは、その手を取った。
今は、三人の愛よりも、何も知らない他人の方が楽だった。
──どれくらい時間が経ったのか、わからない。
鼻を刺す薬品臭で、MIUは目を覚ました。
薄暗い部屋。
積み上げられた段ボール。
白い粉と、錠剤。
そして、見覚えのある部屋。
「……ここ……」
レンが昔住んでいたマンションだった。
かつて、自分を救ってくれた場所。
けれど今は、生活の匂いなんて何一つ残っていない。
そこは、レンの“仕事場”だった。
「あー、起きた」
知らない男たちが笑う。
「カズさんの女だろ?」
知らない名前。
下卑た視線。
乱暴な手。
MIUの身体が恐怖で強張る。
「やめて……っ」
抵抗は、簡単に押さえ込まれた。
逃げ場のない場所へ押し込まれる冷たい刺激。
暴力的な異物感が、身体の奥を焼いていく。
「あ……っ、やだ……!」
恐怖と薬で、視界が白く弾ける。
その時だった。
──ガァン!!
扉が、爆音と共に蹴り飛ばされた。
「……てめぇら」
レンだった。
手にはスマホ。
画面には、写真が貼られたチャットのやりとり。
そこに写っていたのは、倒れたMIUだった。
「やりとり全部見えてんだよ。わかってやってんだろ」
レンの目から、完全に光が消えていた。
「死にたいんだな」
次の瞬間には、男が床へ叩きつけられていた。
鈍い音。
悲鳴。
崩れる身体。
レンは迷わなかった。
「俺の仕事場で……俺の大事なもんに触ってんじゃねぇよ……!!」
怒号が狭い部屋に響く。
男たちは逃げることもできず、その場に崩れていく。
やがてレンは、床に蹲るMIUの前へ膝をついた。
「MIU……!」
レンは震える手で、自分の上着を彼女へかける。
MIUの身体は異常な熱を帯び、壊れたように震えていた。
「ごめん……ごめんな……」
レンの声が掠れる。
「俺のせいだ……全部……」
サイレンの音が近づいてくる。
レンは若手の襟首を掴み上げた。
「今すぐブツ全部、他の部屋に移せ。一欠片も残すな」
氷みたいな声だった。
「警察来たら、お前ら終わりだからな」
若手たちは青ざめながら、部屋を飛び出していく。
救急隊が駆け込み、MIUはストレッチャーへ乗せられた。
レンも、そのまま救急車へ飛び込む。
赤色灯が、MIUの青白い顔を照らしていた。
レンは彼女の手を握り続ける。
「死ぬな……」
震える声。
「頼むから、俺を一人にしないでくれ……」
処置室の扉が閉まる直前。
MIUの視界に映った最後の光景は、絶望に顔を歪めたレンだった。
◇
──三日後。
MIUが目を覚ました時、病室には刑事たちが立っていた。
「少し、話を聞かせてもらえるかな」
鋭い視線。
枕元には、泣きそうな顔のカイと、静かに立つユウキ。
刑事たちは問いを重ねる。
犯人は。
場所は。
通報者は。
MIUはゆっくり唇を開いた。
「……知らない人でした」
レンの名前は出さない。
あの部屋のことも。
あの日、自分を救ったのがレンだったことも。
全部、飲み込む。
「通報してくれた人も……わかりません」
刑事たちは納得しきれない顔をしていたが、やがて病室を後にした。
静寂が落ちる。
MIUは枯れた声で絞り出した。
「……レンくんは?」
ユウキが目を伏せた。
「家で待ってる。ここには来れないって……」
その言葉だけで十分だった。
レンは、警察の目を避けている。
ここへ来ることすらできない。
その距離が、MIUの胸を締め付けた。
「MIUちゃん……っ」
カイが堪えきれず泣き出す。
「よかった……ほんとによかった……!」
ユウキの手が、そっとMIUの頭を撫でる。
「帰ったら、四人でちゃんと話そう」
穏やかな声だった。
「大丈夫だから」
レンのいない病室で。
MIUは二人の温もりに包まれながら、
歌舞伎町の片隅にある、あの歪で愛おしい部屋を思い浮かべていた。
ベッドではカイが新しいヘアアイロンを試し、
ユウキはキッチンで新調したカクテルグラスを磨いている。
レンはソファに横になったまま、ウォールシェルフに飾られた景品たちを不機嫌そうに、けれどどこか満足げに眺めていた。
「MIUちゃん、最近よく笑うようになったよね」
カイが鏡越しにそう言い、ユウキも「少しは安心できてるのかもな」と微かに目を細める。
彼らにとって、この部屋は四人の幸福を閉じ込めた聖域だった。
けれど、その中心にいるはずのMIUだけが、色のない世界にいた。
MIUは、ピンクのビーズクッションに沈んだまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
止まったミラーボール。
レースカーテン越しのネオン。
重なり合う笑い声。
全部が、遠い。
カイも、自分の本当の居場所を捨ててここにいる。
ユウキの優しさも、レンの執着も、自分には重すぎる。
そして、レンのあのマンション。
あそこがレンの本当の居場所で、
この部屋は、壊れかけた自分を閉じ込めるための仮初めの檻なのではないか。
MIUはゆっくり立ち上がった。
ワードローブの下段。
そこに隠していた、以前処方された強い睡眠薬と、市販薬の箱を取り出す。
いなくなれば、みんな自由になれる。
MIUは静かに風呂場へ向かった。
皆が生活する隙間を抜けて、いつも通りの顔で。
誰も止めない。
誰も気づかない。
お風呂場の扉を閉める。
曇りガラスの扉は、ほんのりとピンクのネオンを透かしている。
うがい用のコップに薬を溢れるほど出し、水を注ぐ。
白い錠剤が、ゆっくり濁って沈んでいく。
MIUは震える手で、それを飲み込んだ。
一度。
また一度。
喉が焼ける。
胃の奥が熱い。
視界が揺れ、膝から崩れ落ちた。
けれど、数分もしないうちに声が響いた。
「おい、MIU?」
風呂場の扉が開く。
レンだった。
床に散らばる薬のシート。
倒れ込むMIU。
一瞬で、レンの顔から血の気が引いた。
「MIU!? おい、しっかりしろ!」
レンの怒鳴り声で、部屋の空気が凍りつく。
ユウキが駆け込み、無理やり吐かせようとする。
カイは震える手でスマホを握りしめた。
「……やだ……放して……っ」
混濁する意識の中で、MIUは必死に抵抗した。
愛されている。
その事実が、今は何より怖かった。
死ねなくなる前に、逃げなきゃいけない。
ユウキが一瞬目を離した隙に、MIUは玄関を飛び出した。
「MIU!!」
レンの叫びを背に、彼女は夜の歌舞伎町へと転がり込む。
視界は歪み、足元は何度ももつれた。
それでも身体は、知っている場所を辿ってしまう。
ゲームセンター。
ホテル。
クラブ。
カラオケ。
四人で笑った場所ばかりだった。
涙が止まらない。
どこへ行っても、レンの煙草の匂いがする気がした。
やがて限界を迎え、MIUは冷たいコンクリートへ倒れ込む。
視界の端に、革靴が止まった。
「……大丈夫?」
知らない男だった。
霞む視界の中、男の手が差し出される。
「助けてあげようか」
MIUは、その手を取った。
今は、三人の愛よりも、何も知らない他人の方が楽だった。
──どれくらい時間が経ったのか、わからない。
鼻を刺す薬品臭で、MIUは目を覚ました。
薄暗い部屋。
積み上げられた段ボール。
白い粉と、錠剤。
そして、見覚えのある部屋。
「……ここ……」
レンが昔住んでいたマンションだった。
かつて、自分を救ってくれた場所。
けれど今は、生活の匂いなんて何一つ残っていない。
そこは、レンの“仕事場”だった。
「あー、起きた」
知らない男たちが笑う。
「カズさんの女だろ?」
知らない名前。
下卑た視線。
乱暴な手。
MIUの身体が恐怖で強張る。
「やめて……っ」
抵抗は、簡単に押さえ込まれた。
逃げ場のない場所へ押し込まれる冷たい刺激。
暴力的な異物感が、身体の奥を焼いていく。
「あ……っ、やだ……!」
恐怖と薬で、視界が白く弾ける。
その時だった。
──ガァン!!
扉が、爆音と共に蹴り飛ばされた。
「……てめぇら」
レンだった。
手にはスマホ。
画面には、写真が貼られたチャットのやりとり。
そこに写っていたのは、倒れたMIUだった。
「やりとり全部見えてんだよ。わかってやってんだろ」
レンの目から、完全に光が消えていた。
「死にたいんだな」
次の瞬間には、男が床へ叩きつけられていた。
鈍い音。
悲鳴。
崩れる身体。
レンは迷わなかった。
「俺の仕事場で……俺の大事なもんに触ってんじゃねぇよ……!!」
怒号が狭い部屋に響く。
男たちは逃げることもできず、その場に崩れていく。
やがてレンは、床に蹲るMIUの前へ膝をついた。
「MIU……!」
レンは震える手で、自分の上着を彼女へかける。
MIUの身体は異常な熱を帯び、壊れたように震えていた。
「ごめん……ごめんな……」
レンの声が掠れる。
「俺のせいだ……全部……」
サイレンの音が近づいてくる。
レンは若手の襟首を掴み上げた。
「今すぐブツ全部、他の部屋に移せ。一欠片も残すな」
氷みたいな声だった。
「警察来たら、お前ら終わりだからな」
若手たちは青ざめながら、部屋を飛び出していく。
救急隊が駆け込み、MIUはストレッチャーへ乗せられた。
レンも、そのまま救急車へ飛び込む。
赤色灯が、MIUの青白い顔を照らしていた。
レンは彼女の手を握り続ける。
「死ぬな……」
震える声。
「頼むから、俺を一人にしないでくれ……」
処置室の扉が閉まる直前。
MIUの視界に映った最後の光景は、絶望に顔を歪めたレンだった。
◇
──三日後。
MIUが目を覚ました時、病室には刑事たちが立っていた。
「少し、話を聞かせてもらえるかな」
鋭い視線。
枕元には、泣きそうな顔のカイと、静かに立つユウキ。
刑事たちは問いを重ねる。
犯人は。
場所は。
通報者は。
MIUはゆっくり唇を開いた。
「……知らない人でした」
レンの名前は出さない。
あの部屋のことも。
あの日、自分を救ったのがレンだったことも。
全部、飲み込む。
「通報してくれた人も……わかりません」
刑事たちは納得しきれない顔をしていたが、やがて病室を後にした。
静寂が落ちる。
MIUは枯れた声で絞り出した。
「……レンくんは?」
ユウキが目を伏せた。
「家で待ってる。ここには来れないって……」
その言葉だけで十分だった。
レンは、警察の目を避けている。
ここへ来ることすらできない。
その距離が、MIUの胸を締め付けた。
「MIUちゃん……っ」
カイが堪えきれず泣き出す。
「よかった……ほんとによかった……!」
ユウキの手が、そっとMIUの頭を撫でる。
「帰ったら、四人でちゃんと話そう」
穏やかな声だった。
「大丈夫だから」
レンのいない病室で。
MIUは二人の温もりに包まれながら、
歌舞伎町の片隅にある、あの歪で愛おしい部屋を思い浮かべていた。

