歌舞伎町青宵ポリ

 その夜の食卓は、騒がしかった。


 カイがコンビニで「絶対うまい」と言い張って買ってきたチーズフォンデュが、加熱しすぎて黒焦げになっていたのだ。


「だから言ったじゃん、火が強すぎるって」

「違う違う! チーズってこういうもんなんだよ。ちょっと焦げたくらいが香ばしくて……」

「食えるか、これ」


 レンが焦げた塊をフォークで突きながら眉を寄せる。

 隣でユウキも静かに結論を出した。


「……俺も無理だな」


「えぇ!? MIUちゃんはいけるよね!?」


 カイが縋るような目を向ける。

 MIUは恐る恐る口へ運び、二秒後に顔をしかめた。


「……にが、い……」


「全員じゃん!!」


 カイの悲鳴が響き、レンが腹を抱えて笑い出す。

 ユウキまで珍しく声を立てていて、MIUはテーブルへ突っ伏しながら肩を震わせた。


 こんなに笑ったのは、いつぶりだろう。


 もしかしたら、人生で一番かもしれない。


 ――こんなに笑ってていいのかな。


 浮かんだ考えは、また笑い声の波に呑まれて消えていった。


 結局その夜は、カイが懲りずに「じゃあ俺、唐揚げ揚げる」と言い出し、跳ねた油がレンのジャージへ飛んで、またひと騒動起きた。

 ユウキが無言でキッチンペーパーを押し当てる横で、カイとレンが言い合いを始める。


「レンくん、怒らないで」


 MIUが間へ割って入ると、レンは即座に矛を収めた。


「……お前が言うなら仕方ねぇ。カイ、命拾いしたな」


 その様子を見ていたユウキが、MIUにだけ聞こえる声で囁く。


「レン、MIUには甘いな」


 耳元へ落ちた低い声に、MIUの耳がじわりと熱くなる。


 食事を終え、四人でキングサイズのベッドへ転がった。

 ネオンの光がレースカーテンを透かし、止まったままのミラーボールがぼんやり光を返している。


 レンの腕が腰へ回る。

 反対側では、カイが「MIUちゃんあったかい」と身体を寄せてくる。


 ユウキは少し離れていた。

 けれど気づけば、MIUの指先が彼のシャツの裾を握っていた。


 四つの体温が、ゆっくり混ざっていく。


 息を吸う。

 レンの煙草と汗の匂い。

 カイの甘い香水。

 ユウキの静かなコロン。


 全部が混ざり合って、鼻の奥へ染み込んでくる。


 これが“家の匂い”なのかもしれないと、MIUは思った。


 なのに、頭の奥では別の声が止まらない。


 良いことが続く時ほど、怖かった。

 幸せはいつも、壊れる前触れみたいに思えた。


 カイの母親の視線が、暗い水底みたいに脳裏へ浮かぶ。

 “帰れる場所”を持つカイ。

 自分が奪っているかもしれない未来。


 MIUはぎゅっと目を閉じ、レンの腕の熱へ意識を押しつけた。


 今だけは考えたくなかった。


 今夜だけは。





 翌朝。


「……おはよう」


 ユウキの低い声で目が覚めた。


 レンは金髪を枕へ押しつけたまま眠っていて、カイは「あと五分」と呟きながら毛布へ潜り込んでいる。


 ユウキだけが先にシャワーを済ませ、静かに支度を整えていた。


「MIU。髪、梳かそうか」


 押しつけがましくない、自然な声。

 MIUは小さく頷き、ユウキの前へ座った。


 ブラシが髪をゆっくり滑っていく。

 大きく静かな手。

 その感触が、驚くほど心地いい。


 ――こういう時間が、一番怖い。


 怒鳴り声より。

 暴力の気配より。

 こんな穏やかな時間の方が、ずっと。

 失う未来だけが、鮮明になる。


 MIUは欠けたネイルをカリカリと掻いた。

 先端が小さく剥がれ落ちる。


「MIU、ちゃんと食ってるか? 昨夜のアレは食事に入らないぞ」


「……入るよ。唐揚げおいしかったし」

「チーズが不合格だっただけで、唐揚げは普通だったな」

「ユウキくんって、ちゃんと褒めるよね。カイくんのこと」

「褒めてない。評価してるだけだ」


 その言い方がおかしくて、MIUは吹き出した。


 笑った瞬間でさえ、不安になる。

 それでも、笑ってしまう。


 レンが「うるせぇ」と寝ぼけ声を出し、カイが「おはよ〜」と這い出してくる。


 ユウキは四人分のコーヒーを淹れ始めた。

 カウンターへ並ぶ四つのマグカップ。


 MIUはソファから、その光景をぼんやり見つめる。


 もうすぐ、みんな自分を嫌いになる。

 なぜか、そんな確信だけが消えなかった。


 カイの母親みたいに。


『あなたは違う世界の人』


 そういう目をして、離れていく。


 だから今だけ優しいのかもしれない。

 終わる前だから、こんなにも幸福なのかもしれない。


 MIUは胸の奥を締め付けられながら、レンを見つめた。

 レンが振り返り、目が合う。


「なんだよ、そんな顔して」


「……なんでもない」


「嘘くせぇけど、まあいい。コーヒー飲むか」


「……うん」


 差し出されたマグカップを、両手で包み込む。

 熱かった。

 レンの体温みたいに。


 胸の奥へ溢れてくる不安を、MIUはコーヒーと一緒に飲み込んだ。


 窓の外では歌舞伎町が動き始めている。


 止まったミラーボールが、朝の光をばらばらに砕いていた。


 四人の影が、一つに重なって。


 また、静かに離れていく。